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近況
最近、鬼滅の刃を描いた吾峠呼世晴さんの短編集を購入しました。
こちらの過去記事にて『吾峠さんの絵は繊細で憂いがとても含まれている(優しい絵)』と評しました。
そして今回短編を読んだのですが(鬼滅本編は未読)、『過狩り狩り』のタイトル明け一コマ目からびっくりするほど絵が上手い引き込まれる上手い。
「おにぎりを差し出す老人の手」というコマなのですが、老人のしわがれ具合やごはん粒のふっくら具合など、とても無駄がない。のに、情報量が多くて隙がない。
なんというか、「ふらっと立っているだけに見えるのに、攻め込む隙が全くない武術の達人」みたいな感じです。本当に絵が上手い画集買おう。
そして全体的連載される前だからか話にも絵にもパワフルさやエネルギッシュな勢いみたいなものも感じます。
他のジャンプ作品はほとんど知らないのですが、吾峠さんの作品は「自分が知らない他人にも、ちゃんとその人の人生や生活がある」のをしっかり描いているように思いますね。
わたしの知っているジャンプ作品が偏っているので分析が間違っていることはあると思いますが、他のJ作品は「独善的」で自分を中心に世界が回っていると思いすぎている描き方をしているように感じます。
吾峠さんの作品は、「知らない人・町ですれ違った人にもちゃんと生活がある」ということを描いていて、その知らない人と自分が交わった時に新しいお話が紡がれていくという一期一会を描いている作家さんなのかなと感じました。
それと全編通して、とっても優しいですよね。
慈愛とアガペーに溢れている。
『肋骨さん』とかすごく良い話です。大好き。
この日本にも「自分の損得ではなく、他者のことを想えるちゃんとした人間」が増えてほしいと切に思います。
あと思ったのですが、吾峠さんの絵はちゃんと体の肉を描いていますね。
吾峠さんしかり、『とんがり帽子のアトリエ』の白浜鴎さんしかり、『ブルーピリオド』の山口つばささんしかり、わたしは「ちゃんと体の肉を描いている絵」が好きなのかもしれません。
三者とも女性作家さん。男性作家さんは「骨と腱」を描きがちな氣がします。
あと吾峠さんは江戸川乱歩さん好きそうですね。
さて本題です。
最近わたしは『はてしない物語』を読みました。
※物語終盤の話ですのでネタバレ注意です※
コレアンダーさんが主人公の少年にたいして、
絶対にファンタージエンにいけない人間もいる。
いけるけど、そのまま行ったっきりになる人もいる。
ファンタージエンに行ってまた戻ってくる人もいる。
そしてそういう人が両方の世界を健やかにするんだ。
ほんとうの物語は、みんなそれぞれはてしない物語なんだ。
ファンタージエン(魔法の国)への入り口はいくらでもあるんだよ。
そういう魔法の本は、もっともっとある。
それに氣づかない人が多いんだ。
つまり、そういう本を手にして読む人しだいなんだ。
それに、ファンタージエンにいってもどってくるのは、本だけじゃなくて、もっとほかのことでもできるんだ。
きみは、これからも何人もの人に、ファンタージエンへの道を教えてくれるような氣がするな。そうすればその人たちが、おれたちに生命の水を持ってきてくれるんだ。
と話します。
この「ファンタージエンへの入り口がいくらでもある」というのは、おもしろく見ようっとすれば、おもしさが拓けるという「面白いこともなき世を面白く」の精神ですし、「ファンタージエンに行ってもどってくるのは、本だけじゃなく色んなことでもできる」というのは「自身の創造性を自分で狭めるな」という意味、「ファンタージエンに行って戻ってきた人が、両方の世界を健やかにする」「ファンタージエンに行った他の人たちが、おれたちに生命の水を持ってきてくれる」というのは、一度でもなにかに没頭した経験がある人にはその没頭を下の世代へ繋げてほしいという著者の願いを感じました。
ゲーム好きな人がゲームクリエイターとなって、新しいゲームを作り若い世代を楽しませてほしいといったような感じですね。
あと『モモ』の時にも触れられていた「具体性の高い"用途が決まっている"創造性を必要としない遊びばかりをしていると、抽象性の高い物事への対応力が失われ、具体性の奴隷になる危険がある」という著者エンデ氏の主張も『はてしない物語』の中に感じました。
わたし自身も、具体性の奴隷となることに対しては大変危惧を感じています。
事実、その具体性の奴隷になってから久しいと思います。
マトリックス
マトリックスという映画があります。
内容は
主人公のネオはコンピュータープログラマーだったけど、その世界は仮想現実で、本当はAI(機械)に人間がカプセルの中で栽培されていて人間の精神だけを仮想現実内で生かしていた。それをエネルギー源にAIは生活していた。
とまあざっくり説明するとこういった感じです。
「人間の精神をエネルギー源にしていた」のメカニズム?は、怒りや悲しみ、喜びといった感情は時としてとてつもないパワーを産みます。
「むかしバカにしてきたやつらを見返すために大成してやる」というのもエネルギーです。
「自分が悲しい経験を多くしてきたから、他の人には同じ経験をしてほしくない」というのも「好きな人(守るべき存在)がいるから過酷な仕事も頑張れる」というのもエネルギーです。
聞くところによると、あらゆる感情の中で怒りから発生した原動力(エネルギー)が一番強いそうですね。
これを見ると感情がエネルギーとなっていることがわかりますね。
なので人間の精神を仮想現実の世界で生かし、それをエネルギー源にするということの説明はつくと思います。
スピリチュアルなお話になりますが、地球外の場所には感情という概念が無いそうです。
外から来たと言われている仏陀氏がアルカイックスマイル(無表情に見えるけど、笑っているようにも見える表情。モナリザの表情なども)をしているのは、感情という概念がないためだそうです。
そのため、シリウスであったりアルクトゥルスといった外の星の意識体は、未だ感情という原始概念が残っている地球へアトラクション感覚で転生するらしいです。
まぁカバラのセフィロトでもマルクト(地球)は物質世界とされていて、低次元すぎてセフィロトから切り離された場所らしいですし。うろ覺えですけどね( ¨̮ )
ちなみにマトリックスの元ネタはニューロマンサーで、ネットの空間に意識を潜らせることを「マトリックス」と言っています。ニューロマンサーは一回だけ読みましたが、何度も読まないと一切理解できない作品なので、もし読もうと思われた方は覺悟してくださいね( ¨̮ )
物語内のある生物がこう言います。
「世界中の物語は、とどのつまり、アルファベット二十六文字でできている。一時一時は同じで組み合わせだけが変わるんだ」
これを読んだ時に思いました。
これってPC上で行うプログラミングと同じで、これは現実ともリンクしているのではないか?
アルファベット二十六文字を情報(DNA)と過程して、テーブルや椅子に使われている木材も「欅」や「オーク」のような『名前という識別番号が付いた情報』の集合体。
コップも、電子機器も、水も、肉体などの有機物も、情報の集合体。
万物は素粒子の集合体だと言われていたりもします。一切皆空の世界ですね。
つまりなにが言いたいかというと、超ざっくりとした意訳ですが「この世界はマトリックスの世界」ということです。
『シミュレーション仮説』や『水槽の脳』ってことですね。
以前ある人が「小説も読んだら作品の世界へトリップできるから、ある意味VR空間じゃないか」と話しており、その視点にわたしは「なるほど」と思いました。
夏目漱石氏の作品が、やたらとその頃に流行った食べ物や場所が子細に書かれていたり風景描写が細かいのは、その当時は今のように自由な行き来ができず、また旅行自体がかなりの贅沢だったから、旅行に行けない人が特定の場所に行ったと想像できるようにという紀行文の意味合いがあったそうです。
この世は情報に溢れています。髪の毛一本ですら遺伝情報の塊です。
情報の塊である肉体が思考という情報の攪拌を行い、情報の塊であるPCというデバイスを使って他の情報の塊へ、個人の知見としてアクセスを試みている。
これはこの『現実』だと言われている空間が、一般的にはPC内だけだと規定されているヴァーチャル空間内であるとは言えないでしょうか?
脳というのは、電氣信号を送受信するコンピュータみたいなものだとの見識もありますしね。
とすればどうなるか。
AIである我ら生物が思考すれば、その思考が現実化する道が開くのではないか?
映画『トゥルーマン・ショー』のように我ら愚かな人間が行う日々の生活が、娯楽として消費されているかもしれませんね。
現代で「神」と呼ばれている存在が、それぞれ水槽に個人的な宇宙を作っていて、その宇宙の中でわたし達が生きているのかもしれませんね。
その「神」たちが飼っている宇宙の一つ一つがパラレルワールドとして相互に干渉しあっているのかもしれませんね。
今氣付いたんですけど、ネオは本職がプログラマーだったから自身のプログラムを書き換えることができて、マトリックス外に出ることができたんですかね。
星新一さんのショートショート
星新一さんのショートショート作品で「理由はわからないけど、ロケットを作り続けるロボット」の話があります。
「理由はまったくわからないが、おれたちはロケットを作らなければいけないと思っている。まるでそれが本能として定められているかのように」と作品内のロボットは語る。
そしてロケットは完成し、本能が望むまま、とある惑星に向けて飛び立つ。
ロケットは着陸の衝撃で大破し、登場していたロボットもボロボロになりながら辺りを見回すと、綺麗な服を来た人間が声をあげた。
「さぁ帰ってきた帰ってきた!一番最初に帰ってきたのはM123Δのロケット!配当は50倍!」
ロボットが感じていた本能はプログラムされたもので、賭博という娯楽として消費される物でしかなかったのです。
わたしのような奇態な人間が世の真理みたいなものに興味があるのも、プログラムされたものかもしれませんし、三大欲求のような「本能」も、それをしている時の脳の活動を研究するために「神」とよばれる存在が、地球の生物に組み込んだプログラムかもしれません( ¨̮ )
言靈の話の時に「昔からある言葉が現在でも使われるのは、その言葉がある種の真理に触れている為ではないか」書きました。
ずっと名作と言われている小説や映画も、その「ある種の真理に触れているため」人々の心を動かす力を持っているのだと思います。
そんなこと言っても、學ぼうと思えばなにからでも學ぶことはできますけどね。
湯氣が立つマグカップを見て、湯氣の昇り方から螺旋と回転の不思議に氣がつくこともありますからね。
勉強=學校・一方的に教えてもらうもの と考えていては一生學ぶことはできませんよ、というお話ですね。
わたしの話は真に受けないが吉かもしれませんね( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )