頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

藝術の本懐

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしは藝術が好きです。

以前は藝術家についてを言及いたしました。

 

今回は、実はその藝術家についての言及をした際に書くはずだったものを書きます。

 

 

まず、現時点で思っている『藝術とか一体何か』なのですが、それは《脳内にあるイメージを寸分のずれもなく表現すること》だと思っています。

 

藝術とは、まず想像(imagenation)があって起こるものだと感じています。

 

この想像を元に表現していく。

 

脳内で完璧なイメージ・完成形があったとて、いざ出力をしてみたら全く思い通りのものができない。なんてことは、ざらにあります。

これは藝術だけではなく、何においてもそうだろうと思います。

 

「いざ作ってみたらば、うまくいかない」からこそ、試行錯誤して『自分の脳内にあるイメージ』と『いざ実際に出力したもの』との差、ずれを少しでも少なくしていく。

『思ったもの』を《思い通りとして出力する》というその行為が、「藝術という行為・活動」なのだろう、ということです。

 

よく踊りや武道を極めている方の所作?活動、その動きを『藝術の域にまで達している』などと形容したりしますが、それは長期の活動・求道により、脳内と表現・出力とのずれが少なくなっているからなのではないか、と考えます。

 

 

藝術家諸氏の皆様は、その『想像と現実』とのずれを、たとえ紙一重ですら無くそうと苦心する。

その苦心が命を削るという行為とも等しく、その削った命が、表現された作品に込められる。

命を削った、そのかけらや煌めきが作品に込められ、実際の命へと変わり、きらきらと、あるいはぎらぎらと、色々な色味で輝くから、人々は(少なくともわたしは)藝術に惹かれ、魅せられるのではないかと感じます。

 

そういった考えなどがあるため、「職業○○」などと言われる、商業に寄った作品は、藝術好きの人間からは好まれない。

魂の洗練を、その魂の欲求を、その生活全てを無下にしているからです。

心の根っこからの欲求を無視して生きていると、そりゃあ虚無になります。

 

 

しかし、でも、果たして自身の魂の洗練を行なっているだけでは生きていけないのが現代。この世。

 

難しいですね。

藝術家の皆様にはどうか懸命に健康で生きてほしいと、説に思います。

 

 

そういえば、色々な作品では『作家性』が尊ばれるというか、好まれる、そんな傾向があるように思います。

その理由ですが、それって結局、その作品を作った人の『人となり』を、受け手は感じたいのではないでしょうか。

 

わたしは大衆向けに作られた作品には全く何も感じないというか、どうしてもどこか「いい子ちゃんのふり」をしているように感じてしまって辟易としてしまいます。

実際、マクロに向けて作られた作品というのは、作者が込めた思いが薄いというか、「誰にでも当てはまるもの」を目指している(ように思える)ため、多くの大衆へ周知はされるが、周知されたうちのほんの数%にしか当てはまらないという実際が起きるのでないのか、と感じています。

 

超個人的なものを突き詰めていったものほど、実は色々な多くに当てはまったりする。

 

太宰治さんの『人間失格』なんてその代表ではないでしょうか。

他には八十八ヶ所巡礼さんの音樂たちは、その《超個人的なもの》の成分が強いように思います。

 

もちろん、《超個人的なもの》は、大衆への周知はマクロに向けて作られたものではないので、「知る人ぞ知る」や「名前だけちょっと知っているけど、実際に見たり触れたことはない」くらいになる人の方が多くはなるのでしょうけれど。

 

 

しかし、わたしは大量生産品されて大量に消費される商品のような、俗なものには魅力は感じないんだよなぁ。

あくまでも個人の意見ですよ。

 

 

ま、実際、藝術には『このモチーフで描かれた、その「もの」と「それ」に、いかに作者の想いを込められるか』や、『実際に描きたいものは明確にあるけど、明確にそれを描くと説教臭くなったり無粋だから、メタファーとしてのこれを用いて、寄木細工みたいにする』とか、『Aを表現するためにBを用いて、Aという本来の意図は隠す』とかの内情?など、そういった〈知られるべきでない意図〉と〈知られるべきと知られるべきではないの両方をもった意図〉があったりするのでしょうけれどね。

 

 

難しいですね( ¨̮ )

他にも「藝術は観てもらう人がいて完成する」とかのお話もありますが、難しい問題です( ¨̮ )

 

わたしは、わたし自身が藝術を好きで、その活動を愛していたら良いだけのお話ですし( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

【八十八ヶ所巡礼】玉虫色の非現実【仏滅ナイト2023】

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

行ってきました『仏滅ナイト2023』!!!!

 

👇過去の八十八ヶ所巡礼関係記事👇

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開演に先駆けて。

この日は初めての試みを行いました。

 

いつもわたしはライヴに行く場合、ライヴ当日はその公演を行う人の曲を聴いて、氣持ちを高揚させております。

 

しかし、どうやら世の中には『ライヴ当日はあえて聴かない』という方もいらっしゃるそうです。

わたしにはない考えだったので、「知らんことを知らんままにするのはよくない。酸っぱいブドウでは」と思い、実施しました。

 

朝はTotoを聴き、お昼と会場に向かう道中はYesを聴きました。

 

Yesを聴くと、マーガレット廣井さんが強く影響を受けられたんだろうなぁ、と感じます。

 

あえてこの身、精神、魂、細胞の霊魂から八十八ヶ所巡礼を飢えさせたわけですが、飢えていたからか会場に向かう電車内では、もうN.I.8 N.I.8するしかない状態で、"ちょっと危険だな、W.A.9 W.A.9しすぎてないかな"と感じた次第です。

『八十八ヶ所巡礼を欲している』という意識が、自分の肉体よりも先行して前を歩いている。そんな感覺だったように思います。

 

さて、南海電鉄堺駅に到着。

はやる脚を引き連れ、向かいます。

 

鬼ころしを買いに、駅近くのスーパーへ。

 

 

どうやら『ぼっち・ざ・ろっく』の廣井きくりさんというキャラクターが、マーガレット廣井さんをモデルにしていると噂で、その廣井きくりさんが鬼ころしらしきAlc.をよく呑まれていたので、「八十八ヶ所巡礼をキメる前に、スナックAlc.をクイック10秒チャージでキメるか!」という魂胆です。

 

そして、いざ、スーパーへ入店。

 

初めての町。

初めてのスーパーです。

 

店内で迷います。

 

ふらふらしながら、「この一画は、、お酒かな?」などと思いながら、鬼ころしが陳列されていると思しき棚へ。。

貴様らの本氣か。。堺の日常か。。。

 

売り切れじゃん!

 

なので、こうなりました。

さけるチーズHOTは置かれてすらいなかった

 

バドワイザーを選んだ理由は、以前マーガレット廣井さんが公園で呑まれていたらしいためです。

 

 

いざファンダンゴ


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ちなみにこの日は初めて友人と八十八ヶ所巡礼さんのライヴに行ったので、堺駅で集合してから会場へ向かいました。

 

「MAJIで初めて来る場所だからわからん」や「もともと十三にあったライヴハウスなんだけど、移転したらしい。なんで移転先が堺なのだ」などと話していると到着。

 

今宵も様々なパーソナリティを持つ貴様らの皆様が集まっています。

 

 

開場前だったので、話しながら自分の整理番号が呼ばれるまで待ちます。

 

その際に「もともとが有名なライヴハウスであったりしたら、どんな辺鄙な場所でも集客が見込める。だから場所代の安いところに居を構えたのかもね」と友人が話しました。

その意見に『なるほど、それはあるな』と思うわし。

 

なぜならば、もともとあった十三ファンダンゴというライヴハウスは、かのウルフルズさんが育った箱として有名でした。

そんなメジャークラスのバンドを輩出したライヴハウスとなると、フォロワーのバンドが出演したいと思うのは当然ですね。

そうなると自然と集客は見込めます。

 

そんでもって、ウルフルズさん。

思い出したことがあります。

2022/12/4に開催された『幻魔大祭 2022』のメンバー紹介で「カラオケでよく歌う曲」が紹介され、マーガレット廣井さんは「マーガレット廣井がカラオケでよく歌う曲は、ウルフルズの『借金大王』ではなく!上田正樹とSouth to Southの『オレの借金全部でなんぼや』でございまぁす!」と仰られておりました。

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今思えば、ファンダンゴ公演への布石?だったのかな、などと推察もしました。

きっと考えすぎですけどね。

 

 

そして、いざ入場してみれば「あれ?移転したんだよね??」と思うような内装。

のちに判明しますが、移転してから三年が経過したそうです。

ですが、 十三時代からの備品や告知ポスターなどもそっくり移転されていたので、もはや既に老舗ライヴハウスの風格を様しておりました。

 

わたしは、フロアの真ん中あたり、柱の麓で開演を待機。

マーガレット廣井さんの真正面になるあたりでした。

 

 

箱の収容人数は200くらいらしいのですが、どうやらフルキャパソールドの公演だったようで、観客が全員入場するまでに、どうしても時間を要し、予定より12~14分押しで開演。

 

 

開演〜悟ri + time

初めてのライヴハウスだったわけですが、この堺ファンダンゴの特色といえばステージの壁に描かれたペイントではないでしょうか。

これは公演後に撮影
照明の関係でなかなかこわい

白色の壁に赤や緑、黄色などのペンキが無造作に塗られています(その実、意図された無造作かも)。

 

2022年の年末に開催された『大・仏滅ナイト!!』では、アルバム『日本』に収録されている『Prologue』が開演・登場SEとなっていたわけですが、この日は『幻魔大祭』の登場SEが流れました。

Sonny Rollins氏の『You Don't Know What Love Is』のような、艶のあるサックスのメロディが印象的な曲ですが、その調べと、壁のペイントとが相まって、これまでとはまた違ったオリエンタルを感じました。

どこかチベット的というか、ミャンマー的というか、ブータン的というか、なんとも『日本的ではない仏教を感じた』ということです。

 

いつものようにKenzooooooooさん→Katzuya Shimizuさん→マーガレット廣井さんと登場しますが、この日見たKenzooooooooさんの筋肉は仕上がってた。以前拝見した時よりも成長していました。

「でかい!背中に太平洋背負っとんのかい!」と思うほど、背中が広かったです。

 

 

メンバー全員の準備ができ、『悟ri + time』がスタート。

なんといえば良いのかわからないのですが、照明の兼ね合いなのか?ステージの壁が煌めいていたように思います。

なんというか、大氣みたいな。八十八ヶ所巡礼のお三方を取り囲む、大氣・氣流としての我ら貴様ら、みたいな。

 

 

⇔粛正の夜明け⇔〜◎百鬼園

『⇔粛正の夜明け⇔』の時か?の照明が青紫であり、その照明に照らされるお三方と、やっぱり壁のペイントがある種異様というか?その表情の印象が変化したように思います。

 

ちなみに、『大・仏滅ナイト!!』の際にもこの曲は演奏されました。

その時の感想ブログでは言及しませんでしたが、曲のキメ、最後の一音が、原曲では「ジャッ!」という16分音符なのに対して、『大・仏滅ナイト!!』と今回の『仏滅ナイト2023』では「ジャーッ!」という八分音符で演奏されていましたね。もしかしたら付点八分かもしれない。電車かもしれない。

 

 

『◎百鬼園◎』

この曲のベースプレイですが、『ダカダカッ!』というリフレインで弾かれている駆け上がるようなフレーズはいつ見ても意味不明で笑っちゃいます。もちろん褒めています。

 

また壁のペイントの話になりますが、開演時には「ペイントされた壁にミャンマーチベットブータン的な仏教を感じた」と書きました。

が、『◎百鬼園◎』が演奏されている時は〈インド〉を感じました。ナマステ。

 

この時に《多面体としての八十八ヶ所巡礼》である、と思いました。

物事は万事多面的ですが、このバンドは、この壁のペイントを通してバンドの多面性をより表しているのだ、と、そういうことですね。

実際、そのペイントを見ていると、大氣にも見えますし、大河にも見えます。なんなら天の川的銀河にすら見えました。

プログレな音の洪水に、その大河の奔流に身を任せているわたしでした。何を言っているのでしょう。

 

 

そんな中「確かに物事は多面体だけど、でもこの場の一箇所で見ているという状況は変わんなくね?」脳内が言います。

そして『一箇所で見ても、見方を変えたら見え方が変わる』そのことから《玉虫色》という言葉を想起しました。

この日の八十八ヶ所巡礼は玉虫色をしていたのです。

酔狂。

 

 

しかしですね、この時にようやっと感じ入ったのですよ。

よく「ライヴは生物だ」なんて言いますが、確かに、その時その場所その瞬間でないと起きないこと(それは日々の生活でもそうなのですが)、それがライヴイベントには詰まっているように思います。

「ライヴで曲が育つ」とも言いますし、だから、この時に初めて『なるほど、だから同じパッケージのライヴツアーでも全公演を行く方がいらっしゃるのだな』と思った次第です。

 

 

八十八発

この日も『大・仏滅ナイト!!』で初お披露目となった竿でマーガレット廣井さんは演奏されておりました。

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前述通りピックアップはハムバッカーではなくシングルコイルなので、歪みはそんなに深い感じではなかったのですが、その『歪みが深くない』ため、逆にこの曲のイントロで演奏されるスラップフレーズがバッキバキの音に聴こえました。

なんというかアルデンテみたいな音の質感です。

 

例えるなら日の丸スタインバーガーのハムバッカーピックアップが、即席麺でよく用いられる油揚げ麺だとしたら、シングルコイルピックアップの音はデュラム小麦のパスタ類みたいな感じです。

ハムバッカーピックアップはその特性上、歪みがよりかかるのですが、その『ボワっと毛羽立った音像、fuzzyな音、なんか悪そうな音』それが油揚げ麺っぽくて、歪みはハムバッカーほどかからないけど、その分コシのある音というか音の粒が綺麗に聴こえるシングルコイルピックアップは、『油であげずに乾燥させたパスタをアルデンテで茹でた時の食感、みたいな音』と感じた次第です。果たして通じるのかこれ。

 

まぁ、なんにせよ。

その『歪みが深くかかり過ぎていないが故の音』だからこそ、バッキバキな音だった。というわけです。

そんなバッキバキな音を聴いて、「バッキバキだ!」と思いました。

 

そして、この内容を書きながら八十八ヶ所巡礼さんの音源を聴いていますが、発表したのが古い曲であるほど『シングルコイルの音』をしています。

『仏滅トリシュナー』で使用されているベースは、アトランシアという日本のメーカーのオーダー品だそうですね。


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このベースは、リアのピックアップ(正面から見て右手側。立てたら下側のもの)はシングルコイルでフロントピックアップ(正面から見て左手側。立てたら上にくるもの)はミニハム?みたいです。

はたして音源のレコーディングの際にもアトランシアを弾かれているのかは不明ですが、音源と同じ音を生で聴けたのは良い経験でしょう。

話の終わり方がわからない。

 

この八十八ヶ所巡礼というバンドは『ライヴも音源クオリティ』が特徴として持ち上がることが多い印象な方々ですが、音の粒や質さえも再現するって、ちょっととんでもないことですよ。

 

いや、その一音ごとを揃えてこその『ライヴも音源クオリティ』なのかもしれないけど。

 

 

途中のベースソロ(樂曲time 1:39~)のプレイが音源と違って『ドゥレドォレデュベッ』みたいな感じのエグいライヴアレンジとなっており、耳を疑ったり目を見開いたりしました。

 

 

愛ハ三文字

ドラムソロが鳴らされ、『愛ハ三文字』の開始が告げられる。

原曲よりも一小節か二小節くらいドラムソロが長かったですね。

 

「不敵な夜に現れ、救われない曲たちを救済する。仏滅ナイトにようこそ。 十三ファンダンゴに愛を込めて」みたいな内容をマーガレット廣井さんが話し、わたしなどは「あれ?十三って言った?間違えた?」などと思っていましたが、のちのちの話を聞いていると、敢えて『十三ファンダンゴ』と言ったのかなと思いましたが、そんなことを究明するのは野暮ですね。

 

 

ウルトラ・ヘヴン

この曲が始まった瞬間、とても嬉しいような、そんな感情になりました。

しかもこの曲は(わたしが受け取った次第では)、『人生は自分の感情と見方次第』を歌っています。しかも自己救済の曲でありますし。

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前述の通りこの日は色々と印象の様相が変わるのが印象的だったので、曲の進行により歌の語り手の視界が変化するこの曲とは御誂え向きだよなぁ〜、などと思いました。

 

曲の最後の方でお花形?のライトが、一つだけステージ後方の壁に照らされて漂っていたのですが、なんだかこの曲の語り手みたいに感じたりもしました。

 

 

ano世love〜ユーレイ・ドライヴ

『ano世love』の歌詞で言及されていたからかは不明ですが、この曲が演奏されている時はペイントされた壁が三途の川に見えました。

曲終わりにマーガレット廣井さんが「ano世love!」と言っていました。可愛かったです。

 

この辺りで思ったのですが、なんというかこの日は浮世離れした内容の曲を多く演奏していたように感じました。

『ano世love』の次は『ユーレイ・ドライヴ』ですしね。

 

よくある話ですが、このあたりは樂しくてあんまり覺えちゃないです。

 

 

霊界ヌ~ボ~♨︎

まさかこの曲が聴けると思っていなかったので、思わずN.I.8 N.I.8してしまいました。

眼前に見える貴様らの皆様方も、ノリノリがよりノリノリとなったように見受けました。

かっこいいもんね。八十八ヶ所巡礼さんの曲はみんなかっこいいんだけど。

 

しっかし貴様らのみなさんは本当に色んな乗り方をされていて、つくづく"人は一緒じゃあないんだなぁ"などと感じました。

 

 

あと、冒頭のベースソロ後にギターが「トゥリルリルリ⤴︎トゥリルリルリ⤴︎」と鳴りますが、この時のプレイがピッキングなしのトリルで発音していたので、MAJIのMAJIにMAJIで魂消ました。


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ギターやベースなどの弦楽器は、ピッキングしてから空いている指で勢いよく同弦を押さえるという奏法があります。

ピッキング後に同じ弦を指で押さえると「トゥリ⤴︎」と音程が上がり、これをハンマリングオンと言います。

反対に、ピッキングしてから弦を離すことをプリングオフと言い、このハンマリングとプリングを交互に繰り返すことをトリルというのですが、ハンマリングもプリングもゆっくりすると音が出なかったり途切れたりしてしまいます。

 

なので、トリル奏法は素早く行わねばならないため難しいのですが、音程が上がっていく「トゥリルリルリ⤴︎トゥリルリルリ⤴︎」というフレーズを、この日のKatzuya Shimizuさんはピッキング無しで演奏していたのです。

PVでも確認できますが、人差し指と小指でトリルを行なっておりますが、普段小指なんてのは力もそんなに入らないので、トリルでの発音って難しいし、できてもモタっとしたりします。

端的にいえば難しいのですよ。

 

こちらの記事をお読みいただいている方がもしいらっしゃれば、『霊界ヌ~ボ~♨︎』の曲に合わせてご自身の腕を指板に見立ててトリル体験をしてみていただきたいです。

このなかなかしんどい反復運動を鉄製の弦を押さえながら、しかも音程をあげるために移動しながら行なっているのですね。とんでもないですね。

 

 

仏滅トリシュナー

アルバム『幻魔大祭』についているライヴDVD『日本万歳』に収録されている『仏滅トリシュナー』を再演しているようでした!!

かっこよかった!

 

よくよく八十八ヶ所巡礼さんの演奏は度々、各々の個人競技になることがありますが、この日は『仏滅トリシュナー』が各々の個人競技タイムでした。

個人競技に見えるけど、ちゃんとバンドアンサンブルはまとまっていたので、各々が自分の演奏に没頭しながらも、ちゃんと周りの音を聴いているのでしょうね。

 

多分この曲の途中だと思うのですが、マーガレット廣井さんが「日々のお勤め、誠に誠に誠に誠に誠に誠にご苦労様であります!真っ暗闇ではないけど、こういった明るさも非現実感があっていいよね。我々は好きなことをやっているだけで、貴様らを最高な非現実に連れて行く!」みたいなことを話されていたと思います。

 

 

JOVE JOVE

「我々は貴様らと一緒に酔っ払いたい。酒?酒でもいいけど、我々は音樂で貴様らと酔っ払いたいんだ!一緒に音樂で酔っ払おう!貴様ら!」から『いらっしゃいませ いらっしゃいませ〜』の口上へ。

 

ようやっとライヴイベントでも声を出せるようになったわけですが、『JOVE JOVE』の歌い出しである「Yeah!」を叫ぶの愉しすぎる。

これは3/17の松山が愉しみだ…。。

 

そういえば、どういう流れでなにを話していたかは全く忘れてしまったのですが、マーガレット廣井さんがバーカウンターを指し示していました。良いことを話されていたとは思います。

 

 

いつも本編が終わると、ベースのハウリングが発生しないよう、マーガレット廣井さんは足元に置いているチューナーを踏んでからステージをハケるのですが、この日はエフェクターペダルを踏み間違えたようで、アンコール中は「ブゥゥーン…」というハウリングが起きていました。

 

 

アンコール

ブゥゥーン…

 

そんなハウリングの中、Kenzooooooooさんがゆっくりと登場。

場が場なら信仰が始まりそうな雰囲氣。

目の前には半裸の男性がいるし。

 

そんなKenzooooooooさんがゆっくりと右下にあるベースを見て、ゆっくりと触れる。

ハウリングが消え、貴様ら爆笑。

 

そのあとに残りのお二方が登場。

マーガレット廣井さんは「踏むエフェクターを間違えた」と話されておりました。チューナーと歪みとを間違えたりされたんですかね。

 

余談ですが、Kenzooooooooさんが定位置に着くと、ペイント壁を背負う形となります。

前述の通りペイント壁が赤と緑と黄色という色味であるため、攻撃的国民的音楽を思い出しました。


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「自分たちで作っておきながら、どうやって弾くのかわからない曲がある。今日演奏した曲にもそんな曲があったんだけど。どう弾くんだったかなぁ…。なんか、酔っ払った時に作ったすごい美味しい料理みたいな。めちゃくちゃ美味しかったんだけど、二度と作れないみたいな。いや…、違うな。料理は食べられるけど、音樂は聴かれないとダメだから。そんな曲を聴いてくれて、聴きたいと思ってくれてありがとう。精霊みたいになって『ありがとう』『ありがとう』って言っている思うよ」と、マーガレット廣井さん。

『今年もマイペースに活動するのでよろしく〜』的なこともお話しされておりました。

 

話題はファンダンゴについての話へ。

「このファンダンゴというライヴハウスは移転されてて、もともとは十三ってとこにあって、その頃にはよく出てたんだけど、移転されてからは一回も出てなくて、正直断りまくってて。それは、まぁコロナのこととかもあるんだろうけど。」

「でもこの間ファンダンゴの店長からメールが来てね。

ファンダンゴが十三から堺に移転して、早三年が経ちました。

そんな三年間ですが何か足りないなと感じながら過ごしていました。

何が足りないか、ずっと分からなかったのですが、いま判明しました。

八十八ヶ所巡礼です。

このメール見て、今日になります」ラブレターか?

 

このあと二回くらい店長さんのモノマネをしながら「八十八ヶ所巡礼です」と言っておりました。

マーガレット廣井さん曰くファンダンゴの店長さんもAlc.がお好きなようでいつも酔っているらしいです。飲兵衛のシンパシー?

 

 

「十三時代にお世話になってたPAの黒瀬さんって方がいたんだけど、亡くなっちゃって。まだ30代で若かったんだけど。その黒瀬さんの遺影にも手を合わせないといけないから来ないとなって思ってて。後ろのPAのところに遺影があるから、よかったら手を合わせて帰ってください。別に悪いことはないと思うから」

『十三も堺もファンダンゴは良いです』みたいなことを仰っていた氣がします。

 

新曲の話

「新曲を作ってきました。じゃあかっちゃんに新曲の説明をしてもらおうかな」とマーガレット廣井さん。大いに湧く我ら貴様ら諸氏。正直めっちゃ聴きたい。声を。

 

急に新曲の説明を振られて本気で照れ、はにかむKatzuya Shimizuさんが過去一で可愛かったです。

そのあとに「今歯の治療中だから喋れないんだよね」とフォローされるところまで含めて最高!でした!

 

「花粉症の曲です。次は仏滅ナイト2024で!ラブ十三!」

→『泥春』へ。

 

泥春って花粉症の曲なのかよ!

わしが変なこと言ってたからご本人の訂正が入ったのかしら。

こんな一介の塵か芥みたいなファンの感想なんぞ、お読みいただいてるわけないけどね〜( ¨̮ )

ちなみに、この日聴いた『泥春』が一番よく聴こえました。

 

 

惡闇霧島

この仏滅ナイト最後の曲です。

この曲でこの日初めてKatzuya Shimizuさんがサングラスをオフしました。

 

わたしがこれまで行った八十八ヶ所巡礼さんの公演の中で最長の《サングラスon Katzuya Shimizu》です。

 

ギターソロでKatzuya Shimizuさんのワウ・ペダルを踏むために、マーガレット廣井さんが上手へ行きます。

そして上手へ到着したタイミングで、丁度Katzuya Shimizuさんが振り返ったのですが、その時にマーガレット廣井さんと目が合い、頷いておりました。

 

これって「こっちは準備大丈夫だから下手に行っても大丈夫だよ」の意味ですよね?

はぁ〜!バンドしてる〜!!!と思いました。どういう感想だよ。

 

でも、そのマーガレット廣井さんの首肯でKatzuya Shimizuさんが下手に行かれたので、やっぱりバンドしていると思います。どういうまとめ方だよ。

 

 

今回もギターソロで下手に行ったKatzuya Shimizuさんを見るのではなく、上手でワウを踏むマーガレット廣井さんを見る、上手貴様らの民に対して「あっち!あっちを見て!」と戯れるマーガレット廣井さんが見れてよかったです。

これはもはや毎回のノルマ、愉しみ、八十八ヶ所巡礼のライヴの醍醐味になっている氣すらする。

 

 

そんな感じで、終演です。

 

 

ちょっとしたこと

『Carrousel末路』の曲最後でKatzuya Shimizuさんが演奏しているフレーズは、あれはベースでいうロータリー奏法的なことをされているのでしょうか。

ベースのロータリー奏法をギターに流用したらチキンピッキングか?

 

 

マーガレット廣井さんのシールドですが、てっきりカールコードだと思っていましたが、普通のまっすぐのやつでしたね。この日だけ?

 

 

そういえば、「別に我々は悪いことはしていない。平氣な顔をして悪いことをしているのはだれだろうか」といったようなことも仰っていたな。

 

あと、「『十三』は言いやすいけど、『堺』は言いにくい」とか。

 

居酒屋さんのお品書き?

最後に

人生最高ですね。

この日は友人とライブに行っていたので、終演後は梅田まで戻ってJOVEしました。

 

JOVE

 

人生最高!!!

 

あ!そういえば、この『仏滅ナイト2023』で八十八ヶ所巡礼さんのライヴ参戦八回目でした✌️

 

 

先にちょろっと書きましたが、次の八十八ヶ所巡礼さんのライヴは2023/3/17の松山『幻魔大祭2023』です。

なんと我が母親と共に!

 

お愉しみに〜( ¨̮ )

 

生きましょうね( ¨̮ )

 

ありがとうございました\(´-`)/

 

【初tricot】tricot Zang-Neng tour 2023【初クアトロ】

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

2023年2月4日に、tricotさんのライヴに行って参りました。

 

初クアトロです。

 

有名なライヴハウスなので存在は存じておりましたが、なかなかご縁がなくて行ったことがありませんでした。

今回初めて行ったのですが、直球でロック系のハコなんですね。

 

これまでわたしは主にヴィジュアル系の界隈に出入りしていたので、縁遠かったのも納得でした。

 

ライヴハウスによって出演するバンドの系統も変わりますからね。

そのハコの店長がどのジャンルのバンド出身なのかが関係あるのでしょうか?

 

 

はじめに

結束バンドのアルバムレビュー記事でも本当に少しだけ触れましたが、『tricot』というバンドと、そのヴォーカルである中嶋イッキュウさんの存在は以前から存じておりました。

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おそらくですが、中嶋イッキュウさんの存在を初めて認識したのは、『BAZOOKA』という番組のバンドを作ろうぜ!というような趣旨の企画で、川谷絵音さんが「バンドのヴォーカルはもう決まっています。中嶋イッキュウさんです」と紹介された時だと思います。

その時に「へぇ〜、tricotってバンドさんがいらっしゃるんだ」と認識した記憶があります。

ちなみに、その企画で生まれたバンドが『ジェニーハイ』です。

 

 

その時にはおそらく曲を聴かなかったのですが、何かのご縁でこちらのスタジオライヴ映像を拝見し、いいね!となりました。


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しかし、tricotさんの盤を初めて買ったのは『不出来』からです。しかもこの間。

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良いアルバムですね( ¨̮ )

「いいアルバムだ!直近でライヴがあるし、チケットもまだある!これは予兆だ!行かないと後悔する!!」と思い、この日お初拝見することと相成りました。

 

 

開演

開演の5分前にライヴハウスに到着し、入場。

 

最近ではわたしは八十八ヶ所巡礼さんのライヴによく行っております。

そのライヴ会場に行くと、度々、観に来ている方々の幅が広い!と思うのですが、tricotさんの客層も広かったように思ったので、ロック系のイベントは必然的に客層が広くなるのかしら?と思いました。

 

とはいえ、tricotさんの方は2,30代の方々の方が氣持ち多かったかな?とも感じます。

 

 

開演前のサウンドチェックで中嶋イッキュウさんのギターが鳴らされたのですが、とってもシングルコイルな音がして「あぁ〜、やっぱりシングルコイルの音って好きだな」と思いました。

 

そんなことを思っていたら、おそらくオンタイムで開演(押していたとしても1分くらいなものだと思います)。

 

通常?は開演前BGMの音量がどんどん上がっていって、登場SEが流れたりするものなのですが、BGMフェードアウト&客電もゆっくり消灯。からの、『模造紙ヒデキちゃん』の語りで開演。

 

 

模造紙ヒデキちゃん

『模造紙ヒデキちゃん』の語り素材が流れる中、(おそらく)中嶋イッキュウさん→吉田雄介さん→ヒロミ・ヒロヒロさん→キダ・モティフォさんの順番で登場。

 

ステージに登場した順番で、各々が銘々のフレーズをプレイ。

 

ここのインプロ具合?に高校の軽音部というか、スタジオ練習前にそれぞれがそれぞれのウォーミングアップをする空氣というか、そんな感じなものを覺えました。

ある程度のところでバンドマスターが「さぁやりますか〜」と声をかけてスタートするんですよね。

そんな感じがあったように思います。

 

 

ここからは覺えていることを書きますので、順番はばらばらだと思います。

正直めちゃ樂しくてあんまり憶えてないんですよね。

ライヴイベントって大抵2時間くらいで組まれておりますが、体感時間1時間くらいだったし。

 

 

アンドロイド

初めてtricotというバンドの演奏を生で観たわけですが、演奏技術が高くて樂器が巧いのは知っていたとはいえ、びっくりしたのはベースを務めるヒロミ・ヒロヒロさんの音です。

 

よく竿樂器は褒め言葉として『音が太い』とかって言いますが、ヒロミ・ヒロヒロさんの音には厚みというか、《深度》を感じました。

『深い』と形容すると求めていない印象がついて来そうなので、《深度》と形容します。

 

実際に観るまではあんまり印象になかったのですが、ヒロミ・ヒロヒロさんってすごく華奢で小柄な方なんですね。

あんなに華奢な人が、あれほどまでに厚みと深度のあるベースを弾けるのは衝撃というか、その感情と似たものを感じました。

 

よく『樂器は体全体で鳴らしましょう。体自体すらも鳴らしましょう』なんて言ったりするのですが、ヒロミ・ヒロヒロさんの演奏は『足で触れている地面すらも含めて鳴らしている』みたいな音をしていたと思います。

あとは『足を踏み込んだ時の反動を腕に伝え、ピッキングに反映させている』みたいな感覺も感じました。

 

 

またtricotというバンドは、一般的な『ステージの上下にギターやベースがいて、真ん中にヴィーカル、その少し脇にドラム』という立ち位置ではなく『ステージの上下にギターがいて、センター(より少し右寄りに)にベース、センターと上手ギターの間にドラム』という変則的なステージングをしています(樂器構成は違うけど、ちょっと東京事変さんっぽい?)。

 

ヴォーカルがフロントマンと形容されるのは、ステージの中央という〈一番目立つ位置〉を定位置としているためですね。


そんな『一番目立つ所』にベースが立っているわけですが、先述したベースの音を聴けば、"センターを張る"理由?にも納得します。



まぁバスドラムとのユニゾンで音の相乗効果が生まれているためである、という可能性もあるんですけどね。

 

 

『#アチョイ』か何かの時にハンドマイクに持ち替えた中嶋イッキュウさんが、ヒロミ・ヒロヒロさんの横に並ぶ場面があったのですが、その身長差により、よりヒロミ・ヒロヒロさんの小柄さが際立ち、よりその出音とのギャップに驚きました。というおはなし。

 

 

ちなみにわたしの場所からは、ほとんどキダ・モティフォさんとヒロミ・ヒロヒロさんしか見えなかったので、そのお二人の挙動への感想しかありません。

 

 

『アンドロイド』の音源、曲終わりでは〈一回演奏が終わって、ドラムのエイトビートがフェードイン〉し、それが盛り上がっていきます。

ライヴのアレンジだといきなりトップヴォルテージでバシャーン!となるのかな〜なんて思っていましたが、エイトビートなしで『冗談検定』が始まったのが意外というか、わたしの考えになかったので驚きました。

 

他にも、tricotさんの初心者なりに公式で挙げられている音源とかを聴いていて、『右脳左脳』が聴けて嬉しかったです。


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おちゃんせんすぅす


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この曲は、恐らくtricotというバンドを知ったタイミングと一緒に聴いたものだと思いますが、前述の通りtricotさんのライヴは初めてですので、曲に振り付け?があったのが意外でした。

 

曲途中のブレイクタイムで中嶋イッキュウさんが「ギターソロ弾くから聴いて」と言ってヘロヘロナイスなラジオ体操の曲(あれは曲と形容するのだろうか)を弾いたり、その後にキダ・モティフォさんがラジオ体操第二の方の曲を弾いたり(中嶋イッキュウさんが弾いてすぐ、後を追うように弾いたのですが、中嶋イッキュウさんは第二の方と氣付かなかったようで「わかったとらんかったんかいな!」とキダ・モティフォさんに突っ込まれておりました)、キダ・モティフォさんがEminem氏の『Lose Youreself』を弾き出して中嶋イッキュウさんが束の間、Eminemさんとなったりしておりました。

 

『おちゃんせんすぅす』のどこのブレイクかわからなくなったので、キダ・モティフォさんが「じゃあ最後の頭からな」と言うも、メンバーの誰も『それがどこを指すか』が通じておらず、くちゃっと弛緩する瞬間などもあったりして、アットホーム?な空間だなぁ、などと思いました。

tricotのバンドマスターはキダ・モティフォさんなのかしら?

 


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MC

MCでは、

「大阪に帰って来ましたー!」

「今年以内に100回は来たいと思います!(キダさん「三日に一回のペース?」)もう住んだ方がええな」

「昨日は個人的イベントの節分を行なったけど、この歳になったらあの豆を30いくつも食べるとなかなかきついものがある」

「実は毎週火曜の夜10時から2時間半ラジオやってるんですよ。知ってます?毎週聴いてる人!すっくな!じゃあ一回は聴いたことあるひと!はぁはぁはぁ。じゃあおもんなかったってことやな!ここにスタッフがいるんですが、現実を受け止めてください」

などの内容をお話しされておりました。

abcradio.asahi.co.jp

 

 

あふれる〜アクアリウム

本編最後の二曲ですね。

この二曲が始まる前に中嶋イッキュウさんが『今日もありがとうございました』的なことを話した時に、キダ・モティフォさんとヒロミ・ヒロヒロさんが同時に深いお辞儀をされていて『バンドのライブで演者が「ありがとう」と言いはするものの、お辞儀をする様』なんて観たことがなかったので、なかなか衝撃的でした。

 

「お辞儀!しかも同時に!しかもお辞儀が深い!最敬礼くらい深い!やだ!ファンになっちゃう!」などと思ったりしました。

 

 

『あふれる』もライブの予習で聴いており、好きだな、と思っていたので聴けて嬉しかったです。


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この本編ラスト二曲はほとんどキダ・モティフォさんしか見ていなかったのですが、キダ・モティフォさんは『一つの観点から観た際の《ギタリスト然としている》』ように思いました。

端的に言うならば、かっこよかったです。

 

 

なんというか、出す音もプレイスタイルも手グセと思われるものも全く違いますが、キダ・モティフォさんを見ていたら、どうしてかTOTOSteve Lukather氏を想起しました。

 

突然で恐縮ですが、わたしはギターを弾きます。

そんなわたしの技術は上記のお二人とは一切及びませんが、そんな一プレイヤーでも「弾けそう」と思える演奏をしている。

テクニックとポップさ、そのプレイの概要の認識しやすさ、などなど、それらがSteve Lukather氏と似ているなぁ、などと思いました。

 

あと、やっぱり樂しそうにギターを弾いているギタリストを観るのは好きですね( ¨̮ )

 

 

POOL


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アンコール明けの一曲目です。

 

この曲は正真正銘の初めて、このライヴで初めて聴いたのですが、すごくかっこいいですね。

これまで幾度かは『知らない曲をライヴで初めて聴く』という経験をしてきましたが、初めて聴いた時点で『たのしい!』『かっこいい』と思ったのはこの時が初めてでした。

 

この曲はサビのドラムが「ドン ッカ、ドッ ッカ」というリズムで、トリニダード・トバゴ発祥と言われている『ソカ ビート』が起用されているのですが、このソカビートの妙もあって『たのしい』と思ったという側面もあると思います。

 

ソカビートの曲だとMINMIさんの『シャナナ☆』や、[Alexandros]さんの『ワタリドリ』なんかが有名ですね。

実際、このソカビートはジャマイカの音樂とも深い関わりのあるビートなので、レゲエの曲に多用されていますね。


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サビの時のキダ・モティフォさんのノリ方もこれまででは見たことのないノリ方だったので、新鮮?びっくり?でした。

 

 

不出来


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アルバム『不出来』のタイトルを冠した曲がラストソングでした。

そして、個人的にザ・ロックを感じる曲ですね。

 

わたしの未履修的な世代のロックです。

'90年代~'00年代中期的な。

 

最初に聴いた時はOasisの『Don't Look Back In Anger』と、Nirvanaの『Smells Like Teen Spilit』、椎名林檎さんの『幸福論(悦楽編)』を想起しました。

あまりに未履修。あまり下手なことは言えないので口を噤みます。

 

 

この『不出来』ですが、音源で聴いた時には正直あんまりパッとしないような印象でした。

ですが、実際に目の前で曲を演奏している様を観ていると、なんというか何とも言えない多幸感というか、幸せ的な感情を覺えました。

なんというか、自然とにっこりしてくるような。

 

曲のエンディングではキダ・モティフォさんがバッキングフレーズをループさせた上でソロを弾かれたり、エフェクターを使ってダブっぽいことをされており、それを観て「ギタリストってみんなダブっぽいことするんだ」と思ったりしました(ムックのミヤさんもエフェクターを用いてのタブプレイをされたりしますからね)。

 

あと、キダ・モティフォさんの『バッキングする時の拍の正確さ』と、『金太郎飴みたいな音の精確さ』を思い出すと、しみじみとお上手だったなぁ、と感じます。

 

 

メンバーが演奏を終えてステージから退場すると、『上出来 ~不出来 Remix~』が流れて終演。

 

 

 

感想

人生でお初のtricotさんだったわけですが、勝手に思っていた色々な印象と様々相違していて大変興味深かったです。

 

そのバンドの素性や、メンバーの性格を全く知らない内ってどうしてもおっかなびっくりになると思うのですが、中嶋イッキュウさんに対して『少し怖い?』という感情を持っていたけど、いざ、その人を見たら意外とお茶目だったり。

 

『結構お茶目な人かも』と思っていた(YouTubeの『キダ・モティフォの上出来フレーズ』の印象)キダ・モティフォさんが、『ちゃんと"ちょっと怖いギタリスト"(下級生から見た先輩、みたいな感覺)』だったりしましたし(ギタリストは結構シャイな方が多かったりするので、シャイ→あんまり自分からは喋らない→なんか怖い、という印象になるのかもしれないです。ギタリストで怖い人は基本的にあんまり居りません。でもギターの話を振るとなかなか饒舌になります)。

 

 

どうやらわたしには、『明言すると、明言したことほどしない性質』がどうしてだかあるのであんまり明言はしたくないのですがt、ricotさんのライヴにはまた行きたいし行くと思います。

 

 

そんなドキドキ💘初tricot体験✨でした。

 

 

 

そういえば、このライヴが2023年のライヴはじめになりましたね。幸先のいいスタート!

次は2/17の八十八ヶ所巡礼『仏滅ナイト!』です!

 

愉しみ!

 

 

ちなみに。

中嶋イッキュウさんがエミネム氏をアプローチしたからか、終演後BGMでEminemの『Godzilla』が流れて笑いました。


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ありがとうございました( ¨̮ )

 

『鬼滅の刃 上弦集結、そして刀鍛冶の里へ』を劇場で観た、その所感

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

2023年2月3日、節分ですね。

 

そんな節分!鬼は外なお日柄に観てきました!

鬼滅の刃 上弦集結、そして刀鍛冶の里へ』です!

 

過去に書いた『鬼滅の刃』についての感想たちです👇

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遊郭編』を改めて観て感じたこと

本映画は、『遊郭編』の第十話と第十一話、そして『刀鍛冶の里編』の第一話を合わせた、上映時間計110分の作品です。

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なので、お話の前半は『遊郭編』のクライマックス部分なのですね。

もちろん、覺えている部分、こんな感じだったっけと思った部分、などあります。

 

ここでは、確かアニメ版で観た時には感じなかった(と思う)けど、時間が経ったことで新たに感じたことなどを書きます。

 

全ては運、そしてそれに嫉妬しているのか

作品は、伊之助が堕姫さんの頸を切ったあと、妓夫太郎さんに心臓を一突きされ、絶対絶命な状況から始まります。

 

その後にいろいろあって、炭治郎が妓夫太郎さんの首を斬ろうとするシーンもありますが、ここで炭治郎は妓夫太郎さんと自身とを重ねます。

「もしも境遇が違っていたら、自分だって鬼になっていた可能性もあるのだ」というところです。

 

そう、運なんですよね。

わたしがこうやって『鬼滅の刃』という作品に触れることができたことや、それによって心を動かすことができる感受性?みたいなものを得ることができたのも、わたしの功績などではないのです。

誠、ありがたい。有ることは難しいですからね。

 

 

やっぱり、この『この世は運が大きな部分を占めていて、今があるのも運が大きく関係しているんだから、思いやりを持たないといけませんよ』というお説法を、少年ジャンプという場で発表しているのは素晴らしすぎると思います。

 

しかし、妓夫太郎さんと堕姫さんのきょうだいは、その『運』が原因として鬼となったわけなので、その運にすら嫌悪と嫉妬をしているのかなぁ。と感じました。

『運だから仕方ないよね』と思うことができると同時に、『運が起因だからこそ許せない』と思ってしまうのは仕方ない部分であるかな、、とも思いますし、運という価値観はそれほど表裏一体な紙一重であり、半ば危険な価値基準である。ということです。

 

なんとも難しいところだよなぁ、と思います。

それであるからこそ、自身の狭い価値観に相手を押し込めて考え判断したりせずに、相手の話を聴く姿勢、徹底的にまで聴いて付き合う姿勢、その想いや氣持ちが大事なのだろうなぁ、と思います。

 

 

また、このシーンで妓夫太郎さんがシルエットになって近づいてくる際に『炎は実写さながらにリアルなCG表現』であるのに、妓夫太郎さんはアニメ表現を用いていることに、強い異化効果と〈アニメ表現の妙〉を感じました。

 

 

『山育ちをなめるな!』

妓夫太郎さんに心臓を突かれた伊之助でしたが、生きておりました。

『身体の柔軟性を活かし、内臓を移動させていたのだ』と伊之助は言います。

 

まぁ、そんなあほな、とも思いますが、人体のことを知らないわたしが変に知った口を聞くのも良くないので、そういうこともあるか、と思います。

 

それよりも、その場面で伊之助は「内臓の位置を動かす位、容易なのだ!山育ちをなめるなよ!」と言います。

ここでうっかり「そりゃあ町育ちと山育ちとでは違うよなぁ」なんて思ってしまいましたが、生まれこそが運によるものであると思うので、短絡的に『山育ちだからどう』なんて意識に押し込めて、知った氣になってはいけないよなぁ。と思いました。

ひとそれぞれに事情ってものがありますからね。

 

以前にも言及しましたが、妓夫太郎さんと堕姫さんのきょうだいが、煉獄の業火に向かって歩いて行くシーンは良いですね。

光があるように思いますし、その先に救いすらあるように感じる。

ふたりの魂が報われるといいな、と思います。

 

 

予兆と波紋と痣

妓夫太郎さんと堕姫さんのきょうだいを討ったことが産屋敷さんの耳に届きます。

この報せを受け、産屋敷さんは「これは予兆だ、この波紋は大きくなり、いつか鬼舞辻無惨を討つことになるだろう」的なことを発言します。

 

ここのカットは、産屋敷さんが喀血した血が伸びていく様と、産屋敷さんの左手が映っています。

『波紋は大きくなり』と『喀血の血が広がる様』とがリンクしているのは言わずもがなですが、産屋敷さんの痣も以前より広がってなかった?

 

この場面で『産屋敷さんと鬼舞辻無惨氏とが血の繋がりがある』ということが明かされますが、『上弦の鬼が討たれた=鬼舞辻無惨氏の終わりも近い』ということであり、『産屋敷さんの痣も広がっている』ことから見ると、鬼舞辻無惨氏が死ぬと産屋敷さんも死んでしまう、みたいなことの示唆だったりするのかしら?

考えすぎだろうけど。

 

 

『刀鍛冶の里編』の第一話を観て感じたこと

猗窩座さんが無限城に呼び出され、『無限城』というものの、「その異様さと禍々しさを表現する映像」から本編がスタートします。

ここの映像を観て思ったことは、「わぁ〜仰々しい、、」でした。あとやっぱりアニメ表現とリアルなCG表現の異化効果。

 

ちなみに『無限列車編』で猗窩座さんが初登場する際、その声を務める声優さんは公開開始まで隠されていたらしいのですね。

いざ公開された後に『「猗窩座」のイントネーションは「石田」ではなく「彰」です』というツイートが流れたのですが、わたしはそのツイートが好きです。

 

閑話休題

 

 

二枚舌

上弦の禄である妓夫太郎さんと堕姫さんが討たれたことで、無限城に上弦の鬼達が集結します。

 

ここで初めて、全ての上弦の鬼がお目見えしたわけですが、上弦の伍である玉壺(ぎょっこ)さんが印象深かったです。

 

この玉壺というキャラクターは『目の場所に口が、口とおでこ(第三の目の場所)の目がある』という、初めて観たらぎょっとする、非常に個性的な容姿をされております。

 

この玉壺さんは「上弦の鬼が討たれたとのことで、猗窩座様、わたしは貴方様が討たれたのではないかと楽しみに、、、心配していたのです」と、そんなことを言います。

ここで『〜討たれたでのはないかと楽しみに』の部分までは〈正面から見て右目の場所にある口〉から、『〜心配していたのです』からは〈正面から見て左目の場所にある口〉から発されます。

 

つまり『二枚舌』ということなのですね。

これはアニメ特有の表現?

 

 

映画の入場特典で、各キャラクターを務めた声優人のコメントが掲載されているのですが、玉壺さんのお声を勤められている鳥海浩輔さんが「玉壺はどこか人間くさい」と形容されております。

 

口が二つある=二枚舌という部分で、本音と建前を使っているけども使い分けが上手でない部分が『人間臭い』ということなのかなと感じました。

 

 

ちなみに、わたしは『鬼滅の刃』という作品を原作は読まず、アニメのみで追っています。

それはアニメ表現から作品を知ったために、アニメで全部見てから原作に触れたい、と考えているため、なのですが、昨年開催されていた原画展には二度参加いたしました。

 

そこで玉壺さんの生前は藝術家だったのだろうと示唆する場面を見ました。

昔も今も藝術はなかなかお金になりませんし、それこそ江戸以前なんて将軍とかの貴族階級のパトロンがいないと藝術活動なんてできたもんじゃなかったそうです。

 

これは『鬼滅の刃』という作品の流れを知らん人間の推測ですが、そんな時代に『パトロンの求めるもの』と『自身が表現したいもの』とに乖離があったか、その板挟みで二枚舌になった。

その乖離とで心が持たなくなったか氣が狂っちゃったかしたのかなぁ、とか、そんな妄想を繰り広げたりしています。

藝術家は幸せになってくれ。

 

原画展で見たのですが、玉壺さんはブリューゲルのタラ夫に擬態?変化?する血鬼術も使っていらっしゃるみたいですしね。

あるいは『南国少年パプワくん』のオマージュかも。

 

 

『変化を嫌う』って、それ『青い彼岸花を見つけること』も変化なんだけど、それわかってる?

上弦の鬼が集結し、いよいよ鬼舞辻無惨氏の登場です。

まぁいつものごとく色々と御託を並べ奉っているわけですが、やっぱりこの人とは相いれないなぁ、と思いました。

「つまんねぇ〜〜やつ」と思いながらポップコーンを咀嚼しておりました。

 

この時に『わたしは変化を嫌う』や『青い彼岸花を探している』など、鬼舞辻無惨という人の考えを垣間見ますが、青い彼岸花は百年以上見つかってないんでしょう?

じゃあ〈青い彼岸花が見つからない状況〉が普通の状況なわけだ。

だとしたら、〈青い彼岸花が見つかる〉ということは《状況の変化》なわけです。

嫌いな変化を自分で求めている、という、その『主張の幼稚さ』というか『都合の良さ』にご自身でご自覺されているのでしょうか。

 

 

「人の心を残しているものから先に死んでいく」

上記と同じシーンにて、鬼舞辻無惨氏は「妓夫太郎さんと堕姫さんのきょうだいは頸を切られることをわかっていた。妓夫太郎さんは人の心を残していたからだ。人の心を残している鬼から先に死んでいく」みたいなことを言います。

 

このセリフを聞いた時に『それまでは忘れてたけど、炭治郎と対峙したことで人の心を思い出したんじゃない?』と思いました。

 

上映後にはこの『人の心を残しているものから先に死んで行く』という言葉を思い返し、「あぁ、確かにその通りかもな。この『人を蹴落としたもの勝ち』みたいな現代では、思い遣りを持っている人の方が先に精神が狂って自死を選択したりするし。黒塗りの政治問題とか。人の心を棄てて鬼のような考え方で跋扈している人間の方が生き活きとしているとように思えるものな」などと考えました。

 

 

猗窩座のヒイロ

猗窩座さんと童磨さんが一触即発になった際に、上弦の壱である黒死牟さんが止めに入り、猗窩座さんに対して「氣に入らないのなら入れ替わりの決闘を申し込めば良い」と言います。

 

「俺の言いたいことが分かるな」と黒死牟さんが猗窩座さんに対して言うのですが、それを聞いた猗窩座さんが「あぁ、分かった。…お前を殺す」と黒死牟さんに対して言います。

ここがどうしてなのかわからないのですが、『童磨さんが好き勝手言っているのを諌める(倒す)ことができるのは上司である黒死牟さんだけだけど、それを実際にそれを行うと部下への攻撃(パワハラ)になる。だから、腹の立つ先輩を黙らしたいならその先輩よりも役職が上の地位に着いて黙らせろ』ということなのでしょうか。

 

そういえばこの場面で黒死牟さんが「部下同士のいざこざは、隷属(違う言葉だったかも)関係の規律に亀裂を生む。だからやめろ」的なことを話すのですが、「は〜〜、なるほど、そういう考えの方なのか。こりゃあ視野の広い良い上司だぞ」と思いました。

 

 

ここで無限城パートは終了。

 

 

水仙の花?

炭治郎と同じ耳飾りをしているお侍さんが登場されます。

以前わたしはこの方のことを「炭治郎の先祖かなんかじゃね」と言及していたのですが、どうやら違うようですね。

詳しいことは知りませんが、原画展知識です。

 

そんなお侍さんが炭治郎のご先祖様らしき方からお食事を差し出されます。

「これ(お茶)を頂いたらわたしはもう発つ。何度も食事を世話になるのはいけない」とそんなことをお侍さんが言いますが、ここでわたしは「好意を断ったら、その人の想いを無下にすることにもなるんだよ?頂けるときは有難く頂いて、『次からは大丈夫です』と断る方が良いと思うな」などと思いました。

 

実際、炭治郎のご先祖様と思しき方は「そんな!あなたは命の恩人なのですから。あなたが助けてくれなければ、わたしも家族もここにいないのですから、食べてください」というようなことを言います。

その思いが通じてか、お侍さんしっかり頂いていて満足( ¨̮ )

 

そんな夢から目覺めた炭治郎。

どうやら二ヶ月間も昏睡状態だったらしく、花瓶のお花を換えていた栗花落カナヲさんは、目醒めたことに驚き花瓶を落として割ってしまいます。

 

この時に(山崎さんが片付けをしている時かも)お花のカットがなかなか長めに映ります。たぶん3~5秒位。

このお花に意味ありそうだな〜と思ったのですが、あまり知らないお花だったので、鑑賞中にはわかりませんでした。

ですが、白と黄色のお花だったので調べてみると水仙っぽい?かもしれません。

 

水仙だとしたら、色や形から判断して『尊敬』や『わたしのもとへ帰って』などの意味あいがあるそうです。あくまで好意的な意味だと、です。

 

 

カナヲさんが割ってしまった花瓶を片付けながら、山崎さんは「もうなんでもやりっぱなしだ。やっぱり小さい子どもの頃から修行なんてさせてるからだよ」と愚痴っておられましたが、わたしにはこれが子役とかそういった児童ビジネスについてだと聞こえました。

閑話休題

 

 

蝶屋敷編で初登場した時と比べて、カナヲちゃんがすごい喋るようになってましたね!

これも炭治郎が「心のままに生きてね!」と言ったからかなぁ。

 

 

伊之助ファミコン

山崎さんの〈秘技・腹式呼吸〉で蝶屋敷に炭治郎の回復が報じられ、炭治郎の病室に蝶屋敷の面々が集結します。

 

この場面で『伊之助が天井に張り付いている』というホラーシーンがありますが、ここでも伊之助は「おれはお前よりも七日も早く目醒めた!」と、またマウンティング(もはや戯れ合いのふっかけ)をします。

が、この時に氣付いたことがあります。

 

伊之助は山育ちです。

伊之助とて生物なので、お母さんがいます。

これまた原画展知識ですが、先の物語で伊之助はお母さんとの記憶を思い出す場面があるそうですね。

 

そんなお母さんの匂いを伊之助からは感じません。

ということは、伊之助は褒められたりすることに飢えているのではないでしょうか。

 

つまり、お母さんなり、保護者に褒められたり認められたりされた経験が少ないから、「ぼくこんなことできるんだよ(あるいはできたんだよ)!すごいでしょ!」と言って、褒められたい。そんな想いがあるのではないか、と感じました。

だから、否定せずに認める"お兄ちゃんでありお母さん的な存在"である炭治郎に、ちょっかいを出す。

 

ファミリーコンプレックスを持っているんじゃないの?と思った、ということですね。

酔狂な妄想です。

 

 

メメント・モリ

刀鍛冶の里に着いた炭治郎は、その町並みを見學?します。

わたしはその時に、『鬼滅の刃』は日本という場所の伝統性を後世に継承させたいのかなぁ、と感じました。

少年ジャンプという《不特定多数の読者》がいる場所で、日本の伝統を宣伝すれば、日本の伝統を継承したいと思う人も出てくるのではないか、その分母を増やそうとしているのではないだろうか、ということです。

いろんな日本人が『日本人』や『日本』ということを捨てているとも取れる時代ですしね。

 

 

そんな炭治郎は恋柱である甘露寺蜜璃さんと合流します。

同じ隊士として、同じ釜の飯を食べたり、炭治郎の同期である不死川玄弥さんの話をしたりした後、甘露寺蜜璃さんの日輪刀の最終調整があるとのことで二人は別れます。

 

ここで甘露寺蜜璃さんが「次にいつ会えるか、生きて会えるかわからないけど、応援してる。上弦の鬼と戰って、生き延びたその経験は十年修行する以上にすごいことだから」というようなことを炭治郎に話します。

この時に、わたしは『メメント・モリだ。ちゃんと死を忘れていない、素敵でいい人だな。確かに人氣があるのも納得だな』と思いました。

基本柱は人間ができている。

 

 

その後くらいにオープニング映像が流れて、第一話の終了、となりました。

こちらも『遊郭編』の最終回感想記事にて書きましたが、オープニングの作品タイトルで炭治郎が左を向いていると生存確定みたいなのですが、今回も生存確定です!

完結している作品で粋がるな!

 

 

 

余談ですが、刀鍛冶の里に行く際に、その秘匿性を保つために炭治郎をリレーしますが、この説明を聞いている時に伊坂幸太郎著作の『モダンタイムス』が思い浮かびました。

『株式会社ゴッシュ』のあれ、ですね。"分担"です。

 

 

肩を担がれて歩く

山崎さんが遊郭編の後日談として「宇髄様はあんなに怪我してたのに自分で歩いてたぞ、、。肩を貸してもらいながらだったけど。自分で歩けるか?普通。引いたわ。他の隠たちも引いてたわ」と回想しますが、これって『宇髄天元さんが他者の手を借りるようになった』ってことじゃないでしょうか。

なんかで『宇髄様はなんでも自分でする。他者を頼らない』みたいな描写ありませんでしたっけ?

 

そんな宇髄天元という人が、他者の手を借りるようになった。

それはある種の成長というか、そんな意味合いの表現として受け取ることができるのではないでしょうか、と思いますが、わたしの思い違い記憶違いかもしれません。

 

 

おわり

なっが。

7200字以上書いておりました。なっが。

まぁ愛について書いておりますものね。長くなるのは必然です。ですが、言葉に頼っているうちはまだまだです。

 

 

 

さて、これにて『鬼滅の刃 上弦集結、そして刀鍛冶の里へ』を初見した所感は終了です。

ここまでお読み頂いた物好きな皆様には、感謝いたします。有難うございます。

 

今回は『鬼滅の刃 刀鍛冶の里編』の一話を観ただけですので、その本編は春、2023年の4月に始まります。

 

愉しみですね。

愉しむためにも、生きましょう( ¨̮ )

 

 

 

わたくしごとになりますが、この記事で総投稿数が300回目となりました。

今までわたしのブログをお読み頂いておられます方々へ、感謝申し上げます。

本当に有難うございます。

 

これからも好き勝手に、日々を生きていて思ったことをつらつらと綴りますので、ご自由にお樂しみいただければ幸いです。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

鬼滅の刃についてのものたち

 

本日もご訪問ありがとうございます。

こちらの記事は、アニメ『鬼滅の刃』について、過去に書いたものたちのまとめ記事です。

 

まぁ、おひまなら見てみてください( ¨̮ )

 

 

無限列車編

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遊郭

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刀鍛冶の里編

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また未来に更新します。

藝術家は自傷行為が必須なのか。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回のお話は『《藝術》について』です。

 

以前からわたしのお話を好んで見ていただいている方には、もしかしたらご存知かもしれませんが、わたしは藝術が好きです。

 

いいえ、大好きです。

 

 

中でも音樂は『人生の元』と言えるほど(いや、人生の元ですね)好きで、忠誠を誓っています。わたしを縛ることができるのは音樂だけ( ¨̮ )

 

西洋絵画や絵の世界も好きで、年一以上は美術館に行っていますが、年数回の美術館って好きのうちに入るのか??

 

いや、自分が好きだと思っていれば、それで良い。

 

 

三月には人生初めての観劇にも行く予定です。バーモントカレー

 

 

 

藝術というものに対して、わたしは愛しか向けていないのですが、逆に言えば、俗人たちが一喜一憂するものに対しては興味もないですし、軽蔑すらしています。

これは不要な自己紹介ですね。

 

 

さて、どうしてわたしが藝術を好きかというと、その作品を生み出した人の魂を感じるためです。

ほとんどその人の人生とも言えるような創作を、その作品自体から魂を感じることで、こちらの魂も呼応するというか、共鳴するのです。

 

制作だけをしている間だけは心休まった、その一瞬間だけでも人生が報われたんだろうなぁと感じる作品と対峙した時、非常に辛くもありますが、その『魂の煌めき』も、その力強い閃光をも感じて、愛と愛しさが溢れます。

 

ゴッホさんや太宰治さんなんて方々の作品は、その魂を感じます。それだけ辛さも感じるけど。

 

 

しかし、藝術家は、自己と、その内側にあるものと真正面から対峙して、煩悶する。

 

そして、自身の魂をつるはしみたいなもので打ち付けて、そのかけらが作品として生まれる。

その作品たちは、強い光を放つものとして存在するけど、『つるはしで自身の魂を打ち付けて削る』という行為は、自傷行為的であると言えます。

しかも三次元的な物質的肉体への自傷ではなく、超自然的で超越的な魂への自傷であるため、目立たないし、その実、傷は深い。

魂への自傷であるため、世間というものからは必然か?軽んじられます。

 

三次元として発露されたら、俗人ですら認識をすることが可能ですからね。

 

やっぱり目で見えるものは、所詮その程度であると感じます。

 

 

でも、やっぱり自身と真正面から向き合った『魂のかけら』たる《藝術》は素晴らしいし、とてつもない光を放っていて、まさに藝術家たちの生の証明であり、藝術家たちの存在の肯定的役割も担っているのです。

 

 

『「傷ついた」と認識するのではなく、「磨かれた」と思うがいいのです』という言葉があります。

全く良い言葉であり、なんと都合の良い藥かとも思うのですが、磨き方がつるはしで削るのだとすれば、なんと不器用なのか。

 

しかし、でも、不器用がゆえの、《藝術》であり『藝術家』なのです。

 

器用だったら、藝術に縋らずとも生きていけています。俗人でいられる。

 

 

しかし。

果たして先人たち藝術家諸氏は俗人への憧れはあったのだろうか。

「無い物ねだり」というだけあって、憧れはあるのだろうと思いますが、その憧れは、〈"憧れ"の原始形態〉である『嫉妬』という形で藝術へと発露され、昇華するのだろうかなと思います。

 

 

藝術家たちは「どうにか太平樂な俗人になれたら」と思うも、どうせなれないと知っている。

 

一度ならず、俗人として泥んで生きようとした時に、精神が悲鳴をあげて『死ぬために生きること』を必死に阻止するからです。

藝術家たちにとって『死ぬために生きることは、死ぬことと同じだから』です。

藝術家たちにとって『生きることは、魂をつるはしで打ち付けることと同じ』だから、です。

 

辛いなぁ。

 

まるで、藝術家は罪人のように思えてくる。

藝術家たちは罪人なのか?

 

 

藝術を行なっている人たちには、その魂が報われてほしいと、切に切に願うばかりです。

 

 

 

 

でもなぁ。結局はピカソ氏とかエジソン氏みたいなビジネスマン的能力の高い人の方がうまく立ち回るんだよな。

そういった器用な方がうまくやってのけるだけ、不器用な藝術家たちにはその辛さを感じることが無くなってほしいと思います。

 

しかし辛さを感じるから魂を削って入れ込んだ作品を作ることができるんだよな。ジレンマだよな。

 

藝術家たちは狂人か、あるいは病人なので、共鳴するのはおすすめしません。

 

 

 

辛いなぁ。

 

 

 

ありがとうございました。

この人生がコンテンツだと仮定して

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

今回のテーマはタイトルの通り『この人生がコンテンツであった場合』についてです。

以前にも書いたようなネタですが、書きます。

 

 

人生、という、コンテンツ

まず、「コンテンツとはなにか」ですが、大まかに言うと〈情報の中身〉とか〈内容〉とか、そんな意味合いらしいです。

 

『人生がコンテンツとして消費されていること』を描いた作品で有名なのは、映画の『トゥルーマン・ショー』ですね。

 

以前、上記の映画について少しばかり言及しましたが、大したことは言っておりませんでした。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

さて、今回は『みんな、みんなの人生って実はコンテンツとして消費されているんじゃない?』という、そんなお話です。

 

この話はシミュレーション仮説とも関係がありますね( ¨̮ )

 

 

以前に『ある男』という小説について言及しました。

floodinhead.hatenablog.com

 

この作中で、確か主人公の城戸だったかと思いますが(確か『〈「ある男」であるXの素性を追うこと〉と、〈小説を読むこと〉は似ていて、他人の人生を側から触れることで、自分の傷を癒している』みたいな部分で)、「この生活もだれかが見ている人がいて、この人生を創作している人さえもいるのかも」みたいなことを話しておりました。

 

この『実はこの生活を創作して、その創作物を見ている人がいるのかも』という話、仮説?は、伊坂幸太郎さんの著作『ペッパーズ・ゴースト』でも言及されておりました。

 

たしかネコジゴハンターの二人が話していたと思います。

 

 

この『人生が実は創作されたもので、それを樂しんでいるものがいる』という感覺。

 

これに対し、一蹴して一笑に付す方もいらっしゃるでしょう。

別にそれは構わないし、知らない。どうするかはその人の自由だし。

 

しかし、いろんな人間たちの半生を描いた作品が我々を娯しませているのは事実です。

太宰治著作の『人間失格』や、夏目漱石著作の『こころ』、サマセット・モーム著作の『月と六ペンス』などなどなどなど。

映画ならば『ショーシャンクの空に』や『ジョーカー』とか、他にもいっぱいあります。

それだけの人生があるということですね。

 

 

夢の意識が反映される夢

いきなりわたくし事になってしまい誠に恐縮なのですが、わたしはよく睡眠時に夢を見ます。

「むしろそれは睡眠をしていないんじゃない??」と思われるくらい夢を見ます。

 

そんな夢の中でも、非常に現実感を伴った夢を見ることがあるのですね。

そんな夢では大抵主人公的な人物がいて、それを背後からというか、側から見ています。

そんなわたしの意識、夢の中の意識が、「こんな時はこうなっているものだよね」とか「ここでこういった行動をとることで、この人物の性格傾向をうまく表現できるな」とか「ここにあるものにこれがあったら物語は面白くなる。そして主人公である人物は知らん間に消えているものだ」などと考えたりします。

 

すると、その夢の中の世界は、『夢の中の意識が考えたこと』が反映されて展開されるのです。

これは〈夢が、ある空間では現実化している〉という感じなのではないのか、そう思います。

 

この『夢の中の意識が想ったことが、その夢の中で反映されて展開していく』というのは、まったく創作と同じであると言えますし、夢の中で物語が進んでいく。

 

これは『胡蝶の夢』と同じなのではないか。

 

つまり、「自分が見た夢の中でも発生していること」なのだから、この自分の生活も「何かが見ている夢」なのではないのか、ということです。

 

 

あり得ない話でないと思います。

 

むしろ"夢があって"良いのではないでしょうか。

 

 

 

ちなみに、わたしは夢で見た光景が数ヶ月?くらいの時間が経過してから、現実として遭遇することがあります。

別にいらない話ですね( ¨̮ )

 

👇過去の夢話👇

floodinhead.hatenablog.com

 

 

『夢を見る状態というのは、熟睡できていない状態である』なんていわれたりします。

その通りだと思います( ¨̮ )

わたしは泥になりたい。贅沢を言うなら泥の中のバクテリアになりたい。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )