頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

運が良かっただけ。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

最近よく『運が良かっただけだ』と思います。

 

うっせぇわの記事でも書きましたように、『うっせぇわを実行できたこと』も『運がよかった』ため。

京王線の事件もありましたが、わたしもギターが無ければそういった事件を起こしていたと思います。

ギターがあったから自死を実行せず、突発的な事件を起こすこともありませんでした。

 

それもわたしにギターというものがあったためです。

 

そのギターを自分が興じるようになったのも、ギターを与えられたことも、運が良かっただけだと、本当に強く感じます。

 

まず、

 

毎日を"毎日"として過ごすことができることすらも、運がいいのです。

仕事先や出先から自宅に帰る際にも事件や事故に遭う可能性はあります。むしろその可能性の方が優位でしょう。

 

自宅に居たとて天災が起きれば死にかねません。

 

そういった「いつ死ぬかわからない」状況でも日々を更新していること、雨風をしのげる自宅があること、そういった現実に自分が今、いることは運が良かっただけに他ならないと感じます。

 

2021年の頭に書いた『メメントモリ』と同じことを言っていますが、今、わたしが生きているのは運が良かっただけってことは変わらない。floodinhead.hatenablog.com

 

誠、有り難いことです。

 

 

現実は地獄と観ることもできるけど、それは『現実は地獄と思おうとしているから』にすぎないので、そういった思考はクーリングオフします。

 

今生きているのは運が良かっただけ。

 

 

 

有り難うございました。

 

そりゃあわかりゃんせん。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

先日友人と会ったというお話をいたしました。

「最近のものはわからなくなってきている」と話していましたが、その場で「『うっせぇわ』もわからん」とも話していました。

 

わたし自身もあの曲を最初に聴いた時にはピンとこず、「なんでそんなに世間で受けているのかわからない」と思っていました。

 

が、

 

改めて聴き直してみればわかりました。どうしてピンと来なかったか。

 

 

 

性差別

わたしを含めた場にいる全員が男です。

ですが、あの曲は『女性から見た世界の曲』です。

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『淑女であれ』であったり『品行方正であれ』といったような、『"世間からの要求"をこなしてきた人の歌』なんですね。

内心では心底面倒だと思っていたけど、面倒事を起こしたくないから親や教師、上司や"常識"の言う通りにしていた人のための曲なんですね。

 

また『日本は女性に我慢をさせることで成長してきた國』です。

 

女性に我慢を強いて、男は好き勝手する。

それを存続させるために女性に『淑女たれ』と強要していた國だと思っているのですが、その常識という名の強要に従っていた人の叫びだったわけです。

 

親や教師の言うことに従っていた人は、この曲に共鳴するでしょうし、上記の様な『性差別』を受けてきた女性からは、より強固な共鳴を得ることができます。

「言ってこなかったけど、ずっと不快だったんだからな?うっせぇんだわ。調子乗んなよハゲ」という鬱積した本音の結露があの曲なのです。

 

ここまではちゃんと曲を聴いていればわかること。つまりわたしはちゃんと曲を聴いていなかったということです。

 

 

実行したか、していないか

そんな『女性のための曲』とも言える曲が男である人間がピンとくるわけがないのです。

 

ですが、わたしどもがピンとこなかった理由はそこではないです。

 

わたしやその友人らは『うっせぇわを実行した人』なのです。

「不快だと思ってるんなら反抗したらいいじゃない」のメンタリティで、『うっせぇわ』を実行してきた側であったために、ピンとこなかったのですね。

暴力的な反抗ではありませんよ。

 

學校?嫌なら行かなけりゃいいじゃない。

 

上司?嫌ならぶつかればいいじゃない。

 

親?嫌なら嫌の意思表示すればいいじゃない。

 

のスタンスでずっと居たために、「品行方正を律儀に実行している方の氣持ち」が計り知れなかったのですね。

当然だ。

 

しかしです、品行方正を実行していた人は『家庭内の政治(世間体や衣食住を摑まれている現状)』とか『面倒事を起こしたくない』という考えがあり「そうするしかなかった」ということでもあるのでしょう。

 

ですので『うっせぇわを実行できた』というのは、『運が良かった』だけだと思う次第です。

 

しかし、わたしから見た場合に『うっせぇわに共鳴する生活は苦痛』だと思うだけなので、相対的に見ればどちらが良いなんてことはありません。

 

良いか悪いは当人に決定してください。

 

 

