頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

【固定記事】いとをかしき言葉のお話

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

 

 

 

言葉はその人自身

皆さんは言霊という考え方をご存知でしょうか。

 

言霊とは、古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。

発した言葉通りの結果を表す力があるとされた。

 

 

という意味合いらしいです。

 

いろいろ個人で感じ方に違いはあると思いますが、わたし個人は言霊は存在すると思っています。

友人や上司に言われた言葉で傷つくという現象も、言われた言葉がずっと残っていて胸につっかえるという現象も、言霊が存在しないと起こらないと思うのです。

 

またその言葉は、思考を使わないと発せられることはありません。

 

 

言霊の話とはすこし離れますが、全ての物事や現実は、思考の後に生まれると考えています。

戦国時代に「電話を使えば、遠くにいる親類と会話することができる」と話したところで、だれも相手にしないでしょう。

下手をすれば「邪教を布教しようとしている!」と言われて打ち首に処せられる危険さえあります。

 

憶測の域を出ませんが電話を作ろうと考えた人も、「離れた人と話せるわけがないでしょうに」と外野から笑われていたのではないでしょうか。

しかし今では当たり前となっています。

成功者の特徴として他者から"笑われた経験がある"というのは、ひとつの指標になるのではないでしょうか。

 

 

言霊

言霊の話に戻ります。

すこし眉唾な話に聞こえると思いますので、話半分にでも聞いていてください。

 

日本語にはとても大きな力が含まれているらしいです。わたしはまだ不勉強なので、ちゃんと説明はできませんが、カタカムナ文明や、カタカムナ文字の48音と現代日本で用いられている48字の一致などです。

カタカムナでは「ひふみよい」や「むなやこと」とかと言ったりするんですが、「いち、に、さん」と今では読んでいる「12345678910」も、むかしは「ひふみよいむなやこと」と読んでいたらしいです。「ひい、ふう、みい」ですね。

 

またあまり知られていませんが、第二次大戦で負けた後にGHQが日本を占領統治しましたが、そのGHQが日本の漢字を無くそうと画策しました。

「漢字というものは複雑にすぎる。あんなに難しいなら識字率も低いだろうし、それが原因で思想も偏る。結果戦争に繋がるだろうから漢字なんて廃止してしまえ」というロジックだったみたいです。

その後全国で一斉に識字率調査を行なった結果、全体の97%くらいが日本語を読み書きできたそうです。

 

漢字廃止計画は頓挫しましたが、神風特攻を生み出した民族を恐れていたGHQですから、どうしても日本の国力を下げたいために漢字の書き換えを行います。

氣を気にしたり、國を国にしたり、學を学にしたり、靈を霊にしたり。

理由等はこちらの動画様で話されていますので、ご覧になってみてください。

youtu.be

 

 

この前太宰治さんの短編を読んでいたら『慾』という字が出てきました。読みは「よく」

意味は欲望の「よく」と一緒ですが、現在の日本では『欲』が一般的です。

これもGHQの言語統制・言語統治でしょう。心が消えていますね。

 

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https://www.shinchosha.co.jp/book/100606/

 

中學時分は夏目漱石さんの旧字体で刊行された時の文庫とかの文學を読んでばかりいた為、旧字体にも馴染みがあったので特段無理なく受け入れることができました。

ですが、生まれてからも成長してからも目で考えていた人には意識を書き換えるのは苦労なさるでしょうね。

ヒトは考える場所が「心・頭・目」の三つあるとわたしは思っているのですが、その話も機会があればまたお伝えいたしますね。

 

 

同じ意味の漢字でも効果が違う?

なにが言いたいかというと、思い浮かべている漢字次第でも言葉の意味が変わるんじゃないかということです。

GHQの統治前は教科の名称が「國史」だったけれど、現在の學校教育下では、「歴史」になっています(こうの史代さん原作の、映画『この世界の片隅に』でも國史と描写されています)。これは「自國の歴史ではないように刷り込ませる為」であったりするらしいです。

 

 

わたしが非常に氣分良く思わない言葉があります。

「雰囲気」を「ふいんき」を発音している人が多すぎる。正しくは「ふんいき」です。

また、漢字ごとに考えてみると、雰は氣配・囲はとりまく・氣はエネルギー。

つまりその人の纏っているエネルギーという意味合いになります。つまりオーラと同義でしょうね。

それを正しく言わずに「ふいんき」と発音するというのは、その人自身のオーラ(エネルギー)を反故にすることなのではないかと感じます。

 

なにかで、「新しく納めた國や土地は、まず最初に言語を書き換えるのが大前提の常套手段」と聴いたことがあります。

漢字は亡くせなかったけど、言靈的な意味から無効にしてから75年くらいですか。

現代日本でも着々と言語の書き換えの刷り込みが行われていますよね。台所をキッチンと言ったり、鶏肉をチキンと言ったり、まな板をカッティングボードと言ったり。

言語の統制話は華氏451度にも通じますね。

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https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/11955.html

 

このお話は、前回に書いた一九八四年の話とも繋がりますね( ¨̮ )

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

文字通り流れて行く言葉と、昔からある言葉

あと個人的に流行り言葉にも不満を感じるんですが、これは若い世代についていけないだけでしょう。

でもその時代だけのスラングみたいなのばかりの文章は、パッと見ただけでも非常に頭が悪く見えてしまうのだなという発見があったので有難い経験だったと思います😉

 

またそれにより逆に思うのは、「昔からある言葉の力」です。

最近の流行り言葉だと「エモい」とかなのでしょうか。あと比較例として「鬼」や「神」もありますよね。

12,3年前に爆発的に流行った「KY」という略語も今ではめっきり聞きません。

ここからわたしは「言語って結構残酷に、かつ容易に淘汰されるんじゃないか?」と思いました。

 

わたしはギターを嗜んでおり、今年で14年目くらいになります。

高校生の時分には「とにかく早く上達するコツ」を求めていたのですが、上達するには「今現在でできることを日々積み重ねるのが一番手っ取り早いと氣づきました(今現在できることを日々積み重ねていると、「これをこうしたらどうだろうか?」という閃きが生まれます)。それを理解したのがつい半年前とかです。

これって「急がば回れ」ということではないでしょうか。

 

他には「人のふり見て我がふり直せ」を実感したお話もあるのですが、非常に印象的かつ"いとをかし"な出来事で、いざ書くとなるときっと長くなるので、また今度個別の記事にしたいと思います。

端的にいうと『他者を通して自分を見ている』です。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

上記した昔からある言葉は、わたしが認識しているだけでも、祖母祖父の代からは存在していて、淘汰をされていません。

一時的な言葉が10年そこらで淘汰されるているのに対して、90年近くも生き残って、語り継がれていると言うのは、その言葉自体の言靈的な力が働いていたり、ヒトがヒトの世を生きるにおいて、ある種の真理を含んでいたり真理に触れていたりするためではないでしょうか?

 

 

ちなみにわたしが「エモい」という言葉が嫌いなのは、「自身の語彙の貧弱さを改善する氣もなくその貧弱さに胡坐をかいている姿勢が見えるから」です。簡単に言えば向上心がないということでしょうか。

「精神的に向上心のない奴はばかだ」

 

もういっこちなみに、「語彙力」という言葉が幅を利かせていますが、「語彙」は英語でボキャブラリーです。ボキャブラリーは豊富や貧弱と言われるように『量』です。

その量が能力というのはおかしな話なので、「語彙力」という言葉は根本から破綻しており、「語彙力」という言葉をそのまま使う方は、語彙も國語的な言語能力も貧弱だと、わたしは思います🌝

 

 

「無い物ねだり」という言葉があります。

『ないものを欲しがること・無理なことを望むこと』という認識が一般的で、わたしもその意味合いだけだと思っていたのですが、『自ら無い状態や不足感を望む』ことでもあるのではないか?と思いました。

不足感や、理想像などの目標が常にある方が頑張れて充実を感じられるから。

不自由な方が自由にできる』みたいな話ですね。

フレーミングの癖をつけていると、ちょくちょくこういった閃きがおりてくるから楽しいです😚

 

 

『無いものねだり』の話を描きたいだけだったのに、他のずっと思ってたことを書いたら3500字以上も書いちゃってたわ😘

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

大陸的価値觀

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

最近YouTubeにて見たので(事実かは不明で)すが、イタリアのテレビ番組で日本の生活?が取り上げられたらしいです。

 

ある場面で觀客のイタリア人さんたちは大笑いが起きたそうです。ですが、その数秒後に賛嘆の声が巻き起こったとのこと。

 

その場面とは、電車の乗降車でした。

 

 

電車が駅舎に入ってきた時に乗車をする人間が、電車の扉の左右に別れた(ここで大笑いが発生)。

電車から降車する人がいなくなってから、左右に分かれていた乗車希望者が電車に乗り込んだ(ここで賛嘆の声)。

 

我々日本人としては至極当然の行動ですが、イタリアでは衝撃的だったということですね。

 

と、いうのも、イタリアでは降車客と乗車客とが我先に行動するのだそうです。

そのために乗車・降車をしたくてもできない人がいたりするのだそう。

 

普段からそういった生活をしている方々からすれば、日本人の乗降者は滑稽でありながらも非常に理にかなった無駄のなさには、大層衝撃的だったということですね。

 

とはいえ、わたしは「そりゃ大陸とは違うからなぁ」と思います。

 

 

日本は島國で、過去は勢力爭いを行なったこともあったそうですが、長らく一つの政府が統治しておりました。

というより、そもそもとして縄文の価値觀があるので調和の価値觀が遺伝子レベルで根付いているでしょう。

 

ですが、イタリアを含めた大陸は侵略と統治、略奪の歴史が繰り返された文化圏です。

侵略をしなかったら侵略をされ、侵略に備えて虎視眈々と爪を研いでいる。。というのが、わたしの大陸に対して持っているきっと偏見も篭っているであろう印象なのですが、「侵略をしなかったら侵略をされる」という意識は、『電車で乗降者が我先に行動する』ことにつながるのではないでしょうか。

 

それこそ大陸は昔々から侵略をし合ってきた歴史があるため、我々日本人に調和の価値觀が遺伝子レベルで根付いているように、大陸の方々には《我先に》の価値觀が遺伝子レベルで根付いているのかしら。だから電車の乗降者にもそれが反映されるのではないのかしら。と思ったお話でした。

 

 

ちなみに聞くところによると、中國ではいまだにそれぞれが『漢民族として』などの誇りを持っていらっしゃるそうですね。

 

 

大陸的価値觀は日本の価値觀とは違うよねー、と思いながらも、昨今では降車する人を待たず我先に乗車せしめようとする人も散見致しますね。

これも日本人がじんわりと《漂白》されている結果だったりするのだろうな、と思います。

 

ま、とはいえ、どうぞお好きに。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

🌾=🌞

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回の内容は久しぶりな漢字の内容です。

 

めちゃくちゃ直感由来なので話半分に聞いていただきましたら幸いです。

 

 

以前に何かのきっかけで「放射状」という言葉を耳にしました。

『放射状』とは「中心点から外側に向かって四方八方に広がること」を指しますが、『放射状』という言葉を聞いた時に【米】という漢字を想起しました。

「 "米" って漢字も放射状だよなー」という具合です。

 

そのほか、『放射状』は光を見たときにも感じますが、この時に思ったのです。

「 "米" って、太陽光を見て思いついた漢字なんじゃない?」

 

これを思い至ったのち何度か太陽を見てみましたが、全てにおいてその光は放射状に見えました。

 

今でこそ強い光は様々なところで見ることができるので、別に太陽光だけが放射状に見える光というわけではありませんが、その昔は強い光は太陽光だけだったはずです。

 

そして、太陽というものは色々なものを元氣付けます。

それこそお野菜・植物の類は太陽が不可欠ですし、太陽光が生活に不可欠なのは人間を含めほとんどの生物が該当するでしょう。

 

 

また日本人はお米を食します。

我々生物は食べたものから栄養とエネルギーをいただいているわけですが、《主食》というものがあり、我々日本人はその主食がお米です。

つまり、お米からエネルギーを得ている。

 

そのエネルギーを生んでいる大本として太陽もある。

太陽とお米から日本人はエネルギーを得ている。

 

農作業をしている時にふと見上げた、太陽光の放射光から【米】という漢字が発生したのではないか、という仮説でした。

 

 

もともと【氣】ですしね。

【氣】はそのままエネルギーという意味合いでもありますし。

その【氣】が「気」になってから日本人は活発ではなくなったとも言いますし、米の國として奪われもしておりますし。

アメリカは漢字を廃止しようとしていたのは何度も言及した次第です。

 

 

ああ、菊花紋も旭日旗も放射状だ。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

三本立て

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回はここ最近で感じたことの雑記三本立てです。

 

組織人には根本的に向いていない

わたしは労働をしております。

前回、労働の場で感じたことを書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

管理者を見事見送られたわたしですが、最近思うことがありました。

 

わたしは日々業務を効率化したいと(樂をしたい)思っています。

 

そのため「これってこうしたら良いんじゃない?」と思いつくことがよくあります。

その思いついたことは実行しないと氣が済まず、実行(自分の操作内での試運転)した結果『樂できんじゃね?』と思ったので、管理者にプレゼンしました。

しかし、管理者の反応は芳しくない。

 

「ちょっと確認してみますね〜」との返答で、わたしは自席に帰りました。

 

 

この時にわたしは思ったのですが、わたしは、組織人には根本的に向いていない。

 

わたし個人としては『これあった方がよくない?』と思ったので提案を行った次第ですが、その『これあった方がよくない?』が独善的でもあるのだなと感じました。

 

わたしが提案した『これあった方がよくない?』に対して、管理者の立場からすると「別に一般的なこの手法でよくね?」であったり「それを実装したことで混乱が発生したらよくないよね」という考えが強くあったので、反応が芳しくなかった。

 

わたしは自覺なく独善的な部分があるようです。

独善的ということは、ワンマン的に突っ走る可能性が考えられる。

管理者の立場というのは、『《組織人として稼働すること》をより求められる立場』なのではないかと感じるのですが、そんな独善的な人間に組織人の働きができるの?と懸念があり、わたしの管理者希望は見送られたのではないか、と考えた次第です。

 

まぁ、「協調性がねえ」という理由以外に圧倒的で致命的な理由があるのかもしれません。

 

 

と、その組織人への矯正施設として義務教育や學校があると感じています。

わたしには學がないですが、「勉強ができるお莫迦さんも多いからね」と負け惜しみとも取れる思いも持っています。

「勉強= "他者が規定した価値" を有難がって自分で考えていないなら世話ねえな。手前え自身で考えて決定しないと意味ねえぞ。《他人の価値觀》で生活してたら、手前えの人生は手前えじゃなくてもいい」と考えて生きたり生活したり腐ったりしているのですが、上記を考えていて笑いました。

『勉強ができるお莫迦さんは多い』と考えている人間が組織人として生きていけるわけはねーよな。

 

 

ギターって奥が深い

わたしはギターを嗜みます。

 

最近、昔作った曲の再録音をちびちびと行なっております。

ギターソロで満足できるものが録れて嬉しいです✌︎('ω')✌︎

 

そんなギターソロの録音中に氣付いたこと。

普段の練習を行う際、脱力を意識して運指を行なっているのですが、ギターソロを弾いている時に「ぐっ」と力を入れたり、スライドをして特定の場所で止める際に「クッ」と意識して止めたほうが理想の演奏ができたのですね。

 

なので、脱力で運指を行うだけではだめ。必要に応じてコントロールをしないと。ということです。

『適材適所』というやつですね。めちゃくちゃ初歩的な意識です。

 

 

八十八ヶ所巡礼さんの曲で『泥春』というものがあります。


www.youtube.com

 

お三方もちろん樂器がお上手ですが、個人的に注目すべきはベースヴォーカルのマーガレット廣井さんの運指です。

左手で指板(各弦の音程を調節する場所)を押さえるときの動きが滑らかすぎるんですよね。

それはさながら弦を撫でているよう。

 

どういったわけか、樂器は突き詰めると脱力に行き着くみたいです。

弦を押さえる時に不要な力が入っておらず、必要最小の力だけかかかっているので、ネックが動かず、指板上を指が軽やかに踊っているよう、撫でているように見えるのです。

 

さて、わたしは数えるところ十六年以上ギターを嗜んでおりますので、正直脱力してネックを動かさずに運指をすることはできます。

しかし、前述したギターソロでの氣付き以降の今だから思うのですが、つい最近までの自分のギタープレイは過脱力でぽやっとした音像になっていたな、と感じます。

減り張りがなく、つまらない演奏だったのかな、とすら思います。

 

脱力だけではだめ。

時には、自分の理想とする音を奏でたいのであれば、「クッ」と力むことも必要。というわけです。

いやぁ、ギターって奥が深いです。愉しすぎる。

 

弦にピックを当てる場所やピックの角度でも音は変わりますからね。

その機微を自在に操れてこそ、手練れな演奏家ってやつです。

精進します。

 

 

そんなように氣付き、その減り張りを習得するために今日もギターを弾いていました。

Plastic treeさんの『マイム』という曲が好きで、イントロのフレーズを弾いている時に「もっとプレイをタイトにしないと」と思ったのですが、その時にギター講師の方から昔言われた「君は音符を最大限まで感じて次の音に移動するイメージで弾いているかい」という言葉を思い出しました。

 

「つまり、四分音符が二つ並んでいたとしたら、初めの四分音符をちゃんと四分音符分の長さ感じた後に、二つ目の四分音符を弾くように意識をしているか、ということだ」

 

上記をその講師の方に言われた当時は全く腑に落ちていなかったのですが、今日『マイム』のフレーズを弾いている時に、バッッッと去来しました『「「これのことか」」』

音符を適切な長さ意識しているからこそ、脱力も含んだ減り張りのある演奏を行うことができる。全く奥が深い。

 

如何せん腑に落ちるのが遅い氣もしますが、物事には時期時節がありますからね。

 

いやぁ、ギターって奥が深いです。

一生弾くんだろうな。

 


www.youtube.com

 

 

置き配

ホヤホヤ。

海鞘。

 

本日労働を終え、街を歩く機会があったのですが、その際にデジタルサイネージという電工広告通知装置を見かけました。

機械ではその日に発表された様々な時事が掲示されていました。

 

そんな時事の中で目を引いた一つの記事。

ヤマト運輸が六月より全面的に "置き配" の運用を開始』

 

その記事を見て「あーやっぱそうだよねー」を思ったわたし。

 

 

わたしは置き配は好きではありません。

基本的にインターネットで物品購入をしないのでそんなに配送自体に昵懇な関係ではないのですが、たま〜〜〜にインターネット購入を利用した際は対面での受け取りか宅配ボックスへの入庫をお願いしています。

 

置き配否定派の理由としては、単純に防犯上の理由です。

それと盗難防止。

 

置き配のことを詳しくないので古い情報なのかもしれませんが、一度置き配にて商品が配達された際に配送伝票を見たら名前が普通に明示されておりました。

「おい!!」と思って、それ以来前述の通りなのですが、単純にどこに誰が住んでいるかとか丸わかりじゃないですか…??

