本日も閲覧いただきありがとうございます。
今回は以前に書いたこちらの記事で、「また別の機会に書く」と話していたことを記そうと思います。
以下、このエピソードはわたしが体験したノンフィクションですが、実在する人物・団体等とは一切関係ありません。
自分の中にあるからこそ見えるもの
以前、わたしは『こうもり』という先輩バンドのローディー(手伝い)をしておりました。
わたしはその当時、こうもりでボーカルを務めていた言さんと仲良くさせていただいていました。
その言さんがわたしのバンドを見にきてくれたことがあり、バンドの演奏後に言さんが、わたしのバンドで当時ボーカルを務めていた真さんに対して「彼は20人そこそこの動員(固定のお客さん)で満足するタイプだと思う。君の足を引っ張ると思う」と評しました。
それから半年ほど時間は経ち、とある幸運でわたしはメジャーバンドの方と一緒にお酒を飲ませていただく機会がありました。
こうもりでベースを弾く曙さんと、『エドヴァルド』というメジャーバンドのベーシスト UKさん(一番先輩)が仲良しで、お二人でよくお酒を飲んでいたんですね。
その酒席に同席させていただいたのですが、そのUKさんが曙さんのバンドメンバー、言さんの話をしました。
「彼(言さん)はダメだ。彼は仲良し数人とおべべを着て、週一回のスナックでカラオケを歌って満足するタイプだ。それに付き合わされてるから君(曙さん)や他のメンバーは足を引っ張られて迷惑を被っている。実際にそうだろ?」
わたしはUKさんと曙さんの話を聞くだけの借りて来た猫状態だったのですが、このUKさんの言葉には「おや?」と思いました。
言さんが真さんにした評価と、UKさんが言さんにした評価が一緒だったのです。
その先輩二人の会話(説教?)を、借りて来た猫の状態で聞いていて「非常におもしろいな」と感じました。
この体験がきっかけで「相手(他者)に対して感じたことは、自分もまた別の誰かから同じことを思われている。相手に感じたことは、自分もその要素があるから『この人にはこういうところがあるなぁ』と思うのではないか」と感じました。
これは「しっかりと言語化し、説明することができる」場合にだけ適用されると感じており、「なんかわからないけどモヤモヤする」というものは直感由来だと思います。
「言語化できることに適用される」と上記しているので、安部公房の著書『他人の顔』を評した際に書いた"自身が所属するコミュニティを、わざと閉鎖的な空間にして、その上、対外の人を敵視して敵対関係をわざわざ作る"というのも、ブーメランだということになりますね。自覺があります。
わたしの場合は所属できるコミュニティがないので、"対外に無数に存在するコミュニティに対して敵視している"の方が正しい表現です。
自分の中にないからわからないこと
自分が優柔不断をコンプレックスに思っていて、それを友人に相談してもいまいち理解されない。
「ゆっくり選ぶことができていいじゃない」と言われる始末。
これは相談した相手に優柔不断の要素がないから、理解されない。
「だれそれが口を開けば愚痴と他人の悪口ばっかりで本当にいやだ」と、その場にいない人の話を友人からされた時に、「いや…同じことあんたもよくしてんじゃん…」と思った経験がある方も多いのではないでしょうか。
それもその人が同じ要素を持っていたからこそ、目についてしまったのだと思われます。
なので、他者を見て「この人は場を仕切りたいのかなぁ…。でもなんか空回りしてる感じがあるな」とかなんとか思った時は、「これは自分が氣付いていないだけで、同じ要素を持っているんだろうな。第三者から同じことを思われているんだろうな」と自己を省みるようにしています。
トランプさんに対しての「自己顕示欲が強い」も、山田玲司さんに対しての「偏見やバイアスが強い」も、わたしの中に同じ傾向があるのです。実際、その自覺はあります。
これを昔からある言葉にすると『人のふり見て我がふり直せ』になると思います。
対象をポジティヴにするかネガティヴにするかは
以上に挙げたものはネガティヴ寄りのお話ですが、これはポジティヴにも通用すると思っています。
「この人の笑顔は素敵だな。癒されるな」であるとか、「この人は本当に聞き上手だな。なんでも話せてしまう」と思った場合、それはまた別の第三者からの自分への印象と言えるのではないでしょうか?わたしはそう思っています。
それまで何も思わなかったけど、ふとした時に「この人は誰に対しても、いつも礼儀正しいな」と思ったなら、その瞬間に『"相手に対していつも礼儀正しく接することができる"ようになれる可能性』が自分の中に生まれたのだとわたしは思っています。
それでこれはわたしの経験則なのですが、相手の良い部分を積極的に見ようとしていると、その良い部分を見る力が育っている感じがします。
わたしはそれまで"減点法"的な見方ばかりしていたので、無意識にも相手の「ここはどうなのかな」みたいな部分を見つけてしまいます。そんな時は「いや、そうやって偉そうなことを言っている自分はいったいどうだ?」と内省しています。
あとわざわざ相手のよくない部分を見続けるってエネルギー使うし、氣が滅入るんですよね。
それなら良いところを探しながら接する方が、ご機嫌でハッピーに過ごせますし、新しい指針を得ることができます。
よく引き寄せの法則だとか言いますよね。別の言い方をすればカラーバス効果ですね。
「こいつはなにも良いところがねえな!」と思ってしまう方もたまにいらっしゃいますが、そんな場合は反面教師にする材料や経験を得たと考え、将来自分がそうならないように備えるようにしています。
あと、『鬼滅の刃』において炭治郎が鬼に対してしたように、『この人がどうしてこうなったのか』というヒストリーを、憶測でしかありませんが鑑みるようにしています。理由を知ったら案外怒りも軽くなるものですよ。
なんだかすごく自己啓発チックになったな。
ただ、これは結構諸刃の剣で、「相手に思ったことが自分にも内在している」ということは徹底的な自己内省にも繋がります。
自ら過去の傷をほじくって、えぐり返すということにもなりかねず、忘れていた過去のトラウマがフラッシュバックするという甚大な精神的ダメージも受けかねませんので、覺悟が必要です。
不足感と充足感
話を戻します。
これもわたしの経験則ですが、接する相手の良いところを積極的に見ようとしていると、案外「自分はすでにいろいろ持っていたのだな」と思ったりします。
これは『足るを知る』と言われることですね。
人というものは『自分は全てを持っている』ということを知るために生まれるのではないかと思っています。
これは以前わたしが描いた『karma』という作品です。
わたしは大前提として輪廻転成の概念を採用しているのですが、完全な存在だった状態から地球に生まれる時に、色々な要素が飛び散った状態で肉体を得る。
その地球で輪廻転成を繰り返すことで、飛び散った本来持っていた要素を拾って自分の身にしていく。
その必要な一過程として、『足るを知る』は重要だなと思うのです。
不足感っていうものは見つけようと思えばいくらでも出てきますし、お金もかかります。不足感を煽っているのはテレビ等のマスメディアです
先述のカラーバス効果と似たものだと思いますが、充足感も見つけようとすれば(それがどれだけ些細なものでも)どんどん出てきますよ。
道に咲くお花が綺麗だと嬉しくなったりするのですが、それは「視覚があること」と「外に出て歩くこと」と「健康」があるから、綺麗だと「思うこと」ができて、「嬉しくなること」ができる。
メメントモリにも書きましたが、『有り難い』のです。
実際「失って初めて重要さに氣付く」と言われるほど人間ってのはアホなので、実感は薄いと思います。10年前の自分自身に話してもピンと来ないんじゃないでしょうか。
EXITの兼近さんも「無いを探すのではなく、あるに目を向けたら氣持ちも上向きになった」と仰られてれていました。
無知の知
氣をつけないとなと思うのは、わたしの経験上 「人が得意げに話すこと(いわゆる自分語りというやつ?)は、すでにみんな理解済み」なことが多かった(難易度7に挑んでいる人の前で、難易度3の成功体験を自慢げに喋っている感じ)ので、こうやって書いたことも、同じ二の舞かもということ。
また、将来的にそういった印象を持たれるのではないかという懸念です。杞憂になればいいんですけど。
曰く、
「得てして人は、自分の得た物を、自分だけが得た物と思い込むというわけですよ 」
魔王 - 伊坂幸太郎 (152ページ)
ですからね。
驕らずが吉。礼儀正しく、誇示せず、にこやかに過ごしたいですね。
今ふと思ったのですが、「売春」って言葉はどうして売る側の視点なんでしょう。別に「買春」でもよくないか?
「売春」の表記だと、買う側が透明化されて売る側だけが矢面に立つ構成になっていないか?
と思ったのですが、「買春」という言葉もあるそうです。
『"買う側にも責任があるでしょ"という問い』の姿勢から生まれた言葉みたいですね。
調べてよかった\(´-`)/
無知ほど声が大きい\(´-`)/
ありがとうございました\(´-`)/