頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

フレミング、フライング、フラミンゴ

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

今回はフレーミング効果、リフレーミング効果についてお話致します。

 

「フレミングの法則」の話では無いですが、「フレーミングの拘束」にはなりえると思われます。

 

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https://www.shinchosha.co.jp/book/125023/

 

 

 

 

 

 

フレーミングとは

 

Wikipediaにて『フレーミング』という語句を調べると、

 

写真や絵画制作において、フレームや大きさを検討すること
 火災時に炎が炎上すること。転じて、インターネット上において"炎上"すること

 

と書かれています。

 

そのほか『フレーミング』を検索すれば「野球の技術」も表示され、どうやら世間ではフレーミング=野という認識が強いようです。

 

 

ですが、今回お話しする『フレーミング』はそれらではなく、言うなれば『思い込み』を指しています。

 

"flame(火炎)"ではなく、"frame(枠)"

"frame"に"ing"がくっついて"framing"です。

 

自分が知らないうちに決めてしまっている、意識・考え方の『枠』『思い込み』

それ、またその無意識をフレーミングと呼ぶそうです。

 

 

男の子は青・黒。女の子は赤・ピンクというのも、ひどくしょうもなくつまらないフレーミングです。

クソみたいな洗脳でしかありません。

家事育児は女性の仕事というのも、男性はスカートを履いてはいけないというのも、クソみたいな洗脳です。

 

 

フレーミングとリフレーミング

 

フレーミングは言うなれば思い込みだ、と書きました。

ではリフレーミングとは何か。

 

"framing"に"Re(再び)"をくっつけて"Reframing"

つまり、それまでの思い込みを「それって本当に正確なの?」と考えて精査し、また場合によっちゃこれまでの考え方をぶっ壊すことです。scrap and buildですね。

 

例えとして適切ではないかもしれませんが、「キリスト教が至高」と考えている信徒が仏教と出会って改宗することもリフレーミングに該当されると思います。

宗教自体に洗脳の要素がとても強いので、改宗というリフレーミングそのまま新しいフレームになることも往往にしてあるでしょうね。

 

でも人間なんてどこかに頼ったり凭れたりしないと生きれない弱い生き物だから…😌

 

現代日本でスタンダードとなっている「西洋思想」も洗脳でありフレーミングですからね。

西洋医学なんてその最たるものでしょう。

 

www.youtube.com

 

 

フレーミングをすれば見識が変わる

 

フレーミングがなぜ必要なのか。

 

インターネットが広く普及した現代社会では、知らないことに出会ったらどうするか。

 

検索するんだよ

 

伊坂幸太郎 『モダンタイムス』 151ページ

 

ではなぜ「検索をする」のか。

それは『ネットで検索をすれば正しい情報が得られる』というフレーミングがなされているからではないでしょうか?

 

floodinhead.hatenablog.com

こちらの記事でも言及していました。

 

 

この記事の冒頭でも『フレーミングの意味』をWikipediaで調べた結果を引用していますが、それも「Wikipediaの情報は正しい(と多くの人は思っている)はずだ」というある種の信頼じみた感覚が多くの人間の中にあるため、引用しました。

その『Wikipediaへの信頼』も無意識のフレーミングです。

 

そんでもって「オールインワン」の内容を再度引用しますが、『インターネット(Wikipedia)の情報は正しい』というフレーミングがされた状態で初めての情報と触れると、その情報が正しいものと思い込んでしまいがちです。

「オールインワン」ではその状態を『鳥類が孵化した後に、初めて見た動くものを親だと思い込む"刷り込み"と一緒だ』と形容し、『この"刷り込み"はヒトにも適用される』とも書きました。

 

 

件の感染症が良い例だと思います。

 

情報の多くはテレビから供給される。

感染症の知識なんて大衆にはほとんどない。

感染症の権威(っぽい?)學者さんがそれっぽいことを言っていれば、大衆は信じる。

 

それもこれも「テレビで報道されることはほとんどが正しいであろう」という無意識のフレーミングがなされているからだと考えています。

 

 

聞くところによると、欧米では、テレビからの情報を信じるのは全体の20~30%だけなのに対し、我が日本では70~80%の割合で視聴者は信じるそうです。色を変えているのは印象操作です。

それを知った時に「まぁそんなものだろうな」とも思いましたが、流石に日本人のアホさに愕然としたのも事実です。

いつまでテレビ信仰続けるつもりなんだろうかというのが素直な感想です。

 

とはいえ、「テレビは信用ならねえ。ネットの情報しか信じねえ」というのも、自分を偏ったフレーミングに押し込めることになりかねないと思いますので、程度が大事ですね。

 

 

なぜリフレーミングをするといいのか

 

テレビからの情報を無条件で信じるというのは「『テレビの情報は正しいはずだ』という無意識のフレーミングがあるからだ」と主張いたしましたが、そのフレーミングが形成されたのはなぜでしょうか?

 

それは物心ついた頃から生活の中に存在していたからではないかと考えています。

だから疑うこと自体に思い至らない。

宗教が各家庭で伝承されるのもそれが理由なのではないかと思います。

 

それがきっかけで原理主義やら宗教戦争も引き起こされているんでしょうけどね。

 

まぁ疑ったり考えるのって疲れるし、その人のアイデンティティが根幹からひっくり返りかねないんで、何も考えないで「特定のものが規定したもの」に準じて生きるのもある意味賢い生き方なのかもしれませんけどね。

流れが急な川の中で踏ん張って直立するよりも流される方が楽ですもんね。

わたしは絶対に嫌だけど。

 

あ、それとテレビだけがどうってことではなくて、メディア全体に対して「本当に正しいんかいな」と思うことが重要だと思います。

新聞もインターネットも。

ひいては個人に対してもそういった意識はあった方がいいと思いますが、自分の感情が満たされていれば、他人をやっかんだりすることもなく、個人の動静ごときに惑わされることもありません。

 

 

それで「どうしてリフレーミングをするといいのか」なのですが、それは『リフレーミングをするとそれが癖づくから』です。

町で知らない人に絡まれた際、大抵の場合は「ふざけんなよ」と思うでしょうが、その時に「相手にも何か事情があるんだろう」とリフレーミングすることによって、あんまり氣にならなくなったりします。

 

ですが、八つ当たりをする輩の方が明らかに良くないですし、常に相手に寄り添って考えているのもいつかパンクしてしまうので適度にガスを抜いたり愚痴を言ったりするのは必要です。

 

「今月お金を使いすぎた!生活費がやべえ!」となった時に「ということはやりくり上手になるために良い機会じゃん。これまでの生活で無駄になってたものを見直してみよう」というのもリフレーミングでしょうね。

 

最近酢の物を克服しました(それまではそんなに美味しいと思えなかった)。

昔はすっぺえくて酢の物は苦手だったのですが、自作すれば自分の舌に合わせて作るので「酸っぱいけど美味しいじゃん」と思えて、酢の物が好きになりました。

きゅうりとわかめとカニカマの酢の物が美味しいんだこれが。しかし酢の物は使うお酢次第でもある。

単純に実家の味付けが自分に合わなかっただけじゃねえかなとも思いますが、作ってもらっといて偉そうだとも思います。

 

料理や食材が年をとったら食べれるようになるのは「あるある」ですよね。

それも舌にある味蕾が加齢によって死んでった結果なのでしょうね。

自然界では『酸っぱい物は腐った物』で、『苦いものは毒』らしいですからね。

 

だから子どものころに苦手だった野菜などを大人になってから食べたら「なんだこんなものか」と思ったりするのでしょう。

精神的に向上心のないものはばかだ。

 

 

最近は「過去の苦手を克服するために、人間は物を考え何十年も生きるんじゃないか」と思っています。

「子どものころにできなかったこと」というフレーミングに、成長して挑戦することで「"できなかった"を乗り越えて"できた"にする」というリフレーミング

精神的に向上心のないものはばかだ。

 

 

 

あ、一番わかりやすい説明かもしれないのですが『自分が短所だと思っていることは、他人からすれば長所』なんてことが往往にしてあります。

それです。それがフレーミングのリフレーミングです。

 

「心配性で思い悩むこと」が短所だと思っていても、その要素がない人からすれば「用心深くて良い」と映るもんです。

それです。

 

 

「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」という言葉もありますが、あれもリフレーミングかもしれませんね。

違う氣がするけど。

 

 

 

最後にこの前発見したドラマーさんの動画を紹介致します。

Kristina Rybalchenkoさんとおっしゃるそうです。

 

ちょー上手い。かっこいい。グルーヴすごい。

楽曲のオケとドラム音とのミックス具合や、原曲の音のキャラクターによって左右される部分もあるのですが、カバーする曲によって音をちゃんと叩き分けている。

 

YouTubeとかインターネットとかって、10年前20年前には触れることができなかった世界の音楽やプレイヤーと出会うことができるからいいですよね( ¨̮ )❤️

 

youtu.be

 

 

ちなみにブログタイトルの言葉遊びは伊坂幸太郎氏の『重力ピエロ』の各話タイトルから着想を得ました。

わたしの思考の70%は伊坂幸太郎さんでできています。

 

ありがとうございました\(´-`)/

【映画】新聞記者

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

新聞記者』という映画を見ました。

 

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https://shimbunkisha.jp/

 

youtu.be

 

公開当時から氣になってはいたのですが、観る機会が無くなり、今回ストリーミングサービスにて鑑賞するに至りました。

この記事では、映画『新聞記者』のことを取り上げます。

 

 

毎度のことですが、ネタバレが含まれます(新聞記者、モダンタイムス、スノーピアサー)。

 

 

 

 

 

 

 

公開当時(特報を観た時)は「すげえ作品が公開されるんだな!」と感じました。

大手映画会社の作品でもなく、内容が内容なだけにメディアでもほとんど取り上げられなかったようです。納得だとも言えます。政府に睨まれたくないもんね。

 

 

さて、「内閣情報調査室(内調)」という政府機関が『薄暗い褪せた質感の画面・映像作り』をしていて、そこや政府に切り込む東都新聞のオフィスが『明るく』作られているところや、内調のオフィスには窓が無いが新聞社のオフィスには窓があるところ。

 

新聞社側の主人公である吉岡(シム・ウンギョンさん)だけが赤いカーディガンを着て、他の登場人物から目立つように演出していたところなど、そういった演出等については誰でも見りゃわかるところですし、ちょっとくどい。

ひいてはそれでノイズになりかねないとも思いました。

 

それに『政府は暗い部分が多く、報道(原作者は望月衣塑子さんというジャーナリストさんらしいです)はその暗いものにメスを入れる者だ』という、それ自体は立派だけどその理念を正当化するためにちょっと誇張していない?と感じる部分も多かったです。

 

Twitter上で受けた誹謗中傷がいまだ許せないし、茶飯的に起こっていることだと知ってほしかったのもあると思いますので、その氣持ちもわからないではないですけどね。

 

 

ですが、個人的にはそんなことはどうでもよくて、非常に『モダンタイムス』っぽいなと感じました。こいついつも伊坂の話してんな。

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https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000184852

 

 

この『新聞記者』という作品は実際に起きた事件や出来事がいくつか下敷きとなっていますが、その内の一つの『伊藤詩織さんの事件』を元にした事件が物語の冒頭で起こります。

 

後藤さゆり(民間人)が総理お抱えの記者にレイプをされ告発するが、逮捕が見送りにされる。

 

その民間人は野党が画策し送り込んだハニートラップだった。

そういった「事実を作れ」と、内調の官僚である杉原(松坂桃李さん)が上司の多田(田中哲司さん)から指示をされます。

一度は「民間人だから関係ないでしょう」と反論する杉原でしたが、「野党と繋がっている事実さえ作れば良い。これも国を守る大事な仕事だ」と説得され、この指示を飲みます。

 

この後に杉原及びその同僚が、内調のオフィスでTwitterを使って(一人あたり5アカウントくらい?)、その民間人の印象操作・情報操作をする様子が描かれます。

正直、そんな簡単な話か?単純な話か?とは思いますが、そんなことをしているのかもしれません。

 

実際はそんな末端作業はランサーズみたいなアルバイトを雇ってやってるでしょとも思うし、そういった印象操作は野党もしているとも思います。

 

 

ユダヤ人をガス室で大量虐殺していたナチスのアドルフ・アイヒマンは『仕事だ』と割り切って、毒ガス噴射のボタンを押していたとのことですし、「どんなにひどいことも、仕事として細分化すれば罪悪感はなくなる」と『モダンタイムス』でも描かれています。

 

 

その後、「内調が『後藤さゆりと野党が繋がっている』と印象操作をするためにチャート図を作成し、拡散している」と週刊誌にすっぱ抜かれます。

 

それに対し、多田は「後藤さゆりと野党と繋がっているという情報を、与党ネットサポーターへ拡散しろ」と内調の官僚へ指示を出します。

その指示に「嘘をでっち上げるのか」と杉原は異議を唱えますが「嘘か本当かを決めるのはお前じゃない。国民だ」と多田が言い返します。

 

有名な話ですが、嘘の中に本当のことを2割入れるそうですね。逆もしかり。

どちらにせよ、本当っぽい嘘さえあれば大衆は扇動される。センセーションであればあるだけ、揺れも大きくなり、情報を受け取るしかない大衆はその情報に追随するしかなくなる。大衆はあほですからね。

 

見る角度によって事実にもフェイクにも妄想にもなりえる。

モダンタイムス内で井坂好太郎が書いていた『苺畑さようなら』です。

 

 

この『新聞記者』も組織やシステムの話だと受け取りました。

國というシステムを存続させるために、官僚という働きアリがせっせとシステムを回している。

『モダンタイムス』でも「アリは賢くないが、アリのコロニーは賢い」という言葉が出てきます。

杉原も多田も、都築も國家という『システム』の運用を停止させないために働いている。

だから、だれか特定の一人を罰したり追放したとて、とてつもない大きさの機械の部品が一つ壊れた程度なのでしょう。

替えの部品は『名もない個人っぽい誰か』を引っぱってきて、それっぽい役割を与えたら良い。

チャップリンの『モダンタイムス』もチャップリンが部品の一つになる話らしいですね。

 

國の首相が変わったとて、その首相を運用する人が一緒ならシステムは一緒。

とても単純に例えるなら、安倍さんだったものが菅さんになろうが麻生さんになろうが、自民党が与党であるかぎり一緒。みたいな。

有名無力、無名有力です。

 

 

 

この物語が転がるきっかけとして「新設大学計画の情報リーク」がありますが、その大學新設は首相絡みだと、神野(杉原の昔の先輩)から杉原に宛てられた手紙で明かされます。

 

新設大學を運営する民間企業は首相の古くからの友人の会社で、そこに多くの税金が流れた結果だった。

 

 

「ひとりひとりは良い人たちだけれど、集団になると頭のない怪物だ」というチャールズ・チャップリンの言葉がありますが、その言葉を思い出しました。

(『モダンタイムス』で使われていたと思っていたけど、実際は『PK』だったみたいですね。勘違いをしていました。)

 

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https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000206676

 

本作の謎の一つとなる新設大學を作るきっかけも首相ですし、内調が庇っていた國、その國の顔となる首相が一切登場しない部分も、集団になった頭のない怪物感がありますね。

國の顔になるのはあくまで役者としてだけなんでしょうけどね。

 

杉原も多田も神野も都築も、登場しない首相も國というシステムを存続させる部品でしょう。

 

 

作品の最後で多田が「この国の民主主義は形だけでいいんだ」と言ったのも印象的でした。

『民主主義っぽいもの』さえ投げておけば、大衆が勝手に肉付けをして満足してくれますからね。

 

 

 

まぁ戯言として受け取っていただければ( ¨̮ )

 

 

 

 

 

『パラサイト 半地下の家族』を監督したポン・ジュノさんの『スノーピアサー』という映画も観たのですが、そちらはジョージ・オーウェル著の『一九八四年』っぽいなと感じました。

「子供は安定供給される」という台詞や含まれていた意味も、リンク性があるように思いますね。

『子ども』ではなく『子供』と字幕表記されていたのも、日本語表記として上手いなと思いました。

 

 

floodinhead.hatenablog.com

  

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

余談ですが、『新聞記者』のレビュー動画をYouTubeで何本か見たのですが、動画のコメントが軒並み右だ左だ反日だパヨクだネトウヨと汚い言葉の乱立でした。

それがきっかけでインターネットとも本氣で距離を取ったほうが良いなと強く感じましたね。

Twitterもゴミ溜めになって久しく、そことは距離を取ってはいますが、インターネット全体で距離を取って接していった方が良いのかも。

それをインターネット上のブログに書いているわけですけどね。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

【大傑作 多神教映画】戦おう。ここが俺たちの世界だ【桐島、部活やめるってよ】

 

ご無沙汰しております。

 

最近、映画『桐島、部活やめるってよ』を観ました。

一度だけ以前に観たことはあるのですが、その時はよくわからず「ふーん」くらいな印象だったのでした。ですが、今回鑑賞したことで作品の印象ががらりと変わりました。

大傑作でしたね。

 

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物語のざっくりとした内容・あらすじは、バレーボール部のキャプテンである桐島が部活を辞めたことをきっかけに、同級生の生活に些細ながら変化が生じていく群像劇。というものです。

 

毎度の事ながら、ネタバレを含みますので作品の鑑賞後にご覧ください。

 

 

 

 

ゴドーを待ちながら

有名な話ですが、この『桐島、部活やめるってよ』は『ゴドーを待ちながら』 という戯曲を下敷きにしているそうです。

 

ラーメンズさんもその戯曲をパロディした『後藤を待ちながら』というコントを発表されています。

youtu.be

 

 

今回取り上げる『桐島、』はこの『ゴドーを待ちながら』という戯曲がとても重要になってきますので、ここでその戯曲の説明をさせていただきます。

 

 

『ゴドー』は「God」、"神"をもじっているそうです。

劇中に出てくるホームレスの二人はゴドーをずっと待ちますが、二人の前にゴドーが現れることはなく、ゴドー自身も劇中に一切登場しないまま幕は閉じます。

 

youtu.be

 

『ゴドー』は「God」をもじっていると前述しましたが、ゴドーを下敷きにしている『桐島』は「キリスト」をもじっているそうです。

 

 

桐島、部活やめるってよ

 

「キリスト」としての桐島

そのキリストたる「桐島」が突然いなくなった(部活をやめた)。

その報を受けたバレーボール部のチームメンバーは大きく揺れます。

部のキャプテンであり、チームの要たる人物が突然いなくなったので当然ではありますね。

 

部とは別で、桐島と同じクラスの男子グループに属していたと思しき竜汰と友弘、宏樹、桐島と付き合っていた梨紗などにも大きな波紋が広がります。

 

 

桐島という「神」がいたことで保っていた(神頼みだった)バレーボール部は当然均衡が崩れ亀裂が生まれ、同じように桐島頼りだった梨紗の均衡も崩れます。

 

桐島の部活が終わるまでバスケをして放課後を過ごしていた竜汰と友弘、宏樹にも氣持ちの変化が生まれ、「なんで俺たち放課後にバスケしてたんだっけ」と口にしたりします。

 

彼ら彼女らの共通点は「桐島がいることを前提とした行動をしている(桐島頼り)」ということです。

だから、行動規範としていた桐島が突然いなくなると慌て狼狽える。

宗教的だなぁと感じました。

 

しかし、一言に宗教だけとも言えません。この作品でいうところの桐島を「思想」であったり「道徳」であったり、「常識」と言い換えることもできます。

 

桐島がやめた後のバレーボール部というのは、さながらジョブズがいなくなったアップルみたいな感じなのではないかなと感じます。

 

 

あと、製作した小道具を蹴飛ばしたことを謝ってくれと申し入れる前田に対して、バレーボール部の副キャプテン久保が「おかしいのに絡まれるし」と怒っていた屋上のシーンも、『自分は絶対的に正しく、映画部なんていうよくわからない弱小部活は自分より劣る』と思っていたような独善的に見える描写も、自分の信じたものだけが正しいと思いがちな、一神教的なシーンだと感じました。

その独善的に見える行いをしていたのが桐島を囲んでいた集団だったのも、スパイスの効いた良い毒だったと思います。

 

 

多神教映画

この映画が素晴らしいと思ったのは、桐島がいなくなったとて、登場している全員が狼狽えているわけではないことを描いていることです。

 

桐島が部活をやめたことで狼狽えている竜汰らと同じクラスの前田は、映画が好きで自身も映画部に所属しています。

桐島の存在自体は認識していたでしょうが、行動規範を「映画」に置いていた前田には『桐島が部活をやめたこと』は大したことではないんですよね。

むしろ桐島が部活をやめたこと自体、知らなかったんじゃないか?

 

他にも、ブラスバンド部の部長を務める沢島や、菊池が所属している野球部のキャプテン、映画部と部室を兼用している(どちらかといえば映画部が間借りしている)剣道部も『桐島が部活をやめたこと』について特に影響を受けていないようです。

 

沢島は菊池に思いを寄せている(相手の挙動によって自分の行動を変えている)為、語り手となりますが、沢島が所属するブラスバンド部の活動は何の滞りもなく進んで行きます。

 

 

菊池が所属する野球部のことはキャプテン以外出てこないのですが、野球部の話が出てこないというのは桐島という、固定の場所での神が「関与せずとも回る集団だから」ですよね。

それこそ前田のように桐島が部活をやめたとて、大した出来事ではないから動揺などなく部が回っている。

前田が映画を撮っていても、平気でボールを取りに来てフレームインしてくる。これも野球部という集団が、他の集団に左右されないという比喩の一つです。

 

 

そしてキャプテンが最高に良いんですよ。

菊池がキャプテンに「先輩3年生なのになんで夏が終わっても引退していないんですか?」と質問をするんです。

それに対してそのキャプテンが答えます。

 

「ドラフトが終わるまではね」

 

そのキャプテンの元にスカウトマンは来ていないんです。

スカウトマンは来ていないけど、自分の中で諦めがつくまでは頑張りたい。

他人に左右されない。まさに自分軸!

本当に良いキャラクター造形をしていると思います。

 

日がすっかり落ちて暗くなっているにも関わらず、バットの素振りをしているキャプテンを見て、帰宅中の菊池は動揺しキャプテンに見つからないように隠れる。というシーンもありました。

それも、既に幽霊部員となっているにも関わらず未だ野球鞄で登校してくることや、放課後に一緒に桐島を待つためバスケをしていること、自分で歩くでも自転車を乗るでもなく友人の自転車にニケツしてもらっていることからもわかるように、菊池当人が「他人に付随して生活している(他人の行動で自分の行動を決める)」人間だったからなのでしょう。

 

 

ブラスバンド部にはその部を運用させるための神(思想)がいるし、映画部にも野球部にもその集団に見合った神がいる。

桐島がいなくなったところで、神は桐島一人だけだったわけではない

多神教映画じゃないですか。最高です。

 

 

戦おう。ここが俺たちの世界だ。

前述した屋上のシーンで「おかしいのに絡まれるし」と久保が言っていたことに対し「お前らの方がおかしいよ!」と前田が反論します。

 

神がひとりいなくなったくらいで狼狽えてんじゃねえよ!

てめえの人生だろうが!てめえで考えろ!

神がいなくなったんなら神の再来なんて待たずに、これからどうやって生きていくかてめえで考えろ!

 

 

屋上でのいざこざが‪終わり、撮影を再開する映画部。

台詞の確認をしにきた後輩?に対して、前田が台本を読み上げます。

 

「戦おう。ここが俺たちの世界だ。俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」

 

『神に頼るのもいいけど、今を生きているのは自分なんだから、神に縋るのもほどほどにして自分で考えて戦って生きていかないといけない』という意味だとわたしは受け取りました。

 

 

わたし自身も音楽に深く傾倒しているので、桐島を囲んでいた人たちと変わらないのかもしれませんけどね。

とりあえず、世界は一神教的ではないということです。

 

エンターテイメントは不要不急だという人も居ますし、強く必要だと感じる人も存在します( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

パーソナリティが紡ぎ出す言葉

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

今回はわたしが十年来応援しているMUCCというバンドについてのお話です。

 

 

 

MUCCは、1997年にギターのミヤさんをリーダーに茨城県で結成されたバンドで、2021年現在で結成24年目になります。

 

そのバンド結成時からドラムを担当している(最初はサポートでのちに正式メンバーとなった)SATOちさんが、2021年5月をもってバンド脱退、音楽業界からも引退をされます。

そのSATOちさんとこれまで活動してきた軌跡を納めたアルバム『明星』がこの度発売されました。

 

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SATOちさんが作詞作曲に携わった楽曲のみで構成された全16曲入りのアルバムなのですが、収録曲の歌詞を見ていたら作詞者のパーソナリティが見えてきました。

 

一般的なアルバムの歌詞カードというのは、ホチキス止めされたブックレットタイプが多いのですが、『明星』は一枚の紙を折りたたんだタイプだったんですね。

だから他の曲と見比べたりでき、パーソナリティの発見ができました。

 

それでは、以下『明星』の収録曲の解説です。

 

 

 

逹瑯

MUCCのボーカルを務めており、バンド結成時からのメンバー。

常に飄々としているため、後輩のバンドマンからよく人生相談を受けるらしいです。そのかわり、音楽の相談は一切無いそう。

逹瑯さんの作曲した曲では『溺れる魚』や『勿忘草』なんかが特に好きです。

『スーパーヒーロー』は名曲。

 

昔、子供だった人たちへ

MUCC 昔子供だった人達へ 歌詞 - 歌ネット

君は何を抱え 何を捨てて大人になった?

人並みに挫折もした?人並みっていったいなんだ?

 

転んで膝を擦り剥く事なんてなくなったよね

 

痛みを避ける大人になって

夢は見ずに日々を消化して

 

大人になったことへの寂しさ、「みんなが子どもだった頃は楽しさも抱えきれないくらいいっぱいあって、毎日がキラキラしていたね。苦手だと感じていたことすらも愛おしい記憶だよ」と昔を懐かしむ、どこか清々しささえ感じる、思い出話をしている印象ですね。

 

そんな愛おしい思い出も忘れて大人になっちまった。

うまく生きるために無難な選択をして、痛みも傷も避けて、夢なんてみたら傷つくだけだ。だからもう夢を見るのはやめたんだ。

そんな自分を「あの頃の子どもだった自分」が見たらどう思うだろう。見せられないな。

 

そんな曲だと感じました。

実際わたしも、未来、年を取ったら曲の主人公みたいに、痛みを避けて自分本位になっちまうのかな。と考えると寂しくやるせない氣持ちになります。

 

パノラマ

MUCC パノラマ 歌詞 - 歌ネット

継ぎはぎだらけの道を 走るおんぼろワゴン

 

僕「等」の夢は終わったのかな?

 

空を見てた 雲が流れてった

ゆっくり形を変えながら 千切れながら

 

どこまでも道は続いてく 続いてく

 

夢を追う人(バンドマン)の曲です。

ムックがインディーズ活動していた頃から乗っていた機材車を廃車にする時に作った曲とかじゃなかったっけ?

色んなライブイベントや楽曲制作、プロモーション活動を「継ぎはぎだらけの道」と形容したり、その目の前にある各種活動を一つ一つ行なっていくこと、そのバンドの状態を「走るおんぼろワゴン」と形容しているのも洒落ていて素敵ですよね。

 

雲が流れるにしたがって形が変わるのも、人が生き、生活していく事で「夢の形」や「夢を入れるものの形状が変わること」を表しています。

バンドでも会社でも、人が辞めたりすることはありふれていて、ひとつのものが千切れて、"ひとつのもの"と"ひとつのもの"になることもある。

 

その僕「等」それぞれの夢を叶えるために、パノラマを見るために道を歩きましょう。どこまでも道は続いてくから。

 

 

めちゃくちゃいい歌詞じゃないですか。

沁みまくる。日本酒を飲んだ後のお出汁くらいしみる。

 

高校生の時にこの曲を初めて聴いた時は、特に強い印象を持たなかったんですが27になったらやたらと沁みますね。きっともっと年を取ったら深く感じ入れるんでしょうね、年を取るのが俄然楽しみになってきた。

 

 

 

ミヤ

MUCCを立ち上げたリーダー。ギターを担当しており、音楽と機材にとても造詣が深い。

D'ERLANGERの瀧川一郎さんからは「もはやオタクレベルの機材好き」と言われる。

甘いものが大好きで、自宅にはアイス専用の冷凍庫がある。ハーゲンダッツが特に好き。

ミヤさんが作詞作曲した曲では『脈拍』や『アイアムコンピュータ』、『THE END OF THE WORLD』とかが特に好きです。

 

茜空

MUCC 茜空 歌詞 - 歌ネット

さよなら今日の日 やがて日は落ちる

さよなら悲しみ また 会う日まで

 

強く生きればこそ

何度泣いたっていいんだ 今をかみしめ生きてゆけ

 

ミヤさんは強い人なんでしょうね。「強い人」と相手に思われてもいいという度量があるあたりさえも強い。

 

傷を受けたことも、流した涙さえも、深い悲しみさえも、太陽が昇って沈むのと一緒で流れていく。

泣いてしまうということは強く生きようとしたから。

強く生きるためなら何度泣いてもいい。今ある辛さも苦しさもかみしめて味わって生きていけ。

その経験は声に、歌になって届く。

 

以前何かのインタビュー(アルバム『脈拍』製作時に突然目が見えなくなり倒れたことについてだったっけ?)で、ミヤさんが「辛い経験というのは、それが活きる出来事が未来にあるから身に降りかかる。そう思ってるから色々な経験も受け入れることができる」と仰られていたのですが、『茜空』を製作していた時期にそういった考え方になったのかもしれませんね。

 

夕紅

MUCC 夕紅 歌詞 - 歌ネット

ねえ 僕は君の涙は拭えないけど

今、此処に在ることが 意味だと思うよ

 

これこそミヤさんだと感じました。

パーソナリティの話に通じるので詳しくはあとで書きますが、傷というのはその人本人が癒さないと意味がないんですよね。

 

それをミヤさんは知っている。だから「『僕』は『君』の涙は拭えない」んです。

君の涙を他人が拭ったら君をかりそめの癒しでごまかしてしまうことになる。

でも、君自身が「自分には存在価値がないとか、この世にいる意味がない」と思っているんなら違うと思うよ。此処に在るということ自体が存在価値で、この世にいる意味なんだよ。と語りかけてくれている。最高かよ。

 

それがわかったんなら、君だけの歩幅、笑顔、泣き顔、呼吸で生きていけ。

さあ!時間は止まんねえから皆に続け。君だけの歩みで。

 

 

言葉は心 

これまで逹瑯さんの歌詞と、ミヤさんの歌詞を分析いたしましたが、歌詞を読んでいてやはり性格が出るなと思いました。

 

MUCCの屋台骨・大黒柱』とよく形容されるミヤさんは、正面から相手と対峙して話し合う

「正面向いて話したいんならちゃんと名乗って。人と人は礼儀の上になりたってるから」といった感じ。

脈拍にも「愛が欲しいと嘆くなら 其処に在る 世界 魅せてくれ」と同じようなことを書かれていますからね。

そこの礼儀がちゃんとしていないと座るスペースを空けない印象というのでしょうか。

でも、義理礼節がちゃんと身についている人には居場所を作ってあげる。内に入った人は最後までケツを持って世話する

そんな人なんじゃねえかなと、わたしには見えます。

 

体癖でいうと8種っぽい感じ?『脈拍』のアルバム製作時に倒れたと前述しましたが、その時も「絶対に負けねえ」って心づもりだったらしいですからね。

 

 

 

それに対し逹瑯さんは常に飄々としていて、いたずら好きな永遠の少年みたいな方でお調子者。個人的には真面目くさるのが小っ恥ずかしいから照れ隠しでしているんだろうなと思いますけどね。めちゃくちゃ優しい人ですしね。

 

そんな逹瑯さんは『良くも悪くも当事者意識がない』と、音楽雑誌・音楽と人の樋口さんに言われています。

良い面に出ると「問題を深刻に捉えすぎないから必要最低限のエネルギーを使うだけで良い」とか「そもそも問題として見ないから問題として発生しない」とかになりますが、悪い面に出ると「取り組まなくてはいけないことに無関心」や「当事者意識がないために問題が悪化しやすい」とかになると思います。

体癖はわからんけどちょっと6種っぽい?かなと思いました。

 

 

逹瑯さんとミヤさんの違いはその「当事者意識」なのかなと感じました。

逹瑯さんは当事者意識がない部分が強いため、ミヤさんのように『正面から向き合う』ことはあんまりしない。

ミヤさんは『礼儀がある人にはスペースを作る、その上でその人と話す』ですが、逹瑯さんの場合は『スペースは元から空けておいて出入り自由。でも特に構ったりしないからね、こっちは好きなことやってるから君も好きなことやってて』というスタンスなんじゃないかと思いました。

 

だから、もし悩みを持った人が来ても、その人が直接話そうとしない限り触れない。

「話したくないってことはまだその時期じゃないんでしょ。言いたくなったら自然と言うだろうし、そもそもあんまり興味ない。ミニ四駆セットアップしていよう」というスタンス。

逹瑯さん本人も「ふさぎ込んだり落ち込んだりしても、手を引っ張って外に連れてくんじゃなくて、ドアをパッと開けてあげるだけでいい」と過去のインタビューで話されていましたね。

 

ベースのYUKKEさんだと自分から歩み寄って側でかがんで「どうかした?話聞くよ」と助け舟を出し、ドラムのSATOちさんの場合は(無意識に)甲斐甲斐しく氣配りをして、結果それで相手を癒している。後日あの時のあれに救われたと相手に話されても「え?おれそんなことしたっけ?まぁ元氣出たならよかったっぺ」と言う(イメージです)。

 

 

そのパーソナリティが歌詞に出ていて、ミヤさんは相手に語りかけ勇氣付ける、逹瑯さんは「こんなことありました・こんな風に見えました」を書くだけで、受け取り方は相手に委ねる。

逹瑯さん自身はYUKKEさんや元ギルガメッシュの左迅さんやNoGoDの団長さんをいじくって楽しんでるだけ。

それを見る場所は出入り自由だからで好きに寛いで行ってちょうだい。ということです。

うまく伝わってるかなあ。。

 

 

フライト 

MUCC フライト 歌詞 - 歌ネット

答えなんて無くていいだろ

僕等はこんなにも生きている

 

何も恐れず歩き出そう

永遠と感じる一秒繋いで僕らは笑える

 

そんなパーソナリティ が違うお二人が作詞を共作したフライト。

 

1Aの歌い出しで「大切なものって何だっけ」と問いかけているんですね。自問自答かな。

一度、自分がわからなくなって悩んで、でも君(自分)は「笑いたい」とまた涙流す。

 

自分を見失ってるから、氣持ちを等身大じゃ伝えられる自身が足らない。

伝えるためには強くならないといけないから、手っ取り早くそう思えるために、その願いを叶えるために着飾っちゃって、服を着てるんじゃなくて着られてるみたい。

それじゃまるで753かショーウィンドウのオブジェみたいだよ?

 

本当はもう羽化した蝶なんだけど、悲しみを纏ってるから怖くて飛べない。夢だけを見てる。

夢見てる内は一生叶わないからずっと夢を見れるもんね。

 

そこで、「必死に答えを求めていたけど、別に答えなんてなくていいだろ。だって、今を生きている」ということに氣付く。どうしても分かりやすいから答えを求めるものですよね。はっきりしてるから安心できるし。でも答えなんてそうそう無いし。答えなんて無いって答えでもいいじゃないか、と思い至る。

 

未来も過去も、永遠と感じる一秒の集合でそれを繋いでいる(パノラマの継ぎはぎだらけの道)。

悲しみも喜びも、抱えて飛べるさ。僕等は答えを見つけたから。

 

曲の冒頭でわからなかった「大切なもの」を見つけていく成長譚なんですね。良い曲だ。

 

ミヤさん的な正面から励ます部分もあるし、シニカルではなくアイロニカルに言う逹瑯さん的な部分もある。

「そうそう答えなんて見つかんないよ。『答えなんて無い』って答えでもいいんじゃない?今生きてるだけでいいじゃん」という着地はとてもいいですね。最高ですね。

 

なんというか、MUCCさんの歌詞は高校の時よりもある程度年を取った後の方が深く感じ入るな。そういった経験をしたからですかね。知らねえけど。

 

 

楽曲レビュー

ぬけがら

歌詞は自己嫌悪と自分への懲罰と煩悶、過去への贖罪でしょうか。個人的に難解な歌詞に感じました。

再録したぬけがらのなによりもよかったのが、1番サビで歌メロに上のハモりを重ねていたことです。

あのハモりをファルセットで歌っているので、どこか幻惑的に聴こえる。

 

ぬけがらになって瓦礫の中で埋もれているその状況を受け入れ(争うことを諦め)、美化し肯定することによって、それ以上の苦しみから逃れようとしているようで、よかった。

不幸は抵抗するより受け入れた方が楽ですからね。とても現代的というか、人間的ですね。

クランチっぽいクリーントーンでコードをシロタマ弾きしているのも幻惑感を引き立てていてよかったです。

 

幻惑で瓦礫と泥に飲み込まれて終わっちまうのかな、と思っていましたが、原曲を踏襲したKornライクなジャリジャリしたベース音や、ブレイク~エンディングまでの歌唱が、まるで心の琴線が切れる寸前の断末魔の咆哮ように感じられ、本当に心が死ぬ直前になみだを流しているかのようで、原曲好きな一ファンとしても大満足です。

 

あと、1Aの逹瑯さんの歌い方(艶)がちょっとhydeさんっぽいなと思いました。

 

明星

MUCC 明星 歌詞 - 歌ネット

幼き日々を映す明星が 僕等の未来を照らす

謡え 笑え 

 

SATOちさんがいる4人のMUCCでは最後の発表となる楽曲です。

確か初お披露目は配信ライブの「FROM THE MOTHERSHIP」のラストでしたよね。

「なんか『なごり雪』っぽい曲だなぁ」と第一印象で感じたのを記憶しています。

 

聴くたびに泣きそうになりますね。実際『明星』を通して聴いたときはボロ泣きしましたしね。

 

SATOちさんの脱退発表を見たときは、もちろんとても衝撃が大きかったのですが、どこか「バンドは人の集合なんだから形状は変わるし、SATOちさんの決めたことはファンとして受け入れないと」なんて殊勝で物分かりの良いことを思っていたのですが、現実感がなかっただけなのでしょうね。

実際、『惡』ツアーの最終公演が終わるまで現実感は無く、時間が経って新しいアーティスト写真が公開になり、3人体制のMUCCを見たころからじんわりと「そうか、もうSATOちさんは引退されたんだな」と実感するんでしょうね。

 

SATOちさんの過去のインタビューを読み返したのですが、そういった「SATOちさんがMUCCのメンバーだった証明」を読み返したり再度触れて暖かく温めることによって、SATOちさんの存在がファンの中で生き続けて、SATOちさんのいないMUCCも未来へ進めるのかな、報われる(言葉はおかしいかもしれないけど)のかなと感じました。

それが「愛しき日々を笑えよ」という言葉の意味合いなのかなと思いました。

 

個人的には過去の記憶に生きるってあんまり好きじゃないんですけどね。

 

 

 

「幼き日々を映す明星が 僕らの未来を照らす」というのも、4人で歩いてきた軌跡が明星になって、これからのMUCCを照らしていくということです。泣くに決まってる。

SATOちさんとしては吹っ切れているんでしょう。

「愛しき日々」を愛しいままでいるため。

 

SATOちさん、ありがとうございました。

 

 

想像力は経験の差か?

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

最近、辻村深月さんの『朝が来る』を読みました。

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https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167991333

 

 2020年の年末にこちらの記事で書いた、映画『朝が来る』の原作小説です。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

 

読後の感想

この作品は女性にしか書けない作品だ、というのが作品を読んだ感想です。

日々の生活で引き起こされる様々な感情が交差する表現や、また子どもの頃のキラキラした思い出が、成長するに従ってひび割れ、色褪せ、幻滅していく過程の表現も非常に鮮明かつリアルで、自身の過去が思い出されるようでした。

 

 

「自分のものではない字」に自身の生活を狂わされたひかりが、むかし朝斗くんに向けて書いた手紙の「自分の字」を見て心が揺れるという対比(トリック)は、小説ならではの表現だと感じ、さすがだなと思いました。

 

対比という部分では「広島の寮で見た空と雲の景色」と、物語最後の「雨上がりに夕日が雲の切れ間から漏れている景色」とが、ついになっているように感じ印象的でした。

 

 

映画だと、やはり映像化されている分わかりやすくなっている部分はありますが、登場しているキャラクターがどういった心情かどうかは、ナレーションやモノローグが無い限り鑑賞者が憶測をするしかありませんので、原作小説を読んで新たに発見することができました。

あと、単純に映画の尺的にカットをせざるを得なかった箇所や、尺の都合で原作とは違った演出になったりも致しますので、映画だけではなく原作を読んでよかったと思いました。

 

「女性にしか書けない」その理由

「この作品は女性にしか書けない」と先述しましたが、その理由は二つあります。

 

一つは「子どもは結構周りのことをよく見ている」ということです。

物語は「佐都子・清和が朝斗と生活している今の生活(一幕目)」と、「夫婦が朝斗を養子として迎え入れるまでの過去の生活(二幕目)」と、「朝斗を出産したひかりの幼少期から21歳までの暮らし(三幕目)」の大きく分けて三幕構成となっているのですが、一幕目と三幕目の最後に朝斗くん目線のセクションが設けられているんですね。

 

朝斗くんは幼稚園の年長さん(6歳)の設定なのですが、その未就学の子どもでも周りのこと(特に場の空気感や親が出す緊張など)をよく見ていると丁寧に描かれています。

これは河瀬直美さんが監督をとった映画版でも同じように描かれており、作者の辻村深月さんと河瀬直美さん御二方ともお子様がいらっしゃるからではないかと思っています。

 

これは女性という性が「自身のお腹を痛めて子を授かり、出産した」という出来事を経験して生まれた、母性からくる結果なのではないかと思うのです(無配慮無自覺な母性信仰と取られたくないですが)。

その結果としての、『子どもも大人(親)の伺い知らないところで、色々と観察して氣を使っている』という表現だったのではないかと思います。

 

 

男というものの絶望的な想像力の無さ

そして二つ目の理由ですが、それは「男というものの、"絶望的な想像力の無さ"を徹底的に描いている」という部分です。読んでいて素晴らしいと思いました。

 

  • 清和が佐都子に対して発した「(子どもが)いたらいいなとは思うじゃない」という発言や、クリニック内にある検査用の精液を採取する為の部屋に対しての「ショックだった」という清和の感想。
  • 佐都子が同期の伊藤に特別養子縁組の相談をした時の『血』の話や「どうしようもない親」といった発言のひとつひとつ。
  • ひかりを妊娠させた巧の中絶へ対しての認識など(巧に関しては中学生という設定でしたので、若さの面を強調したのかも知れませんが、だとしても認識の低さがひどい)。

 

 

「子どもがいたらいいな」程度の認識で子どもがいる生活を選んだ結果、生活を圧迫する上に自分の思い通りにならず、良いとは思えなかった。その場合は責任を全て子どもに押し付けるのでしょうか?

「いたらいいな」で迎えた子どもがいじめ被害に見舞われたり、加害者側になり被害者を自死へ追い込んだ場合はどうするのでしょうか。「うちの子に限ってそんなことは起こり得ない」と考えているのならば、それこそ本当に想像力が無い

男は「いたらいいな」と思うだけですが、実際にお腹を痛めたり体調やメンタルが崩れたりするのは女性の方です。

 

清和の発した『ショックだった』に関しては作中でも言及されており、「男性の具体的な想像力の欠如が、不妊治療における男女の意識の差のようなものをそのまま表している氣がする」と書かれています。

 

 

伊藤の『血』の話については、「親が見ていない時に子どもが親を観察してそれを真似ている」だけじゃないのかと思います。

あるある話としてポピュラーなのは「寝姿が一緒」とかでしょうか。

その事象についても「親がとても氣持ち良さげに寝ているから、無意識的にその時の寝姿を真似ていた」と想像ができます。

その程度の想像もせずに『血』と言い切ってしまうのはどうにも利口だとは思えない。

あと、身体情報も遺伝するんだから寝姿が似るのは当然でもあるんじゃねえの?

 

実際に『血』の問題としか言えない出来事等もあるのでしょうが、その理由を想像したり考えたりもせずに『血』だけを理由に思考を放棄すんなよ。と思う次第です。

 

大体が『血が繋がっている』から支配的になり、「自分の経験は我が子にも(無条件で)通用するだろう」と妄執に似たアホみたいな勘違いをするんじゃないのか。それが理由で『毒親問題』や親子の齟齬や不仲が起きるんじゃないのか。

そんな勘違いする前に目の前の子を独立した個人だと認めろよ

 

「どうしようもない親」と思うのなら、反面教師にできるチャンスですね。「すばらしい親」になるためがんばれー。

 

 

巧は中絶に対してこう言っています。

「中絶って、女の方が体の痛みはあるかもしんないけど、それがない分、精神的な苦痛は男の方がもっとだよな。オレ、何度も自分のこと人間失格だって思った」

 

ふざけんな、の一言ですね。

中絶が引き起こす苦痛は、女性には身体的なものと精神的なものがあるため、苦痛が分散すると思っている(わざとそう書いている部分はあるのでしょう)。

身体的苦痛がない分、精神的な苦痛は男性の方が女性よりも上だと思っている。

「何度も自分のことを人間失格だと思った」→この後に及んで自己保身か?

 

 

そんなことばっかり言ってるから「男はいつまでたっても子ども」だとか「女性の方が精神的に自立してる」と言われるんだよ。

『出産時の痛みを男性が経験したら、その痛みでショック死する』と言われているほど男ってものは体たらくのしょうもない生物なんだから、いい加減男ってものは立場をわきまえろよ。と、男のわたしは思います。

まず前提に、生物ってのは女性(メス)から生まれるんだから、そのことに対して尊敬と感謝を思い出せよ。

 

人間の男性を形作る染色体が欠損して長く経つという話もあります。

女性はXX、男性はXYです。

片方のX染色体が傷ついたとしても、女性の場合は両方ともがX染色体なので補い合うことができます。

ですが、男性を形作るY染色体が傷ついたとしても、もう一方はX染色体なのでY染色体は欠損したままになり、それが遺伝し遺伝してY染色体はどんどんとボロボロになっていきます。

 

あと、精子から卵子を作ることはできませんが、女性の卵子から精子を作ることはもうできるらしいですね。

それを忘れて(知らない?)、腕っ節が立つ程度の能力で偉そうにしているのは非常に愚かかつ滑稽に見えます。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

そういえばこちらで書いた「グレタ・トゥンベリさんについて話す40代のサラリーマン」の方も男性でしたね。

 

 

と、ここまでフィクションに対して色々怒ってきました。

あくまでフィクションですので大袈裟に描いているのでしょうが、実際に存在している男ってのは想像力に乏しい方々が多いです。

 

想像力がちゃんと備わっているのなら、アダルトビデオなどの商業化されたファンタジーなコンテンツで描かれていることが、どうして現実にも適応されると思っちゃうんでしょうか。

 

 

 

こちらの記事でも書きましたが、「フィクション」には「フィクションとなるために元になった現実」が存在するので、世に多く存在する『想像力のない男』と一緒にならないように氣をつけるしかないですね。

floodinhead.hatenablog.com

 

ま、他の男性のことを「想像力がない」と切り捨ててるのも、わたし自身の想像力がないゆえなのでしょうけどね( ¨̮ )

ちゃんと相手のことを思いやることのできる男性もいらっしゃいますし、そこらへんはグラデーションですよね。この世は二元論ではありませんのでそう簡単に二分はできません。

 

 

本題

さて、タイトルについての話です。

ちょっとこちらの動画をご覧ください(~4:30)。

youtu.be

 

ありましたね。

2020年の10月か11月くらいでしたでしょうか。子会社であるYouTubeも使えなくなりました。

 

わたしが話したいのは、スマートハウスについてです。IoTとかもそうですよね。

 

 

Googleがサーバー落ちしたから、ネットで管理していた家の暖房や給湯、鍵の開け閉めができなくなった。ということなのですが、その程度のこと、ちょっと考えたらわかるもんじゃないの?

鍵をネット管理に明け渡しているということは、ハッキングもできて入りたい放題になるということです。想像つかないのでしょうか?

 

 似たようなことを以前にも書きましたね。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

最近盛り上がりを見せている電子マネーに関してもそうです。

あのサービスのメリットは「現金を携帯しないため盗難の心配がない」や、「面倒な小銭の管理をしなくて済む」や、「飲み会などの清算時に起きる"大きいお札しかなかった時の面倒事"が発生しない」などでしょう。

 

ここで想像力を働かせてみましょう。

youtu.be

 

電子決済は今や多くの場所でできるようですが、思い出してください。日本は自然災害の多い場所です。

 

大型の地震が起きて、電子決済を管理しているシステムが壊れ、復旧の目処が立たなくなった場合はどうしましょう。

システムが壊れなかったとしても、各商店へ繋いでいる回線が損傷して電子決済が不可能になった場合はどうしましょう。

もし電子決済を運用するために必要な電力が、自然災害やEMPによる致命的な停電で供給不可能になった場合はどうしましょう

 

「その時はその時で考える」のかもしれませんが、こういった『可能性』の話は常日頃から念頭に置いておくのは大事なのではないでしょうか。

 

 

それで、そういったことに意識がいかないのは単純に知らないからなのではないか。知らないから、想像できないのではないか。と思いました。

 

 

 

Imagine all the people

わたしは10歳の時に交通事故で車に撥ねられたことがあります。

膝の下を少し縫った程度で骨折などはしなかったのですが、その事故によるトラウマ?により、今でも車に乗っている時にトラックなどの背の高い車が近づいてくる状況に、とても強い恐怖心を抱きます。

アクセルをいきなり踏んだ時の急な発進に対しても、動悸が起きます。

 

あと0歳の時からアトピー性皮膚炎を患っているのですが、アトピーを口実にマクドナルドのアルバイトに採用されなかった経験もありますし、アトピーを理由に仕事の首を切られたこともあります。

 

 

交通事故のトラウマ(と仮定します)があるため、免許証を取得していないのですが、「免許証を持っていない=人間的に欠陥がある」とお考えになる方から見ればわたしは落伍者に見えるでしょう。

 

アトピーのやっかいさを知らない人からすると「とは言ってもかゆいだけでしょ?」と言われてしまいます。

常に痒さを感じている身からすると、一番拷問に最適なのは痒みだと思いますよ。

痛みは慣れるなんて言いますが、痒みは一向に慣れません。ひどい時は痒みで動けなくなることもありますからね。

 

それもこれも結局、その経験を体験したことがないから侮っていられるのではないかと思います。

いや、本人からすればその反応が適切だと思っているから侮っているとも思わないのかも?