それこそ女性は危険じゃねえの?と思います。

 

もちろん、対面で受け取る際に配達員の方に暴行を受ける、という危険を考えたら置き配の方が幾分かはマシなのかもしれませんけどね。

 

いやー、だとしても考え方の古い人間は懸念と懐疑が拭えません。

 

 

しかし、昨今の人類総多忙社会な世であれば『対面で受け取りたくても機会がない』という事情もあるのでしょう。

あと便利とか。

どうやら人は便利よりも不便という感情に動かされるみたいですからね。

floodinhead.hatenablog.com

 

と、上記なことをディジタルサイネージ機会広告時事を見て考えていましたが、ふとある恐ろしい考えがむっくりと顔を上げたので、思わず恐怖しました。

「これでダンボールの中に爆発物とかが入っていても警戒されないよな」

 

はっきりと恐怖しましたが、伊坂的すぎるか、と思って苦笑しました(そもそも伊坂的か?)。

その苦笑は本当に考えを一笑に付すためのものだったのかは自分ではわかりません。

 

いやあ、ネガティヴに考えようと思えばどこまでもネガティヴにできますからね。

わたしはロシアンブルなのかしら。

 

 

ビール ~あとがき~

最近ビールをよく嗜んでいるのですが、ストレスがたまっているんだろうなぁ、と思います。

人間はストレスを感じると苦味を求めるらしいですからね。

 

最近再読した『虐殺器官』では「ドミノ・ピザバドワイザー」がアイコン的に登場するのですが、それに触発されてバドワイザーを飲んでみたら、おいしかったです。

 

初めて缶ビールをコップに移し替えて飲んだのですが、なんか違ってよかったです。

 

それを友人に話すと、『移し替えることで炭酸が抜け、飲みやすくなる』とかなのだそう。

確かに一回で注ぎ切るのではなくて何回かに分けたから、それかもしれません。

 

また今度ドミノ・ピザを食しながらバドワイザーを飲みますね。

 

Alc.はなるべく飲まない方がいい。

 

 

 

今日の雨でほとんどの桜が散るんでしょうね。

春は好きではないけど、桜やお花が綺麗なのでまだ憂鬱になりきらないですね。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

改革者と運用者

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

労働にて

わたしは労働を行なっております。

労働の場にて、以前より数回打診されていた管理者の立場になりたいと、先日主張してみました。

 

以前に打診されていた際は管理者になることを断っていたのですが、その理由は『あまり興味がない』というものです。

それがどうして今回になって氣が変わったかというと、自分がしたいことが管理者の範疇であったから、です。

『自分のしたいこと』というのは、業務を行うにおいての便利ツールを製作する、などです。

これは自負も含まれているのでしょうが、確実に便利でとても使える物を作ったと思っています。

 

以前までならば現時点の立場にて自分のしたいことを行えていたのですが、管理者側の体制変更からか、そういった管理者の範疇のものは管理者が制作するという運用になりました(明言はされていないので、あくまでもわたしの憶測も混じっています)。

 

これが、わたし個人としては困る、というかあまり快く思えなかったために、管理者に自身立候補いたしました。

 

結果をいうと、見送りでした。

 

 

「なんでだめなんだよ」とくさくさしておりましたが、どうやらその理由がわかったやもしれないと思ったため、今回記事として残します。

 

まず、管理者見送りの理由は聞いておりません。

「人として向いていない」なのか、「まだ時期じゃない(あるいは『今更遅い』)」なのか、「管理者向きの特性ではない」なのか、知りませんし、先に挙げた三つのどれでもない理由で見送りになったのかもしれません。

わたしには知る由もないのですが、そんな知る由もないものだからこそ、思い至ったことがあります。

 

 

様々な特性

人間には色々なタイプがあり、『0から1を生み出す人』や『1を10に展開する人』、『10を100にしたり10を運用する人』など様々です。

 

わたしは上記の中からであれば『0から1を生み出す人』に分類されると思う(こういった記事を書いたり、曲を作ったりするため)のですが、そもそもとして『0から1を生み出す人』は管理者には向いていないのではないのかと思ったのです。

管理者が向いているのは『1を10に展開する人』や『10を100にしたり10を運用する人』ではないか、と考えます。

 

 

前述したようにわたしは業務の効率化を担う便利ツールを作成したのですが、この行いは『0から1を生み出す人』のものです。

 

ですが、管理者は会社や部署を運用する能力も求められる役職です。

わたし自身も思うに、わたしは生粋の『0から1を生み出す人』であると感じるので、そもそも管理者向きではなかった。ということなのではないのか?と思いました。

 

 

改革者と運用者

『0から1を生み出す人』は改革者であり、『1を10に展開する人』と『10を100にしたり10を運用する人』は、そのまま運用者です。

運用者には《組織を運用する》目的があるので、わたしのような改革者が入ってくると "それまでは問題なく機能していたシステムが組み替えられる可能性" がある。

それをされると運用者はストレスですし、改めて組織運用の運動・体系を組み直す必要がある。

 

 

これらを考えたら、納得することがあります。

前述した業務効率化の便利ツールの構想を、その当時管理者に提案してみたところ結構否定されました(その理由自体は納得できるものです)。

この一連の流れも、運用者の視点から考えてみれば「運用するのはこっち側なんだから仕事増やさないでよ」であったり、「結局作るのはこっちなんじゃないの?仕事増やさないでよ」といった感情の機微があったのかもしれません。

そうなのであれば、否定されたのは納得であるとも言えます(単純に「立場が下な奴が意見してくんなよ」と思っていた可能性もある)。

 

さてはて、管理者から否定はされましたが、わたし自身その便利ツールは「 "確実に使えるもの" だ」という確信があったため(他の管理者から「ええやん!よさそうやん!」と言われていたこともあり)、業務の空き時間を見つけては地道に作り、いざ完成したものは今でも一定の支持を得ています✌️

 

 

あと、わたしは基本的に『楽して業務がしたい!』と考えているので「効率化して業務が楽になるなら他の人にもその効率化の方法を知ってもらった方がよくない?」と思っており、《可能性や選択肢を提示したい》という考えなのですが(方法を提示してその人に合わないのであれば、別にそれで良い。わたしが伝えた方法をしなくてもよい、という考え)、これも改革者としての要素であるのかな?と思います。

なので、前述の管理者のように『方法があるのに提示しない』という姿勢を取っている人に対しては「てめえ何考えてんの?」と思っています。

手の内を見せなかったら拡大も発展もしねえだろ、という価値觀ですが、《管理を行う者》としては『方法はあるけど提示しない』というのは百点の行いなのでしょう。

 

 

ただわたしの課題点としては、パッと見で使い方がわかるものを作っていない(うまく使いこなすには説明が必要)ことですね。

結局のところ誰が見ても使い方がすぐわかるものを作れていないなら、それは自己満足の産物ですからね。

精進します。

 

 

「相手の話を最後まで聞け」

ところで、この世の中って相手の話を全て聞く前に結論づけて、自身の返答を考えている方が結構多いみたいですね。

結局その人の自由ですし、損をするのはその人自身なので別にどうでも良いっちゃ良いんですが、相手の話を聞き終わる前に答えを考えているって、それはつまり『相手の話を聞いていない』ということと同義なんですよね。

そして、そういう人に限って相手の質問したいことを正確に読み取れていない。

それは『相手の話を聞いていない』からなのではないか、と考えています。

 

これはわたし個人の意見ですが、『相手の話を最後まで聞かずに途中で返答を考えている人』は阿保でしかないと思います。

 

まぁ損するのはその人なので好きに生きたらいいと思うのですけどね。

 

 

學ぶことは多いですね( ´・◡・`)

 

ありがとうございました( ´・◡・`)

 

嘘の中に真実を混ぜる、という構造

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

幾度かで記事のネタにいたしました、伊藤計劃さんの著作『虐殺器官』を読み終えました。

 

いやぁ、面白かったです。

 

読後の記事ですが、ネタバレ含む感想ではなく作中にて触れられていたことに対しての内容です。

 

 

言語政策

前回の記事にて登場いたしましたジョン・ポール氏を追って、チェコプラハに来た主人公のシェパードさん。

ジョン・ポール氏の恋人であるルツィア・シュクロウプさんとの会話でだったか、チェコという國を紹介する場面でだったかで『チェコ公用語チェコ語だけど、その昔公用語政策によってドイツ語が公用語にされていた。

その名残で、チェコでは母国語のチェコ語とドイツ語の両方が通じる』とそのようなことが書かれていました(ちなみにチェコ出身の小説家、フランツ・カフカさんはドイツ語で執筆を行っていたそうです)。

 

公用語政策かぁ」と思ったわたしでしたが、その時に「実際にあるのかしら」と思って調べて見たところ、ありました。

 

最近?だとカナダでフランス語が公用語として認められたり、アフリカの國でもヨーロッパによる侵略統治の云々でフランス語が公用語になっている國があるそうです。

 

この公用語政策は『言語政策』と呼称される方が一般的なのだそうですが、言語政策を超端的に言えば「統治者が統治をしやすいようにその土地の文化を入れ替える目的」があって行うものだそうです。

宗教觀や文化・俗習は、その土地の言語から端を発している場合が多いから、根っこから価値觀を入れ替えるために公用語を変える。ということです。

なかなか過激なことをしますよね。

 

言語政策のことをちょろっと調べた時に「ひえ〜〜〜、悪ど〜〜〜〜」と思いました。

 

が、その時に思い出しました。

「日本も言語政策されていたよな」って。

 

 

失敗のGHQ

わたしはこのブログで再三話しておりますが、実は敗戰後の日本でGHQは日本語を無くそうと画策しました。

floodinhead.hatenablog.com

 

しかし、今日も我々は日本語を用いているので、とどのつまりアメリカの思惑は失敗に終わったのですが、失敗の歴史は《教育》では教えられません。

威張りたいものが自身の失敗を自ら晒すわけはないですしね。

 

閑話休題

日本語を廃止し公用語を英語にしようと画策したアメリカの言語政策は失敗に終わりましたが、その理由は複数あるようです。

そのうちの一つは、当時の識字率調査で日本人の識字率が脅威の97.2%を叩き出したこと。もう一つは日本人に英語を教えたところ、すぐに言語習得をしたものだからアメリカ人自身が危機感を覺えた(日本人が英語を話せるようになると、アメリカ本國にやってきて天下を獲る可能性=アメリカからすれば侵略される可能性があるから)ことなどがあるそうです。

思惑が失敗に終わった当時のGHQですが、苦し紛れに?アルファベットという世界で誰も使っていないものを《教育》に組み込むことにし、結果、今日でも日本人はほとんどが英語を喋ることができません。

 

これまでは以前にも書いた内容です。

 

 

頭をかかえる、ソフト面での《漂白》

この間拝見した動画にて静岡おでんが紹介されておりました。

その紹介文にて「黒いスープとネタが串に刺さっているのが特徴」とあったのですが、その文面を見たわたしは頭を抱えました。

 

これも再三わたしが嘆いていることなのですが、日本語をわざわざ英語に変換するキャンペーンが着々と進んでいますよね。

鶏肉をチキンと言ったり、眼鏡をアイウェアなどと言ったり、ごはんをライスと言ったり。

今度はスープかぁ、と嘆きを感じます。

 

おでんならお出汁でいいじゃん。

何でもかんでも英語にしたがる感じ、個人的な意見としてはっきり申しますが阿保くさくて莫迦らしい、ほとんど自分では何も考えていないのではないか、と思います。

 

 

別にわたしはなにも全ての言葉を日本語で言えと主張している訳ではないです。

英語の名前で舶来したものについては英語の名前で良いのです。

ピザやヘッドフォンやらPCやらラーメン。

 

ラーメンならスープでも良いです。

でもおでんやおうどんなどの日本のものなのに、お出汁でなくスープと表現する理由が不明であると感じます。

 

 

言語政策で惨敗したアメリカ、および大陸的文化(侵略・略奪の価値觀)。

ですが、実際には超長期間で連綿と日本語の衰退・廃止が続いているのではないのか、と思います。

 

《漂白》はじりじりと進んでいるという可能性、を念頭に置いておくことは重要ではないか、と思います。

《漂白》はソフト面の侵略ですかね。

 

 

嘘の中に真実を混ぜる、という構造

ところで、《SF》というジャンルは『フィクション』という言葉が付いているからか、どこか軽んじられているようにも感じますが、その実は真実などを組み込みやすい、そして実際に圧倒的な真実が組み込まれている場合も多いのじゃないかな、と思いました。

あと単純に物語が【フィクション】だから、ですかね。

 

全ての【フィクション】は、実のところ現実に端を発して生まれているんですけれどね。

 

そういった『嘘の中に混ぜられた真実』を見つけるためにも、本は読まないといけませんね。

 "さも真実のように見せかけた嘘" では頭が腐ってしまう。

 

え、『もう腐っているだろ』って?

‾\_(ツ)_/‾

 

 

ちなみに最近、わたしはハッピーターンの『まぶされている粉が超増量している商品』を初めて食べました。

 

感想なので個人差はありますが、わたしにはこの商品は口に合いませんでした。

なんというかくどい感じが受け付けなかったのと、侘び寂びを感じなかったのが理由です。

食べながら「この侘び寂びのない感じ、アメリカみたいだな」と感じました。

めちゃくちゃに偏見であり、アメリカはとばっちりだと思います。

 

やっぱりスタンダードな方がよいな、と思ったのですが、この感覺はわたしが老いて来たからなのでしょうか。

 

 

 

あ、そういえば再三紹介しているジョージ・オーウェル氏の『一九八四年』でも【ニュースピーク】という言語を用いた言語政策が行われていましたね。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

知らん間に発生してる思考誘導

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

ジョン・ポール曰く

再三、記事のネタにしておりますが、わたしは現在伊藤計劃さんの『虐殺器官』を読んでいます。

 

もうあと五十頁を切っています。

 

 

虐殺器官』ではジョン・ポールという言語學者さんが登場するのですが(最初に見た時、「The Beatlesか??」と思いました)、そのジョン・ポールさんがある場面で下記のようなことを言いました。

 

『仕事だから』

十九世紀の夜明けからこのかた、『仕事だから仕方ない』という言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間たちから、どれだけ残虐さを引き出すことに成功したか、君は知っているかね。

仕事だから、ナチはユダヤ人をガス室に送れた。

仕事だから、東ドイツ国境警備隊は西への脱走者を射殺できた。

仕事だから、仕事だから。

兵士や親衛隊である必要はない。

すべての仕事は、人間の良心を麻痺させるために存在するんだよ。

資本主義を生み出したのは、仕事に打ち込み貯蓄を良しとするプロテスタンティズムだ。

つまり、仕事とは宗教なのだよ。信仰の度合いにおいて、そこに明確な違いはない。

そのことに薄々気が付いているようだがね。誰もそれを直視したくない。

 

上記の文章を読んだ時、はっとしましたが、同時に「そりゃあそうだよな」とも思いました。

 

 

仕事は宗教

ジョン・ポールさんは「すべての仕事は、人間の良心を麻痺させるために存在するんだよ」とも言っています。

考えてみれば、詐欺のような営業をしている大企業でも、その詐欺とも認識できる業務を行なっている理由を問えば「だって、仕事だから」という返答がされるのだろうと思います。

 

 "仕事をする理由=自分(と自分の周囲)の保存のために行うこと" だと短絡的に考えることができますが、あれ?やっぱりこれは『自分を最優先する=自分自身に対して信仰している』になるのではないのか?

 

だとしたら自身の身を滅ぼすようなことになってまで、仕事に従事する理由がわからない、と思いましたが、その理由こそ【仕事】は【宗教】になっているからなのでないか、と考えられます。

 

【仕事】を《信仰》しているから(狂信?)、身を滅ぼすほど働く。

 

 

プロテスタント』はアメリカにて主流のキリスト教分派だとしか認識していなかったので、この度辞書で意味を引いてみましたら【プロテスタント】とは「キリスト教カトリック教会に対して反抗・勢力改革した一派」という意味なのだそうですが、つまりは『宗教組織の新派』ということですね。

 

であれば、【仕事】は『一神教宗教』においての《新興した教祖・信仰対象》ということになりますね。

 

思わずウーム、と唸ってしまう意見です。

 

 

実のところはとても深い信仰を行なっているが、近現代は宗教を否定している。

本当は【仕事】を信仰しているが、宗教や信仰を否定しているために、その事実を見ないようにしている。

 

ジョン・ポールさんが「仕事は良心を麻痺させる」と言っているように、人間の世界というのは『いかに莫迦でいられるか』の勝負なのではないかなぁ、と感じます。

 

 

ところで、このジョン・ポールさんが話している内容って伊坂幸太郎さんの作品でも言及されていましたよね。

どの作品だったか、失念しちゃっているのですが、その作品にも「戰場でどうして人を殺したんだ、と兵士に聞いたところで『仕事だからだよ』としか返答されない」的な内容が書かれていました。

 

そういえば『モダンタイムス』では「仕事を細分化していくと、良心が消える」とも話されておりました(上記にて大企業の例を挙げましたが、組織が大きくなるほどに部署などが細分化していくようなので、《大企業ほど良心が希薄》という構図は必然なのかもしれません。)。

 

やはり、まともに考えることができるのであれば、そこに言及するのは当然なのかしらね。

 

ちなみに、このジョン・ポールさん。

個人的にはかなりカリスマのある人物だとは思うのですが、主人公のシェパードさんが言っていた通り『狂っている』人物だとも思います。

 

 

知らん間に発生・進行してる思考誘導

ところで、わたしは小説にて登場する人物の容姿や風貌が細かく言及されていても、その容姿通りを想像するのではなく、話しぶりなどの印象から俳優さんなど、有名な人を登場人物に当てはめます。

 

上記にて登場しましたジョン・ポール氏ですが、わたしの印象的に俳優のジャン・レノさんっぽいなと思い、イメージしていたのですが、このジョン・ポールさんをジャン・レノさんの容姿で思い浮かべていたのって『ジョン』と『ジャン』とが見た感じの字面で似ていたから、脳が無意識にそうイメージしたのかな?と、今日思いました。

 

上記したようにジョン・ポールさんが『言語學者』であることと、ジャン・レノさんの落ち着いた印象が似ていると判断して、という意識下の理由はありますが、実は無意識で字の並びが似ていると感じたから、ジャン・レノさんを想起したのかしら?と感じます。

 

考えようによっては恐ろしいお話にもなりますね‪( ¨̮ )‬

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬

 

 

もしかしての考え、清書すると思います。

 

もちろん一元論的に断言できるものではないのだと思うけど、宗教に頼り切れる人ってのは、そもそもの基本理念が『世界は愛だ』と思っているのではないのかしら。