ありがとうございました。

初期OS

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

前回は老化についてのことを書きました。

今回は老化とはちょっと違うのですが、世代について感じたことを書いていきますね。

 

少し前の記事で『ラップスタア誕生』のことを書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

その番組の最新回でShowyRENZOさんという方がフルパフォーマンスをされていました。

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そのパフォーマンス中に感じたことがあります。

 

「若い方はとってもナチュラルに『悟り』や『第三の目(サードアイ)』といったスピリチュアルな価値観を体内に入れているな」

 

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思えば釈迦坊主さんもです。

ですがちょっと調べたところ釈迦坊主さんはわたしと同世代みたいですね。ほぼ同い年。

 

わたしがしっかりとスピリチュアルに傾倒したのは2018年?くらいのことだったのですが、思えばそれより前から目に見えないものはあると感じていたように思います。

いやわたしがスピリチュアルに傾倒した経緯なんて関係なくて、スピリチュアル性に目覺めた時は「何かしらのきっかけ」があったことを記憶しています。

 

ですが、2021年現在で25歳よりも下の若い世代の方は、そのスピリチュアル性が標準装備されているように思うんですよね。

幼い頃からデジタル機器が生活圏内にあり、デジタル機器に親しみ深く育った世代はデジタルネイティヴ(1990年以降の生まれ)と言われますが、その様式がスピリチュアルに適用されているように思います。

 

1995年以降生まれの方はスピリチュアルネイティヴなのではではないか、というわけです。

1995年は地下鉄サリン事件が起きたころで、'95年に日本文明に変わった年なんても言われていますが、事件とスピリチュアル性を開花する人が増えた理由と相関があるかはわかりません。知りません。

 

 

そういった『時代の特性』?みたいなものは、先に生まれた人からすれば『インストールする必要』がある価値観であったりします。

 

デジタルネイティブは1990年以降生まれの方が適応されるそうですが、1990年以前に生まれた人は「デジタルに触れて使い方を知る必要」があります。

 

そういった『価値観をインストールする必要』というのが、ある程度長く生きることによって増えていくのだろうな、と感じます。

「新しい価値観」についていけなくなる、そうなることが老化の一歩なのだな、そのような「新しい価値観」に馴染めない場合や、つっぱねて古い価値観に固執するということが、『嫌われる年長者』になっていく原因なんだろうなと思った次第です。

 

しかし『嫌われる老人になること』が老人のあるべき姿でもあるように思うから、過去の古い価値観に固執するのもそれはそれで自然とも言えるのかもしれません。

とはいえ、『老人は嫌われてなんぼ』と思うのは"開き直り"以外の何物でもないとも思う。

煩悶の日々〜〜。

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「若い世代はスピリチュアルを初期OSとして搭載している」は実際にあると思うのですが、もちろん若い世代にも個人差はあると思います。

 

 

 

のんびりと年をとりながら、のんびりと窮屈さを感じていきましょう( ¨̮ )

 

年齢が上がることを『歳を取る』と表現するのか『歳を重ねる』と表現するのかで、実年齢の違いが出るのではないかと感じた次第( ¨̮ )

 

ありがとうございました( ¨̮ )

老化

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

この間友人二人と会いました。

双方ともわたしと同い年のアラウンド30menです。

 

三人で会うのも一年半ぶりという感じだったのですが、その経た時間とは関係なく話すことはいつも同じです。

 

その場にいる全員は高校時代の友人なのですが、その友人一人がこんなことを話します。

「俺たちもう高校卒業して十年経つんだぜ」

 

もうそんなか〜、まぁ確かに妥当かなぁ。

 

と思った次第ですが、Around三十になると目立つことがあります。

 

それは、思い出話。

 

あの時どうだった、や、あの時はどうだった、や、あの時にどうだった、などです。

 

「もう高校卒業して十年経つんだぜ」と言った友人は過去の写真を見返します。

 

その写真群には当然、若かりし頃のわたしも写っているのですが、なんとも若い。青い。

過去ひっくるめて今の自分なので受け入れてはいますが、恥ずかしい限りです。

 

しかし思い出話や昔話が多くなる。これこそ老化というものなのだろうな、と思いました。

 

 

あと感じたのは、『共通言語での話が多くなる』です。

コミュニティ内での会話なのだから当然だろう、と思われるでしょう。

 

しかし、ここにおいての共通言語というのは『その当時にはやっていた漫画や音樂などの娯楽』です。"時代性"とかとも言えそうですね。

 

「オモコロチャンネル」というYouTubeプログラムがなんともアホで好きなので、最近よく見ているのですが、そこのメンバーさんたちが大体OVER30なのですね。

その方々が話す例えとかが、まぁわからん。

 

少年ジャンプというのは、ある程度は広い範囲の共通言語ですが、その中にも世代というものが出てきます。

わたしの世代は中學時分に『ワンピース』や『銀魂』、『BLEACH』や『ナルト』が連載されていました。

なので、わたしはほとんど読んでいなかったものの、なんとなくはわかります。

わたしサンデー派だったしね。

 

ですが、このオモコロチャンネルで出てくる話は『幽遊白書』や『るろうに剣心』とか『GS美神』とかの話です。

もう全くわかりません。

 

そういった『その時代・世代にだけ伝わる共通言語で話をする』というのが、"老化"なのだなと感じました。

 

ですので『鬼滅の刃』も二十年後には「共通言語化」をしていくのでしょうね。

しかし娯楽というのはほとんどがそういったものか…。

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あと話したのは『最近(自分の下の世代)の流行りがわからない』だったのですが、これに関しては、「自分が好きで造詣深いジャンルならばあんまりそうはならないのではないか」と感じます。

その友人らはゲームが好きなのですが、わたしはゲームに明るくありません。

わたしの場合はゲームに対しての素地がまず無いので例として意味なしではありますが、流行りのゲームなんてわかりません。たぶん見たら面白みはわかるんだとおもいます。

 

ですが、わたしは音樂には明るい方なので、音樂の新しいものの良さはありがたいことにまだ実感します。

 

ですので、『最近のものはわからない』というのは、自分がそこまで興味のないジャンルであるから、なのではないかなと思う次第です。

 

でも『新旧関係なく良いものは良い』という価値観も『旧譜の良質な名盤と積極的に触れてきたから』養われたものでもあるのかしら?

だとしたら『新旧関係なく良いものは良い』という価値観を得ることができたのも、特殊的で、ある種特別なことではあるのか?

自負はいけないので頭を垂れていましょう。

 

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若い世代も良いものを作ってるぜ!

偉そう!

ごめんなさい!

 

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でも大人もかっこいい!

かっこいい大人を知る機会があったのは、純度100%で本当に有り難いばかり。

 

何度も話しているのでもう飽きたかもしれませんが、脳は自と他の区別がつかないらしいので、「あんな風にだけはなりたくない」とは思っちゃだめですよ。

『嫌だったその人』を考えるたびに、脳が勘違いして『自分もその嫌だったその人になっていく』そうですからね。

ですので『嫌だったあの人の記憶』を反芻するのではなく『かっこよくて尊敬できるあの人の記憶』をリバイバルしましょう。

 

あ、『同じことを繰り返し話す」ってのも老化だ。 

 

 

『かっこいいと思うことができる年長者』と出会うことができたのは感謝しかありません。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

ベタとモザイクアート

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

五年ほど前にこんな出来事がありました。

ラーメン屋で食事をしていた時のこと。わたしはカウンターに座っておりました。

もくもくともぐもぐ食事をしていると、隣に座るカップルらしき二人の会話が聞こえてきました。

 

「……デブの三段活用ってのがあって、それがデブ、デバー、デッド」

「なにそれ〜!おもしろ〜い」

 

きゃっきゃとお二人ははしゃがれていました。

 

 

しかしです。この話は『タイムマシーン3号』という芸人さんのネタなのです。

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他人が作ったネタを得意げに話して何が樂しいのか。

 

 

これは愚痴です。

 

五年の間「理解できない」とプンスカしていました。

が、どうしてその出来事が起きたのか。

 

タイムマシーン3号さんのネタだとわかったのはなぜか。

 

「特定の芸人さんのネタだとわかった」のは、そのネタに具体性が高かったから、です。

では抽象性の高いネタなら良かったのでしょうか?

 

では『抽象性の高いネタ』とはなにか。

 

ベタといわれるもの?

 

一旦、ベタ=抽象性の高いものと仮定します。

 

 

お笑いにおいての「ベタ」と言われるものは、同じことを重ねて繰り返す『天丼』というものや、バナナの皮ですってんころりん転ぶ、なんてのがあると思います。

 

ですが横山やすしさんがギャグにした〈メガネメガネと探すジェスチャー〉も『ベタと言われているもの』に含まれると思います。

しかし、『ベタ=抽象性が高いもの』というには〈メガネメガネ〉はあまりに具体性が高すぎる。

もしそのジェスチャーをしていたら『横山やすしさん』がイメージされるでしょう。

 

これはどういうことなのでしょうか。

 

 

ということは、です。

ベタというものは『イコール抽象性が高い』ということなのではなく、『数多の具体例が集合した結果』ということなのではないでしょうか。

 

一つ一つの具体が集合して、大きな『ベタ』という存在になっている。

 

 

この状態ってのはモザイクアートと似ている、あるいは同じだなと思いました。

モザイクアートってのは「人の顔写真を集めて別の顔を作る」などといったものです。

 

つまり『具体を集合させて別の具体を創生する』ことですね。

 

この活動が〈ベタな笑い〉と一緒なのではないか、と考えた次第です。

 

 

具体が集合する際に、色々な状況に対応する具体へと変化します。

それはつまり『具体の抽象性が上がる』ということでもあります。

 

この『具体が集合することで抽象性が発生する』というのは水でも起こっていますね。

水の分子というのは水の分子(具体)でしかありませんが、それらが『集まることによって氣体にも液体にも個体にもなることができる』という抽象性が発生します。

全く面白いですね。

 

「Aという具体の集合は、ただAが集合した具体」なのではなく、「具体Aの集合はまた別の具体」であったり「具体Aが集合すると、具体Aに抽象性が発生する」なんてことは、これまで思いつきませんでした。

本当に面白いです。

 

こういったことも、過去にカップルが話していたことがたまたま耳に入り、プンスカし続けていなければ思い至っていないかもしれないわけです。

そう考えるとありがたいと思う。

 

他人の話していたことばっかり引用してんじゃねえぞ、とは思いますけどね。

 

お前自身の頭で考えたことを話せ。

たとえその話が既に他人が話していたことであったとしても、自分なりの結論を見出したことが素晴らしいのです。

常に他人の話を引用していたのならば、その脳みそは他人のものということになりますからね。お氣をつけなさって、

引用をするなら「これはでれそれからの引用なのだけど」と注釈をしましょう。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

引きこもりと相対性理論

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

蓄積

引きこもりという事象があります。

 

この引きこもりというのは、『自室に閉じこもり、外界との肉体を伴った接点を断っている人』ということだと思っています。

ということは精神的な接点は取ろうとするということですね。

外界には出て肉体を持ちいたコミュニケーションをしようとしなくても、インターネット等で外界と接している、ということでしょうからね。

 

つまり人は完全な一人では生きていけないということなのですが、そんな誰でも言える陳腐なことを言いたいわけじゃないです。

 

 

『引きこもり期間』が長いと、〈自室から出るという行動すら億劫になる(外界に対して怯える)〉という状況になると感じます。

 

それは、"氣持ちが積もった状態"だからなのではないかと感じます。

 

外に出ない期間が長ければ長いだけ、その「外界への苦手意識」が積もっていく。like a 埃みたいに。

 

この感覺は以前に書いた『面倒くささは蓄積していく』というものと似ているように思います。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

相対性理論とのリンク

さて「引きこもり」と「相対性理論」とにどういったリンクがあるのか、ということですが、簡単に相対性理論の説明をいたしますね。

相対性理論には『一般相対性理論』と『特殊相対性理論』の二種類があります。

 

その二つで書かれていることを全て書くと長くなりますので、割愛して、『質量とエネルギーは同じ』ということだけを取り上げます。

それが今回の『引きこもり』と関係してくるということです。

 

この『質量とエネルギーは同じ』というのは、「質量が大きければ、それだけエネルギーが強い」ということで、これは万物に対して適応されるらしいです。

そしてこの世に存在するものは全て『重力(自分へ引き寄せる力)を生んでいる』らしく、日々コーヒーを飲むために使っているマグカップにも、ハイエースにも、畑を耕してくれるミミズの皆様も重力を生んでいる、ということです。

ですがわたし達が生活している地球が比べ物にならない位とっても大きいので、重力が強い地球に引っ付いているということらしいです。おもしろいね〜。

 

 

意識という質量

この『質量とエネルギーは同じ』という法則。

この法則が「引きこもりを助長しているのではないか」と思ったのです。

 

「外に出たくない」という意識、それが引きこもりを続けることで堆積する。

その意識がエネルギーを持ち、重力になる。

その結果が引きこもりをより引きこもりへと変化させる。

 

意識という非物質が物質化した質量になり、その質量が引きこもりをより引きこもりにするエネルギーを生んでいる。

よく考えれば、"まず初めに意識が望み"そんでから食事を摂ったり物を買ったりするんだから、意識が質量を持った物質化したりだとか、意識がエネルギーを持ったりするのも当然っちゃ当然か。

 

電話がない時代に電話を作ろうと思ったのも個人の意識だし、その意識がエネルギーを帯びて電話を作ったわけだしな。

 

引きこもりとはいえ、住環境はより良いものにしたいと思うのでしょう。むしろ引きこもりの方が自宅や自室にいる時間が長いわけだから、より良くしようとはするはず。

「住環境を良くしたい」という意識が行動を促し、実際に住環境を改善したことで「外に出たくない」というエネルギーを生んだと捉えることもできますね。

おもしろ〜い。

 

しかしこの『住環境をより良くしたいという意識』に関しては本当に誰にでもあるし、去年の外出自粛運動では顕著になりましたね。

ということはつまりあの運動は民のエネルギーを奪うためにプロパガンダされたのか?

ま、これに関しては飛躍しすぎだな。

 

 

「外に出たくないという意識が重力を生んで、外に出ようという氣力を奪う」みたいな、そういった事象ってのは、あったりするんじゃねえの。とふと思った次第です。

 

 

相対性理論は実際にあってるのかどうか怪しい』という主張もあるそうですが、今回はそれは無視します。所詮は文系人間が入浴中に思いついた仮説ですからね。

 

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

guchidesu

 

わからない。

 

 

どうも、本日もご訪問いただきましてありがとうございます。

 

この記事は愚痴由来のものになっていますので、愚痴が苦手な方はお控えください。

 

それでは

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いやぁ、わからない。

 

何がわからないかわかりますか?

 

いや、わかるはずがありませんよね。ヒントすらないのですからね。

 

スーパーマーケットというお店があります。

 

このお店は、日々摂取する生鮮食品を豊富に取り扱っています。

 

このお店で購入活動をすると、購入したものは自身のものにすることができます。

 

この物々交換は『貨幣という概念』が大衆らが思い込み、染み込んでいるため、ですが、今回のお話には一切関係しないので割愛しますね。

 

スーパーマーケットで購入活動をすると、会計場所の近くにある台で袋詰めをする必要があります。自身の家に持ち帰らなければいけませんからね。

 

この袋詰めは購入者が自分で行わねばいけません。

 

この時に『わからない』がいつも発生します。

 

会計を済ました時に、購入した商品は買い物かごに入れられます。

 

この買い物かごは、ほとんどが長方形の形をしています。

 

長辺を自分の体側に向けたら、横向き。短辺を自分の体側に向けたら、縦向きです。

 

この向きを「横向きで置いて袋詰めをしている人がほとんど」なのですが、これが、わかりません。

 

縦向きにかごを置いて、袋詰めをした方が明らかにスペースはコンパクトにできます。

 

最大で10人が袋詰めできる台があった場合に、全員が横向きで袋詰めをしたとしたら、6、7人で台は定員になるでしょう。

 

つまり、本来ならば待つことのなかった人が確実に3人以上発生するわけです。

 

わからない。全くわからない。

 

どうして『かごを縦に置いたら、ほかの人も袋詰めできる』と思わないのだろう?

 

わたしとしては、「かごを縦に置けばより多くの人が袋詰めをできるな」というようなことは、本当に『"ちょっと考えればこれくらいすぐわかる"程度』なのですが、もしかしたら、やっぱり、世の多くの大衆というのは、そういったことすら思い至らないのでしょうか?

 

やっぱり大衆というものたちは、わたしが思っている以上に"アホ"で、"バカ"なのだろうか。

 

全体を見る能力さえあれば、袋詰めの時にどう身をこなすのが適切なのか、は分かるはずです。

 

この〈袋詰めの例〉が、大局的に物事を見ることに寄与するのかどうかとかは、知らねーんですが、少なくとも〈袋詰めの例〉のような視点(自分すらを俯瞰的に見ること)を養うことは大事であると思います。

 

癖づけることで、どんな事象に対してもマクロの視点で考えることができ、常に一枚冷静に判断することが可能ですからね。

 

いや、もちろん『自分を俯瞰的に見たいから俯瞰的に見れていると思っているだけ』という願望の可能性も、大ぉぉぉぉぉいにあるわけなんですけどね。

 

本ブログをいつもお読みいただいている皆様におきましては、ご承知のことであったかと思いますが、今一度スーパーマーケットに赴いた際には袋詰めの様をご確認していただければと思います。

 

MAJIでほとんどの人が『横向きで置いて』いますので。

 

いやぁ、わからない。

 

 

 

ありがとうございました。