 

 

とはいえ、相手を「理解しよう」だなんて思ってはいけませんよ。

以前「理解したい」と言われたことがありますが、それならばこれまでの生活でわたしが感じてきた苦しみ悲しみを全て追体験する覺悟が本当にあるのか?と問いたいです。

 

上記したアトピーで首を切られた経験も、心配している振りして揶揄される経験も、痒くてほとんど寝られず毎日寝不足で生活しメンタルが崩れていく経験も、全て背負って経験する覺悟が、本当にあるのか?と(わたしは0か100で考えてしまう癖があるので)思います。

私怨ですけどね( ¨̮ )

 

そういった経験があるため、ジョーカーのアーサーや鬼滅の鬼に対しても人ごとと思えないのでしょう。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

floodinhead.hatenablog.com

 

人ごとにして切り離して切り捨てて考えた方が、生活は絶対的に楽です。

 

 

『理解』はできないけど、『知ること』と『知ろうとすること』はできます。

「そうか、こういう経験や受難があったからそう考えるんだね」や、「何かきっかけがあったから、ああいった口振りや性格なのだろう」と考えることはできます。そんなに難しいことかい?

 

わたしも、駅で車椅子でないのにエレベーターを使っている方に対して「階段使えよ」と思いますが、そのあとに「膝の調子があまりよくないのだろう」や「呼吸が乱れたらよくない病氣などがあるのかも知れない」と思います。

 

長々と書いてきましたが、わたしが言いたいことは「想像力と思いやりを持ってください。自分が持っていると思っている以上に持ってください」ということです。

 

 

わたし個人の考えなのですが、相手を理解できると本気で思っているから、話が合わなかった時に相手を非情かのように批難するんじゃないでしょうか。

まず大前提他人なんだから理解なんてできるかよ、目を覺ませ。

 

 

一応再度言ってきますが、男だけが想像力がないわけではなく、女性にも想像力が無い方もいらっしゃいます。ですが、男性はもっぱら想像力が絶望的に無い方が多いということです。

 

 

これからは心の時代ですよ。

 

ありがとうございました( ¨̮ )

1と3、2と4

 

本日も閲覧ありがとうございます( ¨̮ )

 

なんかこれまでの記事的に、映画とかのカルチャーレビューブログみたいになっておりますが、今回はわたしの本分である音楽のお話をさせていただきます。

 

 

最近、マキシマム ザ ホルモンさんの『ぶっ生き返す』という曲を練習しているのですが、その時にふと思ったことがあります。

 

ホルモンのヘドバンは1拍目と3拍目にアクセントを置いている。

 

 

 

 

リズム

 

多くのポップミュージック、ロックミュージックは4/4の拍子で作られています。

3/4拍子や4/5拍子などの変拍子もあり、3/4拍子はワルツと言われたりします。

 

 

音符には種類があって、

 

白丸だけのものは全音

白丸に棒が立ったのが2分音符

黒丸に棒が立ったのが4分音符

4分音符に旗が一つ付いたのが8分音符です。

 

旗が二つになると16分音符、三つになると32分音符です。

 

全音符の半分が2分音符

2分音符の半分が4分音符

4分音符の半分が8分音符

8分音符の半分が16分音符

16分音符の半分が32分音符

 

というわけです。

 

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音楽には小節というサイズがあり、4/4拍子の曲では1小節の中に4分音符が入ります。

ですので3/4の曲は1小節のサイズが4分音符三つ分です。

 

4/4拍子の曲で拍(リズム)を取ろうとした場合、「イチ、ニ、サン、シ」と取ります。

 

そのリズムを取った時のアクセントの付け方が、ホルモンさんは日本的な「1拍目と3拍目にアクセントをつける」やり方だったんですね。

 

 

前述した『ぶっ生き返す』は公式が公開しているMVがないので別の曲ですが、ご覧いただきたいです。

 

youtu.be

 

ギターリフ(曲中で繰り返されるフレーズのこと。リフレインの意)の後にドラムのフレーズがあり、バンドの全楽器がオールインします。

その時に「イチ、ニ、サン、シ」というリズムの1拍目と3拍目に体を折りたたんでヘッドバンキングをしていますよね。

 

ドラムでいうと、足で踏む一番低い音を出すバスドラム(「ドッ」とか「ドン」とかという音で形容されます)が1拍目。

スネアドラムと言われる音の高い太鼓(「タン」というように形容されます)が3拍目。

 

イチ、ニ、サン、ヨン

ドッ ・ タン ・

 

といった感じでアクセントを1・3で取っています(伝わってるかなぁ)。

『恋のメガラバ』や『What's up, people?!』などの昔の曲でも1・3で取っていました。

 

そんなことを考えていた中、この曲が面白いなと思ったのですが、曲始まりのリフでは2・4で掛け声(アクセント)が入っていたのに、バンドがオールインしたら1・3に変わっていました。

「目!」で一度2・4の流れを打ち消しているのですが、いざ注目して見ると面白い発見があるものですね。

youtu.be

『"え・い・り・あ・ん"』といい、久しぶりに聴くとやっぱりホルモンさんもかっこいいですね。

 

 

ところで、どうしてそんなことに目(耳)が向いたかというと、2・4でアクセントをつける文化の中で生活してきたからです。

 

わたしが長い間ファンとして応援しているMUCCというバンドがあるのですが、そのバンドは折りたたみ(体全体を使ってするヘッドバンキング)を2拍目と4拍目にするのです。

 

youtu.be

 

正直なところ『蘭鋳』のBメロや『茫然自失』の方が2・4にアクセントを置いてるのがわかりやすいのですが、公式の動画では無いのでお手数ですがご自身で探していただけると幸いです。

『空と糸』の00:25~がかろうじてわかるかなと思います。

youtu.be

 

 

 

表拍と裏拍

日本は1拍目と3拍目で拍を打つ、表拍の文化だとよく言われます。

ご老人が民謡や演歌を聴いている時にする手拍子は、1拍目で手を打ち、2拍目ではもみ手を。それが3拍目と4拍目でも、次の小節でも同じことが繰り返されます。

 

イチ、ニ、サン、ヨン

  👏   ・ 👏   ・

 

日本が表拍の文化になったのは、生活する多くが農民で1拍目に鍬を振り下ろし、2拍目に鍬を手前に引く(表拍である1拍目にアクセントを置く)運動が盛んだったため、表拍の文化になったのではないかと、以前、和楽器バンドの和太鼓担当の方が仰っていました。

 

実際、騎馬民族が主流だった朝鮮半島の方ではシャッフルっぽい跳ねたリズムの音楽が民族音楽として存在しているそうです。

 

 

一方、英語圏(特にアメリ)の音楽は裏拍が意識された曲が多いです。

ご覧になったことも多いのではないかと思いますが、アメリカの方が手拍子をする時には2拍目と4拍目に手を叩いています。

 

イチ、ニ、サン、ヨン

   ・ 👏  ・   👏

 

Stevie Wonder氏の『Superstition』という曲が裏拍を意識しやすいと思います。

youtu.be

 

Kendrick Lamar氏の『King Kunta』という曲も裏拍が強調されていますね。

 

youtu.be

 

裏拍がうまく理解できなくても、裏拍がしっかりと感じられる曲は首が自然に動いて踊りたくなります。

≒かも知れませんが、これをグルーヴと言います。端的に言えば「ノリ」です。

 

最近の日本のバンドでも、Robert Glasper氏などのアシッドジャズをルーツにしたKing Gnuさんがバケモンみたいなグルーヴ感を持っていますよね。

Suchmosさんもナイスグルーヴ。

 

 

話が脱線しましたが、アクセントを日本的な1・3に置くホルモンと、歌舞伎を根っこにした(と思っています)ヴィジュアル系の畑から生まれたMUCCが、共に20年戦士で今でも活動しているというのは面白いな、という話です。

なんの話だ( ¨̮ )

 

ホルモンは色々な世界から旨味を引き出した結果。

ヴィジュアル系とかパンクスとかのジャンルも精神やファッションですし、歌舞伎も大事な部分は心意氣だから双方を見てどうか、なんて話すのもナンセンスなんですけどね( ¨̮ )

 

どの音楽も等しく素晴らしいものです( ¨̮ )

ちょっとよした方がいいと思うのは「このジャンルは良くて、あのジャンルはダメ」みたいなフォロワーの一方的な線引きですね( ¨̮ )

 

St. Vincentも良いし、Ailiph Doepaも良いし、KRAFTWERKも良いし、John Coltraneも良いし、たまも良いってわけです。

 

 

最後に、個人的に好きな音源を貼っておきます。

youtu.be

 

youtu.be

 

ありがとうございました( ¨̮ )

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇 鑑賞後の感想

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

4/1に『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を観に行きました。

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嘘ではないです。

 

ですので、今回は映画を鑑賞した感想を書き連ねていきます。

 

 

 

 

 

進み出すための破壊

 

物語は「新劇・破」のようにマリの出撃待ちから始まり、ゲンドウ&冬月が差し向けた使徒もどき?を打ち破るシーンへ移行します。

 

戦いの舞台になっているのは花の都パリ。見渡す限り真っ赤に染まった街を、マリのエヴァ使徒もどきが壊して回ります。

エッフェル塔が壊れて、その塔ですらマリが武器にしようとしますが(そういえばその所作も、破でゼルエルにミサイルを持って特攻した零号機のオマージュだった氣がします)、その様を観ていて「庵野さんは『自分でこの世界を壊してやる』とかいう心境だったりするのかしら。それだとちょっとなあ…」なんて推察していました。

 

全部観た後で思い返すと、創造の為の破壊(維持を続けてきた自分、過去を破壊して、新しい自分を創造する。創造するスペースを作るための破壊)だったんだなと解釈しました。

 

 

 

「いい加減卒業しろ」

シーンが変わってシンジ・アスカ・レイの「スタンド・バイ・ミー

どういう流れだったか細かいことは忘れましたが(車に乗るんだったか?)、ある村に行きます。

 

そこでまさかのトウジ登場!

