ご無沙汰しております。
劇場版 鬼滅の刃の感想以来です。リピート鑑賞はまだできていませんが、他の色々な映画は鑑賞しました。
罪の声やザ・ハント、朝が来る、スパイダーバースなど。
『朝が来る』は二回も見ました。でもあの作品は何度も見なければいけない作品だと思います。わたしのような語彙が貧弱な輩にはとても言い表せない作品でした。
スパイダーバースも別の意味合いでよかったよ。
1984年
さて本題ですが、今回はジョージ・オーウェル著の「一九八四年」という作品の話をしたいと思います。
この作品はディストピア小説の大名作と言われており、実際に読んだ感想としても素晴らしい大名作だと思います。
昨今の世界情勢を見ても、「いよいよ、一九八四年の世界になってきたな」という形容がされたり、現実との引き合いにされたりします。
この記事では内容に触れた話をするので、作品を読んだ後、または中田さんのこちらの動画を見たのちにお読みください。
↓↓以下ネタバレ(中田さんの動画では触れられていない部分です)↓↓
持続可能な戰争
作品内では超大国の3ヶ國が絶えず戰争を繰り返しています。
この戰争も、もう何年も続いています。
作品のクライマックスあたりで、この戰争も八百長だということが明かされます。
オセアニア、ユーラシア、イースタシアの3大國は互いにいがみ合っており、そのために戰争が繰り返されていると大衆には知らされています。
土地を巡って3國が2対1の構図になって、時に敵味方が入れ替わって、戰争を続けています。
が、実はその戰争は3國が共謀して「表向きは敵対し合っているように見せて、裏では手を組んで戰争があるように見せている」ものだったということが判明します。
3國が手を組んで、表向きは戰争をすることで、「外國は敵」という意識と、「過度な緊張を永続的に与えることで大衆の思考力を削ぎ、為政者への支持を強固にしよう」としていました。
オセアニア、ユーラシア、イースタシアの3大の為政者が、為政者の位置に居続けるために手を組み、八百長で戦争戰を続けている。
初めて読んだ時の衝撃はすごかったです。
わたしが昨日、ピンときてハッとしてグッとしたのは、「過度な緊張を永続的に与えること」です。
これって今現在の「コロナ禍」の構図と一緒じゃないか?
構図とリンク
2020年に世間を席巻した「新型コロナウィルス」
その猛威はいまだ衰えず、いつ終息するのか不明と言われている。
「だいたい終息まで3年くらいかなぁ」なんて悠長に思っていて、3年目の終わりに「あと5年延長です」と言われる。それが何度も何度も繰り返されたとしたら?
思考する体力も削がれ「まあ生きていれるだけで十分」とでも思うのではないでしょうか?
「なんだかんだで最初から対応してくれてるのはあの政党なんだから。悪くいうのもやめよう」とでもなるのではないでしょうか?
『一九八四年』の恐ろしさや現実とのリンク性は「言論統制」や「独裁政治」にあるとばかり思っていましたが、上記のようなシステマチックな構図にもあったのかと思ったお話です。
フィクションと現実の区別ができないなんてバカでナンセンスだよね(笑)
という主張は、理解できるしごもっともだとも思うんですが、フィクションが生まれるのは現実がきっかけだし、フィクションに元気をもらう人も一定数いる。
実銃を撃ち合って死屍累々な戰争の映像に「これはフィクションです」と注意書きが書かれていれば、現実の戰争がなかったことになる、その戦争で死んだ人がなかったことにされる、ということと同じではないの?と思うのです。
それってフィクションの映画を撮影するためなら、実際に原爆を落としても良いっていう考え方にも飛躍できてしまうと思うんです。
フィクションのラベルが貼られていても、被曝した土地や生物は存在するわけではないですか。
こういったフィクションと現実の関係性は、映画『朝が来る』を観て考えるようになりました。
あれはよくあるフィクションでは「いなかった存在」にされる側の話ですからね。
ぜひとも観てほしい作品です。
私がこういった思考になるのには、伊坂幸太郎さんの影響、特に『モダンタイムス』の影響があるので、またいつか書いてみたいと思います。
『マリアビートル』の「なぜ人を殺してはいけないのか」の考えは一度は読んでみることをおすすめします。
ありがとうございました。