頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

映画ジョーカーのラストシーンの新解釈

 

映画「ジョーカー」のラストシーンの新解釈をぶち抜く!!

 

 

前回、映画「ジョーカー」の感想と考察を書きました(読んでいただいた方ありがとうございます)。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

あれを書いたあとも、ラストシーンがずっと腑に落ちませんでした。

話題作ですし、様々な方がジョーカーという映画を評論し考察を巡らせていました。

 

 

その考察の半数以上はラストの精神科医との会話、

「ジョークを思いついた、でもきっと理解できないよ」に集中していると思います。

作中にもアーサーには妄想癖があった描写があるので、この映画はまるごとアーサーの妄想なのではないかと考察する人も相当数いました(壮大な夢オチ的な)。

 

 

でもわたしは納得がいかなかった。

単純に全部が妄想オチだと萎えるってのも大きかったけど、辻褄が合わなくね?と思っていた。

時系列的に、ラストのカウンセリング→退院して作品冒頭のカウンセリング(「入院していた頃のこと覚えてる?」のあれ)→物語の肝になる数々の出来事、なら辻褄が合いはするが、「わざわざ自分からしんどい道選ぶ?」って思うし(得てして精神疾患の方はただ生きるだけでしんどいのだけど)。

 

そしてふと思いました。

「理解できないよ」と言っている人と、その言葉を「誰に対して」言っているのか、の認識が間違っているのではないか。

アーサーがカウンセラーに対して話していると思っているから理解できなかったのだと、そう思いました。

 

あの発言は製作陣の言葉なんじゃないかと思います。

その解釈に至るには劇中の妄想も深く関係します。

 

「このお話はぜーんぶアーサーの妄想でした」

ではなく、

「”このお話はぜーんぶアーサーの妄想でした”ってしたら面白いんじゃない?」

という製作陣のメタ視点的ジョーク

だから劇中の登場人物のカウンセラーには理解できないし(製作陣の手の中だから)、カウンセラーに対して話しているもんだと思って見ている観客にも理解はできない。

あの発言はアーサーからカウンセラーに、ではなく、ホアキンから観客に話しているのではないでしょうか。

 

この解釈で考えてみるといろいろしっくりきますし、ヒースジョーカーが毎回違う傷の物語を話すユーモアとも合致します。

そして「この話は全部アーサーの妄想ってことにしようよ」と製作陣が言うのってすごくジョーカーらしいジョークに思えるのです。

 

上記の解釈も含めて、とんでもない喜劇(観客は踊らされているわけだし)だと思うし、映画(映画考察)という歯車に観客が組み込まれているのも、モダンタイムス的と言えるのかもしれません。