本当にほっとしました。「Q」にあったあんなホラー演出されたら、死んじゃったと思ってしまうじゃないですか。

だから本当によかった。

 

シン・エヴァの物語はQの最後でシンジが引き起こしたニアサードインパクトから14年後の世界だということがわかります。

 

トウジは結婚して子どもを授かっていて、村のみんなからも医者として頼りにされています。

ケンスケも「何でも屋」として人のためになることを行って生活している。

これはあれですね。「自分が思っていた以上に周りの友人が成長し大人になっていてあせるやつ」です。

そこから怒涛のように「大人になる(現実を見る)ちゅうこと」をトウジが嫌味や叱責を一切含むことなくシンジに話します。

 

このシーンで「庵野さんほんまにエヴァを終わらせにきてる」と思いました。

と同時にそういった「大人になる」ことから逃げた人が行き着いた先が、これまでのエヴァシリーズやアニメ文化があると思っているので(偏見)、「いい加減卒業しろよ」と庵野さん本人がファンに語りかけているこの構図は、賛否両論を産むのではないかと思いました。

 

 

 

線路 電線 妊娠

トウジがシンジに話すシーンでは二人が村を長尺で歩きます。

そのシーンで電線や線路のカットが多く差し込まれます。

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その線路や電線の意味を考えてみたとき「知らない人にインフラや愛みたいなものを橋渡しする」ということだと思い至りました。

トウジ(庵野さん)は「人は、生物は、自分より下の世代がこの世界をちゃんと生きていけるために、世界をより良い状態にしてそれを保たねばならない」ということを言いたいのだと思います。

 

シンジが着る服も、トウジがクラスメイトだった当時に着ていた上着ですよね。

「お下がり」も下の世代への橋渡しです。

 

村に帰った際、妊婦さんに話しかけられたトウジは「もうすぐお産やから無理したらあかんで」と妊婦さんへ言います。

トウジ自身にも子どもを授かっており、列車の下をねぐらにしている猫さんも妊娠しています。おたまじゃくしが田んぼを泳ぐシーンも次の世代ということですよね。

綾波は村のおばさま方と田植えをしますが、田植えも子を生かすために育む行為で、田植えをすることによって生態系にも影響が生じます。

 

妊娠していた猫さんはちゃんとお産を終え、母子でスクリーンを横切るシーンが描かれます。

庵野さんは「今なお自分が生きている、生かされているということは、これまで自分がその愛を享受していたようにの世代、孫の世代にも自分の愛を教授していくのが定められているからじゃないか?」と言いたいのだとわたしは感じました。

 

しかし、「エヴァは傷ついた自分に寄り添ってくれる作品だ」と思っている人からすれば、『見たくなかった部分』を強制的に見せられた。しかも好きだった人に。となって荒れたりすんじゃねえかなぁ…。と思ったりします。

 

そういえばミサトさんと加持さんの子ども(加持リョウジくん)がミサトさんに贈る「すいか(Watermelon)」も『次の世代(種)を内包した実(自分)』ですね。

 

 

 

エリザベスカラー

シンジが村へ着いた時にトウジと一緒に現れるゴールデンレトリバー

その子がエリザベスカラーを着けています。

エリザベスカラーは犬猫が怪我をしたり手術をした際に、患部を舐めて治癒の妨げにならないようにする為に装着するものです。

 

シンジが村を去る決断をする時には、ゴールデンのエリザベスカラーは外れています。

これはシンジ自身の心の傷が癒えたということの示唆でしょう。

 

 

 

オトナ帝国 スパイダーバース ミュウツーの逆襲

戦闘などのアクションシーンはあまり興味がないので端折りますね。

あの大軍感に『崖の上のポニョ』を思い出しました。

 

艦隊戦時に並べるゲンドウの御託に対し「エゴかよ!」とピンク髪の女の子(北上ミドリ)が毒づきますね。

わたしは『オトナ帝国』のケンや『スパイダーバース』のキングピン、『ミュウツーの逆襲』のミュウツーを造った科學者を思い出しました。

 

碇ユイという最愛の人を失い、立ち直れなかったゲンドウは人類補完計画というプロジェクトを用いることによってユイと再会しようとする。たとえ世界が崩壊しても。

 

スパイダーバースのキングピンですね〜。

 

ゲンドウと話をしようとシンジは攻撃をしかけますが、太刀打ちできません。

そんなシンジに対し「まだ力でどうにかしようというのか。それだからまだ子どもなんだ。シンジ」と言いますが、これは「投影性同一視」でしょうね。

 

自分と同じ部分が相手にもあるが、それを責めることにより自分は(責めている立場なので)相手よりも優れていると思い込もうとする心理効果。

またその逆もあり、自分と同じ部分を持っている相手を擁護することにより、自分を護ろうとする行動。

 

ゲンドウはシンジに若い頃の自分や、今もある認めたくない部分を見つけてしまうから、シンジを遠ざけていた。シンジから避けていた。

はたしてどちらの方が子どもなのでしょうか。まぁシンジも同じ穴の狢ですし、そんな関係性どこの家庭でも友人関係でもあるんでしょうけどね。

 

「武力じゃだめだ」と氣付いたシンジは、槍を置いてゲンドウと対話することを選びます。

結局話し合いをしない限り解決はありえませんよね。

「話し合いをしても解決しない」可能性はあるにせよ、話し合いをせずに頭ごなしに言い聞かせようとしてもしっかりと相手の心へ透過させることは不可能だと思います。

力任せで言い聞かせようとしても、相手の心は硬化していくだけです。

 

 

ここからゲンドウの回想が始まります。

「親戚同士で集まった時に繰り広げられる、興味もない近況報告を聞かなきゃいけないことの苦痛」とか「他人の声に自分の心を害されたくない。無駄にかき回されたくなかったからイヤホンをつけて外界との関係を断った」であるとか。観ていてわたしも耳が痛かったです(特に後者)。

 

「でもユイという自分の全てを受け入れてくれる人と出会った。その人がいればイヤホンも必要じゃなくなった。しかし、ユイが他界して自分のなかの均衡が崩れ去った。彼女なしでは生きていけなくなっていた。もう一度会いたい。だから人類補完計画を立ちあげた」

 

たぶん「はーーーー自分勝手」と思う人が多いと思うんですが、これまで自分のトラウマや暗部と向き合うことから避けてきたゲンドウがここまで自分の過去と心と正面から向き合ったことが大事なんですよね。

みんな自分が「まだまだ幼くて尻の青い子ども」だなんて自覚したくないですし、それが図星だとより自覚したくないでしょう。臭いものには蓋をしたがるもんです。

 

でも見ないふり知らんぷりをしていても心に受けた傷は治りません。

 

しかし、シンジが父親のことを知ろうとしたことで、ゲンドウ自身が自心のケアを行った。

やっぱり「あの時にこうしてほしかった」や、「あの時自分はこう思ったんだ」などといった自分の感情と向き合うのは大切ですよ。

 

ゲンドウは「親戚の興味のない近況報告を聞くのが嫌。無駄やん」と思っていたが、シンジは(親戚ではないですが)トウジの近況報告やこれまでの生活がどうだったかを聞いています。

父と同じ傷を受け、拗ねてたけど、それを乗り越えたシンジが父の傷を癒す。

 

 

結局のところ毒親問題』ですよね。

 

しかし、この作品はすごいのは「親を絶対の悪。根源の存在と書いていない」ところです。

おそらくこれまでの作品では絶対悪的に描いていたんじゃないでしょうか。「父さんが僕の話を聞いてくれない。だから父さんがみんな悪い」といったように。

 

鬼滅評でも話したように「悪役にも悪役になるプロセスがあった」ことをエヴァでも描いている。

floodinhead.hatenablog.com

 

「Give and Take」という言葉がありますが、最初に『与える(Give)』があり、そのあとに『受け取る(Take)』があります。

「自分の話を聞いてほしいんなら、まず相手の話を聞く姿勢になんなさい」っちゅうことなんですが、親よりある部分で大人になったシンジがゲンドウの話を聞くことにより、ゲンドウのトラウマが癒され囚われ続けていた過去からの責苦から解放されます(電車から降りた)。

 

毒親問題は多分双方が話を聞く姿勢になっていないのが大きいんじゃないかと思っています。

「親があの時にあんなことを言わなければ自分はいま苦しんでいない」と相手のせいにするけど、相手がそんな接し方をした理由は考えたかい?実際に聞いたかい?

その親も過去に似た経験をして、自分と同じように嫌な思いをしたけど、それが強烈に澱として溜まっていて無意識に出てしまった(我々の脳は「あんな人にはなりたくない」 の"なりたくない"は認識できず、"あんな人"しか記憶しないそうです。だから無意識的に自分がなりたくなかったような人間になっていたりする。脳ってアホですね)。とは思い至らないかい?

実際、わたしはそこに思い至っていなかったのでなかなか苦しみました。

 

ゲンドウを癒したシンジは、父が引き起こした事態の責任を取るために身を以て償おうとします。

「これでシンジくんが身代わりになんのかなあ…。ほんまにそんな終わり方なのはちょっとなあ〜…」と思っていたのですが、あと少しのところでユイ(綾波っぽかったけど、わたしにはユイに見えました)がシンジを助け、ゲンドウの罪さえも一身に背負います。

 

もう号泣でした。おそらく嗚咽が出ていたと思います。

子が父を癒し、親の責任を子が引き受け代償となろうとする。それを母が全てを引き受ける。

これによってユイがゲンドウを癒したことにもなります。

 

 

 

過去の上に立っている

槍で13号機を刺す時に過去に登場したエヴァも順番に貫きます。

また、マリが生還した時にも「ありがとう。エヴァ8号機+9号機+10号機+11号機+12号機+8改(うろ覚え)」と言いますよね。

 

シンジがミサトさんに「加持さんの畑で嗅いだ土の匂いがした」とも言います。

 

それは「自分が今生きているのは犠牲があるからだ」と庵野さんが伝えたいのだと思いました。

マリも敵のエヴァを喰わなければやられていましたし、土も色々な植物や虫やバクテリアが死んで生まれたものです。その土があるから、我々が日々食べることができているし、呼吸もできている。

 

生も死も記号化されて久しいですが、死に対して実感が湧きづらいため、自傷行為を行ってしまう人が出てしまったり、「この世は自分が一番だ」なんてバカな勘違いをする輩も生まれる。

生の重さも死の重さも実感していないから無差別殺人も起きる。

 

屠殺映像がスーパーの生肉鮮魚売り場で流れていたら、「食べきれないから捨てる」などといったような命を軽視した行為は絶対にできないと思います。

 

正直過去のエヴァを順番に貫くシーンはくどいなと思いましたが、あれは「必要な」くどさですよね。

 

 

 

小ネタ

ゲンドウが話していた「人類補完計画の概要」はもうまんまVR移住や、内閣府が打ち出している「ムーンショット計画」ですね。

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https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/index.html

 

L結界外の「首なしエヴァ」は『進撃の巨人』などでも言われているように大型の自然災害のメタファーでしょう。

 

加持リョウジくんが作業していた場所がセフィロトの樹だったり、フィボナッチ数列が多用されていたり、螺旋だったり、六角形だったり、相変わらずスノッブ効かせますね庵野さん。

 

 

 

大団円

すべてにケリがついて、駅のホームにあるベンチに座るシンジ。

そこにマリがやってきますが、そのマリに対しシンジが「行こう!」と言います。

これまで「いじけて立ち止まっていてもなんも変わらんやろ」や「歩け!進め!」と言われ続け、お尻を叩かれ続けていたシンジが自ら人の手を取ります。

よかったです。

 

テレビシリーズの各話タイトルレイアウトが、市川崑監督の『金田一耕助シリーズ』のオマージュなのは有名な話ですが、このシンジが人の手を取るシーンは原作の横溝版『金田一耕助シリーズ』の大団円を思い出しました(市川崑金田一を観たことがない)。

 

 

 

庵野さん、おめでとう

色々な方が指摘されているでしょうが、エヴァに登場する各キャラクターは庵野さん自身のレイヤー的人格(感情)を、一人の個人に独立させたものでしょうね。

 

弱気なメイン感情(シンジ)と、そんな弱気な自分を叱責するサブ感情(アスカ)、虚無なサブ人格(レイ)。

テレビ版が始まるまではその三人だけだったけど、庵野さん自身が成長するに連れて周りに対して飄々と接する術を身につけた。その人格がマリとなって登場した。

『新劇・破』だけの登場ではなく以降の作品にも登場しているのは、マリ自身が庵野さんの心に生まれた処世術だったから、完結まで登場した。

 

そうなると、アスカがシンジに対して言った「そうやって心を閉じて、誰も見ない。こいつの常套手段でしょというのも(耳が痛い)、「どうせやる事なす事裏目に出て、取り返しがつかなくなって、全部自分のせいだからもう何もしたくないってだけでしょ」というのも(耳が痛い)、庵野さんが自身を叱責する心の声なのでしょう。

なので、「いいから、やってから云え」というのも"やる前から自分の都合のいいように妄想して、やらない理由を探すな。文句や愚痴はやってから云え。文句なんてものはやったやつだけが言える特権だ"という事なのではないかなと思います。

 

 

 シンジが「もう誰も来ないでよ!僕なんか放っておいて欲しいのに!」と言いますが、これも「全てを肯定して欲しい」ということの現れでしょう。

エヴァに乗って活躍したけど、存在を肯定してくれない。

それは自分が未熟だからだ。でも未熟だということは肯定してくれない。

ダメな自分は放っておかれるべき存在だ(放っておいて欲しい)。でもみんな放ってくれない(放っておかれるべき存在という自分の望みを肯定してくれない)。

 

「ポジティヴもネガティヴも全部受け止めて肯定してよ!傷つきたいって思ってるんだから遠慮なく傷つけてよ!」となんて思っていたら、そりゃあ「ガキ」とも言われますよね〜。

身に覚えがありまくるし、非常に耳に痛いです。

 

 

シンジが泊まっているケンスケの家へ綾波が訪ねて来てアスカと話すシーンがありますが、レイに対してアスカが言う「ここは私が居るところじゃない。守るところよ」というセリフは、庵野さんが株式会社カラーに対して抱いている(変化した?)想いなのではないかと感じました。

あの村自体が株式会社カラーを示唆していて、村を構成している「顔も知らなかった人同士の寄せ集め」が会社を形作り血を循環させていて、村人(社員)一人々々に各々の家庭が存在している。

それを「自分の居場所」だと思っていたけど、「自分が守らなければいけない場所」だと氣付いた。

 

ラスト前のアスカが自身の過去を振り返るシーンでも、「親もおらず、誰も成果を褒めてくれない。だからエヴァに乗って成果を上げ続けるしかなかった。そうすれば大人は褒めてくれるから」とありますが、あれも庵野さんがアニメ監督として仕事をする時に『視聴率』や『映像ソフトやグッズがいくら売れたか』で評価されるので、それに対してのある種のストイックさがアスカとなって生まれたのではないでしょうか。

おそらく『トップをねらえ!』や『ふしぎの海のナディア』を担当していた当時に、そういった「数字の世界」に苦しんだのでしょう。

 

アスカが自身の感情と向き合った上で、「ホントはただ、頭をを撫でて欲しかっただけなの」と自分の弱い部分を受け入れます。

これは所謂インナーチャイルドを癒したということですね。インナーチャイルドはそれ自体を自覚するのが一番大事ですから。

あのシーンのアスカにカタルシスを感じた人は多いんじゃないでしょうか。

 

戦後の學校教育、バブル後の弱肉強食思想がより顕著になった日本では「勝てばよかろう」が行き過ぎて、個人のトラウマに蓋をして癒さないまま成長した人が多くなり過ぎた。

だから、そのトラウマが原因で、新しいトラウマを別の誰か(自身の子どもなど)に産み付けている現状が多くあると感じています。

実際、ゲンドウのトラウマを癒さなかったからシンジが苦しみました。

 

「この飲用精製水だって誰のおしっこから濾過されたものかわかんないってのに。今現在が綺麗だからってそれで全部解決なわけないでしょ」とピンク髪の北上ミドリは苦言を呈します。

今現在が順風満帆で全く問題が無いように見えていても、実は心に深い傷がつけられた過去があってトラウマに溢れている可能性も大いにあるというわけです。

 

 

そんな散り散りに分裂した自己が、解消してシンジ(庵野さん)という一人の自己の中に治った。

 

会社用の顔と、恋人用の顔と、家族用の顔と、學校用の顔と、友人用の顔。それを使い分けるのが暗黙の了解的に奨励されてきたこれまでの時代、それによって生きにくさを感じていた人は多かったはずです。

人の感情なんて多面的にあるのが普通なはずなのに、ちょっと違う面を見せたら「二面性がある」だなんて避難されかねない時代ですからね。

 

そういう個人の多面性が分裂して生まれた『エヴァンゲリオン』という作品で、作品内のキャラクターが自身を癒し解放し、元ネタとなった庵野さんの元へ戻って一緒になった。

映画を見終わった時に「庵野さんの中で色々な問題に折り合いがついたんだな」と思いました。

お辛い経験を沢山されたと思いますが、ケリがついてよかったですね。とても嬉しいです。おめでとう。

 

劇中で語られる「ファーストインパクト」や「セカンドインパクト」などは、庵野さんが過去に経験した衝撃的なトラウマとかそんな感じかなと邪推しますが、そこまで突っ込むのも野暮ですね。

こんなに長々と書いといて野暮のくそもありゃしませんですが 笑

 

 

 

総評

以上のことを鑑みて、やっぱりわたしとしては「賛否両論ありそうだなぁ…」と思いました。

「諸問題がうまく解決しなかったからエヴァにたどり着いたんだよ!」という方もいらっしゃいますでしょうしね。

 

ですが、わたし個人としては全く無問題です。

むしろすごくいい映画だと思います。

 

というより、庵野さん本人が回復して立ち直ったのにケチなんかつけられるかい!お祝いじゃ!お祭りじゃ!わっしょいわっしょい!という感慨です。

 

しかし、これだけ心のしこりが解消した大団円を見せられたので、「えっ…もしかして引退とかすんの…?」と思ったのですが、2023年に公開される『シン・仮面ライダー』で監督をされるそうなので、一安心でしょうか。

 

 

あ、シンジがカヲルに「涙は自分しか慰めないんだ、だからもう泣くのはやめた」と話しますが、本当に良い台詞だと思いました。

あの言葉だけでこの作品を観る意味はあると思います。

 

庵野さんが立ち直ることができたようで、本当に本当に嬉しく思います。

さようなら、全てのエヴァンゲリオン

 

 

P.S. 新劇版の主題歌が全て宇多田ヒカルさんですが、宇多田ヒカルさんはお母様の藤圭子さんとの繋がりがとても強かった様ですので、それも庵野さんがエヴァの世界観との親和性が高いと考えての起用だったのでしょうかね。

エンドロール中にそんなことを考えていました。

 

 

 

委員長が話していた「人生で今が一番若い時だし。今をしっかり生きたいの」というセリフを入場特典で見て「Reolさんか?」と思いました( ¨̮ )

youtu.be

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )