頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

きれいときたない

 

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

皆様は上の広告をご存知でしょうか?

 

これはバーガーキングというハンバーガーチェーン店が打った広告で、「うちのハンバーガーには人工保存料未使用ですよ」という主張が含まれております。

gigazine.net

 

この広告を見て、多くの大衆は「汚い」と思うのかもしれませんが、わたしは「美しい」と思いました。

なぜだろう?と考えたのですが、おそらくその理由は『自然だから』です。

 

ものは朽ちます。

食べ物は腐ります。

 

それがこの地球という世では自然の成り行き、真理となっております。

 

その自然・真理に即しているから、わたしはたくさんのカビに塗れたハンバーガーを見て『美しい』と思ったのでしょう。

 

昨今の加工食品には防腐剤やph調整剤といった添加物がたくさん使用されており、自然に反しているものが多いですからね。

 

上記のように『自然なもの』を美しいと思うわたしなので、防腐剤等を使って「腐らない」ようにしているものを見ると、「汚い」と思うこともあります。

 

「汚い」というよりも、『醜い』と表現した方が正確ですね。

 

おそらくはph調整剤等で腐らないようにしている物の方が、一般大衆的には綺麗と思われるのだとも思います。

 

 

思えば、川で優雅に浮かぶ鴨のみなさまを見ても「美しい」と感じていました。

 

自然の流れに身を委ねてたゆたい生きる、その姿は美しいですよね。

 

他の生物のような自身の体調と真摯に対峙して、快調・不調を元に生活をするものたちは、それこそ尊いものですし、美しいです。

 

身体性を忘れ手放して、栄養のために不調でも飽食し、自然を壊しわがままに生きているヒトなどとは雲泥の違いです。

 

言わずもがなですが、人は醜いものですよ。

 

地球・自然をアスファルトで隠して生きている状態のなにが美しい生き方でしょうか。

 

 

最近植え込みを刈って剪定している場面を見かけたのですが、なんとも無情なものを感じました。

 

植え込み自体が自然でもなんでもない「デザイン」でしかありませんので、デザインを元に作られたものをいくらデザインしなおそうが、それはデザインをしたものの勝手だ、というロジックなのでしょうか。

 

なんともヒジョ〜に無情な心中でございます。

 

人としては生きたくない世の中ですね。

自然を生きる生き物、野生の動物として生きたいものです。

 

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

【備忘録】アーカイヴ

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

昨今はまったくのアーカイヴ時代となっておりますが、ということはそれだけアーカイヴが豊富ということです。

 

アーカイヴがそれだけ豊富になれば、パブリック的な記憶というものも大きくなります。

 

クラウド的パブリックアーカイヴが豊富になればなるほど、個人はその『個人たる記憶』を大事にせず明け渡すということになるんだなと思いました。

 

「検索したらなんでもわかるんだから、止血の方法や火を起こす方法なんていちいち覚える必要ないんだよ」という言説の、あれです。

 

面白いことですね。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

今の自分は本当に『今の自分』を生きているのか。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は特に雑記的な意味合いが強いものとなります。

 

まずタイトルに書いたことがら。

 

「今の自分」というのは、本当に『今の自分』を生きているのか。という疑問です。

 

ぱっと聞いただけでは「何を言っているのか」や、「あたりまえだ、今の自分を生きている」といった返答、「いや、実はあまり生きれていないと感じます」といった返答があることだと思われます。

 

我々は常に自由意志で自己の行動を決定している(と思っている)わけですが、その『行動を決定するに至った根拠』は、〈今の自分〉由来のものなのでしょうか?

 

さっさと、今回の結論的疑問を表現するなら、『はたして〈今の自分〉というものは、〈過去に決めたこと(過去の自分)〉に縛られていないか?』ということです。

 

 

「犯罪はしない。なぜならば、その罪によって行動が制限され、唯一の樂しみであるギターが弾けなくなるからだ』と、過去の記事にてわたしはそう発言していました。(確か)

 

その氣持ちは未だ確かに変わりません。

 

ですが、ここが問題なのです。

 

「過去に思ったこと」を、今、反芻して「今も継続している」というのは、『過去の自分が下した判断に囚われている』ということなのではないでしょうか。

 

『過去の自分に囚われている』ということは、『今の自分を生きていない』ということになります。

 

本当に『今の自分を生きる』のならば、先の犯罪の例を再度用いますが、「過去の自分は犯罪はしないと思っていたけど、今は必要になった。いっちょ盗みでも働いてみよう」と、なったり「昔は必要ではないと思っていたけど、今はどうなのか。一度前提から考え直してみよう」となるはずです。

 

そういった『過去の前提』を解体して、〈今の自分〉で組み立て直す。

その〈今の自分で組み立てたもの〉に従って生活する、行動する、というのが、本来ある『今の自分を生きるということ』なのではないかと思いました。

 

 

一応言っておきますが『犯罪の是非』については、一つの例としての話です。

 

ここの『今一度前提から考え直してみるもの』を「服を着ること」であったり、「毎日三食食べること」であったり、「時間や時計や予定に従うこと」であったりとすることができます。

他にもいっぱいありますよ。

 

つまりは、『自分が当たり前と思っていることの〈当たり前〉を組み直す』みたいな感じです( ¨̮ )

 

今回はそんな「考え出すと頭が痛くなってきそうなこと」のお話でした( ¨̮ )

 

 

 

この記事を書いていて思ったのですが、「盗み」なのに「働く」なのですね。

面白いと感じました。

 

いや?これも『働く』という行為が『代価を得る・賃金を得る』ことだという、「過去の自分」が下した価値観を基準にしているからなのかしら。

 

 

a 迷宮( ¨̮ )

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

至極当然なことを言います。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は至極当然なことを言います。

 

それは『役に立つ経験は恐怖の先にしかない』ということです。

 

ありがとうございました( ¨̮ )

物質が生み出す非物質

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしは音樂や文學、絵などの文化・藝術が好きなのですが、どうして好きなのかをちょっと考えてみました。

 

 

我々が生まれ生きて生活しているこの地球という世は超物質的な場所です。

 

言わずもがな、音樂も文學も超物質的なものです。

 

音樂は空間という物質を震わせていますし、文學は紙という物質に印刷されて(最近では電子という物質を用いて)います。

絵はインクや絵の具を紙やキャンバスに塗りつけています。

 

この表現方法自体は超物質的なのですが、これらの藝術に触れると面白い氣持ちが生まれます。

 

音樂を聴くと悦びや恍惚、文學を読むと登場人物が動きセリフの声が脳内で聞こえます。

絵画を見た時には吹くはずのない風を感じました。

 

つまり物質が非物質を生み出しているのです。

 

普通にすごくないですか?

 

物質が非物質を生み出せるんですよ?

 

 

そういった物質・非物質を超越しているところが好きなんでしょうね( ¨̮ )

 

愛( ¨̮ )

 

 

これからも愛します( ¨̮ )

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

floodinhead.hatenablog.com

 

 

美術館に行きたい。

 

でも心惹かれる催しが現在ないのが残念🌚

「この世には存在しない」という主張

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

この物質である地球という世界では『幽靈』という価値観があります。

 

そういった存在を見たことはありませんが、わたし個人としては「いた方が愉しい」からいると思っています。

だってその方が愉しいからね。

 

ですが、そんな「目に見えない存在」が『目に見えないから』という理由だけで「この世に存在するわけがない」と主張する派閥もあります。

 

個人的には別にどうも思いません。

 

何を見るか、何を信仰するかは一切がその人の自由ですからね。

 

基本的人権』ってやつです( ¨̮ )

 

 

『自分が相手を否定する』ということは、『他者から自分が否定される』ということも肯定し受け入れているということになります。

 

『自分が否定されたくない』というエゴちゃんのために、わたしは他者をいたずらに否定しないのです。

所詮わたしも人ということですね( ¨̮ )

 

 

あと、どうして『いない』と断言できるのでしょうか?

 

『「いない」と断言できる』のはその存在を確かに『認めているから』に他なりません。

 

つまり「幽靈なんて絶対いない」と言えるのは『幽靈の存在を認めているから』です。

 

とんちみたいな禅問答みたいなお話ですので、ちょっとむずかしい部分はあるんでしょうけどね( ¨̮ )

 

幽靈否定派のみなさまが「幽靈はいない!」と主張するたびに、否定派が自らその存在を肯定しているというのは、なんとも皮肉的というか"いとおかしい"ものですね( ¨̮ )

 

 

そんな上記みたいなくだらない揚げ足とりをしたいがために今回記事を書いているわけではないのです。

 

本来の目的は、その否定派の皆様がよく発言している言葉です。

 

そう、タイトルに用いた『この世にいない』という部分。

 

よく否定派の皆様は「幽靈なんてこの世にいるわけないでしょ」という言い方をします。

 

この世。

 

『この世は物質である』と冒頭に書きましたが、そんな〈物質〉である地球なのだから〈靈体〉である幽靈、ある種の思念体である幽靈が存在するわけがないのです。

 

やはり相容れない相手からも學ばせていただく姿勢・視点というのは大事でございますね。

 

 

この地球は一切が物質的ですが、その物質社会で生まれ生きる物質である我々が、常日頃無意識に持っている『意識』というものは物質なのでしょうか?

 

物質の肉体が生み出しているから物質?

 

それとも意識は非物質で、非物質の器としての肉体的という器?

 

はたして本当に器?

 

物質は非物質を閉じ込めておく牢屋と考えることはできないのかしら?

 

それならば『この世』と我々が認識している「この世」というものって一体?

 

 

( ¨̮ )

 

 

桜は散っちゃいましたね( ¨̮ )

 

 

また来年( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

〇〇派

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

派閥爭いちゃん

世間には色々な派閥があります。

 

右だ左だ人種差別否定派だ肯定派だetcだetcだ…。

 

基本そういった些末なことはわたしには関係がないのでどうでもいいんですが、本当に色々な派閥が世の中にはあります。

 

あんぱんの中の餡子はつぶあんこしあんか、や、サッポロ一番は塩派か味噌派か、きのこの山たけのこの里はどっちが好きか、など。

 

どぅっっでもいいですよね。

 

どちらにも良さがあるわけですし、どちらにもフォロワーがいるのでどっちがどうかですぐさまシェアが止まるわけではないのですよ。

 

「わたし個人的にはこっちが好き」というのはもちろんありますが、結局のところ『その人がそれを好きならいいじゃん』という氣持ちなので、最終的にはいつもの『お好きに生きて( ¨̮ )』になります。

 

が、先日この『どっち派抗爭』をもとにある出来事が起きました。

 

とある商品について『どっち派か』という話題になり、ある方が「絶対に△△!△△以外ありえないし、○○の方が好きとか頭おかしいでしょ」と言っていました。

 

わたしとしては完全にその〇〇の方が好きだったので、瞬間的にムッとしました。

その時に

  • 『自分が好きなものを否定されたことで発生した怒り』
  • 『自分が好きな〇〇を否定されたことで自分も否定されたような氣になったから発生した怒り』
  • 『いたずらに"頭おかしい"と評価されたことで発生した怒り』

という『自分が怒りを感じた理由の候補』を考えることで、なんとか必要以上の怒りに支配されずに済みました。

 

ちなみにおそらく三つ目の『いたずらに"頭おかしい"と評価されたことで発生した怒り』だと思われます。

 

 

怒りの針に一本釣りされたわたしは考えた

そんな風に必死に無意識の怒りを表層化して、「まぁ自分に好きなように評価するのが人間だから」とか必死に必死にクールぶってようやくなんとかその時は平静に戻りました。

 

しかし、一回ひっかかった針。

いたずらに『頭おかしい』と評価されたことに、幼くも囚われ烟っているわたし。

「怒りは定着させないことが重要」と以前に書きましたが、定着してしまっていたようです。

それほど瞬間的に強い怒りだったんでしょうね。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

そんな怒りに烟っているときに思いました。

「こんなにひっかかっているということは、ここから何か學び取れということなんだな。では、その學びとはなんだろうか」

 

そうして考え結論に至った次第です。

 

その本質はマウンティングです。

 

『頭おかしい』というのは、〈自己の優位性〉を高めるため、その〈優位性〉を強く感じたい時に用いられる言葉だと感じます。

その言葉が「自分が好きでないもの(○○という商品)を好きな人」に対して使われたのが今回の状況なわけですが、『「自分が好きでないものを好きな人」を「頭おかしい」と評価する』ということは、『自分の方がまともであると主張したい』という深層心理的な経緯が隠れていると思えます。

 

つまり対象を「頭がおかしい」と評価することで、『今自分は相手よりも優位な位置にいる』と思うことができる。それによって自分が無意識に抱えている無価値観や自己欠乏感をかりそめに埋めた氣になれるということです。

 

端的に言えば『対象(相手)を「頭おかしい」と形容・評価するというマウンティング』をしているということですね。

 

 

「自分と相容れない相手が、自分と同じ種族・コミュニティであると思いたくない」という心理もあるのかもしれません。

 

それの延長が『特定に名称をつける』ということになるのかも?と思った次第です。

 

 

エゴを捕らえよ

そういった『無闇でいたずらな評価』が『自分自身が感じている無価値感』からきたものだというのは、なんとも悲しいというか、氣の毒なものですね。

 

しかし、そういう経験も無意識もその人が必要な経験であるので、おせっかいに口や頭を突っ込むものでもありません。

「救いたい!」とかなんとかっていう氣持ちもエゴですし、そのエゴもまた自己無価値感からくるもの(「人の役に立っている自分」と思いたい、そう思って無価値観を埋めたい、ということ)ですからね。

 

全く『難攻不落の氣持ち』というのは厄介千万なものです( ¨̮ )

 

しかし、わたしも人間ですね。まだまだ怒りに支配されてコントロールされてしまいます。

クールぶって自己の幼稚な怒りを素直に認めようともしなかったりします。

 

人間としての旅路はまだまだ続きそう。

 

 

上記した無意識の秘密を解明できたのも『頭おかしい』といたずらに評価した人が在ったからですし、それによってわたしの中に怒りが発生したからです。

「本当に有難く學びの多い出来事ばかりで感謝しかありません」と、物分かりのいいようにクールぶっておきます( ¨̮ )

 

🌝 ちなみに🌚

ちなみに以前にも書きましたが、『あなたはどっち派?』の派閥抗爭を仕掛けて儲かるのは、その商品を作っている企業です( ¨̮ )

 

『きのこたけのこ戦争!あなたの好きを応援しよう!』というキャンペーンが打たれていたとして、消費者はその人が好きな方を買って応援しますが、「きのこの山」も「たけのこの里」も両方明治が製造しているので、ただただ明治が儲けるということです( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました\(´-`)/