本日も閲覧ありがとうございます。
「空氣を読む」という言葉があります。
12,3年前くらいに登場してから、なぜか今まで生き残っていますよね。
わたしは「空氣を読む」の意味がわかりません。
タイトル通り、「空氣は吸う」ものであり、「読む」ものでは無いと思っているからです。「読む」のは”流れ”ですかね。
空氣を『読む』?
こちらの動画で西野さんが話しているのを聴いて、今、言葉を紡いでいる次第でございます。
まず、「"空氣を読む"はある」と仮定した場合、そこからは3種類の概念が生まれると考えられます。
「空氣を読む」と「空氣が読めない」と「空氣は読まない」です。
大体「空氣を読む」というのはなんなのでしょう?
極端な例ですが、Aさんに対して、その友人Bさんがとっておきの笑い話をしています。もうすぐオチに差し掛かるという段階で、近くにいた人が突然倒れた。
その時にAさんが咄嗟の判断で倒れた人を介抱しにいった場合、笑い話を披露していたBさんの話は放っておかれます。
この状況において、笑い話をしていたBさんは「空氣読めよ」と思うのでしょうか?
倒れていた人を介抱し、ひと段落ついたAさんにBさんは「お前もうちょっと空氣読めよ(空氣読んで話を全部聞けよ)」と言うのでしょうか?
Aさんとしては『"空氣を読んだ結果"大事に至ってはいけない』と思って、倒れた人を介抱しにいったのではないでしょうか?
この例えで言いたいのは、『空氣を読むなんて主観次第』ということです。
自分ができないから、他者へ求める
これはわたしの仮説ですが、『「空氣を読め」と他者に対して言える人は、「空氣が読めない」のではないか』と思うのです。
わたしは過去に3度ほどそれぞれ別の人物から「空氣を読め」と言われたことがあります。
注目すべきなのは、それをわたしに対して言ってきた人が皆「その他の人から厄介がられている人」だったことです。
その事象から、わたしは「自身が空氣が読めないからこそ、自分が場の空氣を作り出すことで、自身が空氣を読む役割を担わなくて済むようにしているのではないか」と推察しました。
だから、自分の作った空間や空氣を崩そうとする者に対して「空氣を読め」と言ってしまう。
自分が空氣を読む側に立った時にうまく立ち回れる自信がないから、過剰なまでに場を保存しようとする、そういうことなのではないか?と思っています。
まぁまず、そういった人は「あいつは持ち上げていい氣にさせておかないと不機嫌ばらまいてなにをするかわからん」と周りの人から思われていて、ご機嫌取りしてもらってるだけなんですけどね。
とはいえわたしには協調性はないと思いますけどね😉
あとこの仮説もサンプル数が3人なんで、仮説として成立するかどうかさえも怪しいです。
本当に空氣が読める人は、『自分が場の中心にいる』と他者に思い込ますことができる人
本当に空氣を読める人ってのは、なにも言わずに冷静に場を見定め、その時々で必要に合った行動を自然に行える人だと思います。そして、「場を乱す人」には早々に見限る。
「場を乱す人は見限る」というのは、だから「芸能人の不祥事云々で盛り上がるコミュニティでは哲学者は話が合わない」ということなんだろうな。
『本当の権力者は表舞台には出てこない』という言葉があるように、「自分がこの場を支配している」と思っていたり、権力や恐怖政治よろしく威張って「自分が中心だ!」などと喚いているうちは大した存在ではなく、その場に溶け込んでいる一介こそが場を動かす存在なのではないかな?と感じる次第です。
『"支配している"と思わせられる能力を持っている』とでもいうのでしょうか。
昭和の家庭を例に上げるなら、配偶者がいないと金勘定もできないが、亭主関白で威張っている家父長制の亡霊みたいな感じでしょうか。この場合、配偶者が『本当の権力者』ということになりますね。
もうひとつスケールを大きくすると、植物や水は人類がコントロールしていると思っているけど、実際は植物も水も絶たれたらヒトはおろかその他の生物も生きていけません。
よくヒトへの形容で「懐が広い」や「器が大きい」と言いますが、「支配させる許容」を持っているかどうかが、その「懐が広い」や「器が大きい」に繋がるような氣がしますね。
愛のマリアナ海溝\(´-`)/
何においても、基本的に『誤用している輩が多い』という話
ちなみにわたしに「空氣を読め」言ってきた人の2/3が『唯我独尊』を座右の銘にしていたのですが、両人とも意味を履き違えて認識していました。
『天上天下唯我独尊』は「この世界において自分が一番偉い」という意味ではなく、「この世界において自分は一人しか存在せず、自分は尊い存在である。それと同様にあなたも同じく尊い存在だから互いを尊重しあって生きましょうね。みんな平等」という意味です。
どうしてアホは無知を誇るのだろう?と不思議だったのですが、ダニング=クルーガー効果が関係しているのかな?と、あるきっかけで思いました。このお話もいつかさせていただきますね( ¨̮ )
どうして今まで「空氣を読む」なんてアホな言葉が生き残ってきたのだろう?と考えたのですが、おそらく「それしか取り柄がない」と思っている(実際は思い込んでいる。本当はもっとある)勢力が意地になって維持しているんでしょう。憶測です。
◯◯は男、◯◯は女といったような昭和までの感覚をいまだに持ち続けているのと同じだと思います。青色は男、赤色は女とかね。
iOS端末は男が持つもの、女はAndroid端末。であるとか、スマートフォンは男が持つもので女はガラケーとかを言われたら「はぁ?何言ってんの??」となるでしょう。それと同じです。わたしはそう考えます。
これもフレーミングの枷ですね。
フレーミングの話にも派生しますが、時代の常識なんてのは、ある個人の思惑から始まっています。
ある個人が「こうしていきたい」と思った時、それっぽくて本当っぽいことを流布すれば、大衆が勝手に肉付けをして本当にする。
その本当がはりぼてでも、はりぼての本当を肉厚の実体のある本当と思い込む。
あれ?これって『嘘から出た誠』じゃない??
つまり「新しい生活様式」も、"ある個人の思惑"があるってことです。
「空氣を読む」だどうので言いたかったことは、ほとんどみんな主観で話してるのさ。ってことです。あと空氣を読むなんてわざわざ言わなくてもデフォルトの機能として入ってんだろ?という主張です。
ありがとうございました\(´-`)/
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