頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

自死を選んではいけない理由、人を殺めてはいけない理由

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

今回は死についてお話をしたいと考えております。

「死」と一言に言っても、哲学的な意味合いでの死ではなく、もっと無味乾燥な物質としての死についてです。

 

今回もお樂しみいただければ幸いのことと存じます。

 

 

 

 

死とはなんなのか

 

今回は死についてのお話です。

「死」というテーマはわたしの得意テーマでもあります。

 

いや、特段得意という訳でもないのですが、日々の生活で生老病死を考えるにおいて、基本的に『死』についてよく考えることが多いので、結果的に死についての造詣が深くなったということです。

次点で『生』のことを考え、『老い』と『病』については興味がないのでほとんど考えておりません。

 

いつか生老病死についての記事も書いてみたいですね( ¨̮ )

 

 

つーかもっと大衆は生老病死について考えろよ。向き合えよ。

避けられねえからって怯えて見ないふりしてんじゃねーぞ。

恐いんならその恐さと上手く付き合っていくため真正面から向き合って直視しろよ。

 

 

 

失礼しました。

 

しかし、『死について』 を一番よく考えているということは、わたしは死を一番恐れているということになるのか?

自覺している内だと「生」の方が恐いんだけどな。

 

無意識的に「死を恐れすぎないように」脳がしてるのだろうか?

 

 

 

この記事においての「死」は、『観念的な死』や『社会的な死』ではなく、あくまで『物理的な死』について論じます。

つまり、心臓が止まって、個人が独立した生命活動を行えなくなった状態ということです。

それを念頭に置いた上でお読みくださいね。

 

 

 

人を殺めてはいけない理由、自死してはいけない理由

 

人を殺めてはいけない理由。

それはずばり、残された人が悲しむからです。

 

 

 

 

 

えぇ。この記事をご覧になっていらっしゃる方々は、そんな感情論は求めていないのは存じています。

むしろそんな"綺麗事"まがいの理由なんてうんざりでしょう。えぇ、えぇ。

「それ以外」を求めてインターネットを海遊されているのでしょうしね。えぇ。

 

しかし、この答えも案外遠からずなんですよ。

 

 

その理由をご説明していきますね( ¨̮ )

 

 

 

人を殺めてはいけない理由

 

人を殺めてはいけない理由。

どうして殺人がいけないかというと、人が一人死んだだけで多大の経済的損害が生まれるからです。

 

コカコーラを例に挙げましょう。

「コカコーラの原液シロップのレシピは、ごく少数の人間しか知らない」という噂があります(あくまで噂だそうです)。

仮にその数名を三人と仮定しましょう。

その内の一人が通り魔によって殺害された。たまたま同じタイミングで自然災害が起き別の一人が亡くなった。たまたま同じタイミングで最後の一人が乗っている飛行機が墜落して最後の一人も亡くなってしまった。

そうなればコカコーラの製造は中止せざるを得なくなります。

 

実際のところ金庫にレシピが保管されていたりするのでしょうが、その金庫を開ける(パスワードを知っている)人間が死んでしまったら、開けられなくなるか、開けるまでに原液の製造はストップされます。

 

仮にコカコーラの製造が永遠に中止されたとしたら、コカコーラ社では従事している多くの職員の首を切ることにも繋がりますし、そうなれば膨大な数の人間が路頭に迷うこととなります。

 

またコカコーラは1886年に発売されて以来、実に140年近くも消費者に愛され続けています。

詳しい内訳は存じませんが、いまだにコカ・コーラ社の全体シェアの半分はコカコーラが持っているのではないでしょうか。

コカコーラ単体のシェアが全体売上の半分を占めていると仮定しても、コカコーラが製造中止になれば単純計算で売上の半分が消える訳です。

また「コカコーラがあるから株を保有している」という株主の方もいらっしゃると思うので、コカコーラが製造中止になればその資産家や投資家の方は株を手放します。その結果株価は下がりますし、その株価動向を見て株を手放す人も出てくるでしょう。

 

あと単純に、人が一人死ぬことで「徴収できるはずだった税金」が泡となって無に帰します。

国家が困るんです。

 

 

 

自死してはいけない理由 

 

「人を殺めてはいけない理由」を上に書きましたが、今度は「自死をしてはいけない理由」です。

大まかには『国家が困るから』ってことなんですが、それまでのプロセスが違っています。

自死を選んではいけない理由の方が、"残された人が悲しむから"と強く関係してくる氣がします。

 

 

自死がいけないのは、その人が生きていたら動くはずだったお金が無くなるからです。

まぁほとんど「殺人がいけない理由」と同じですね。

 

人が一人自死を選択したとします。

その自死で諸々含め500万円のお金が動いたと仮定します。

500万円がその時動いたとて、その人が生きていれば(生活習慣にもよりますが)五、六年でペイできるのではないでしょうか?

もしその人がまだまだ若く、この先何十年も生きるはずだったと見立てられる場合、未来で使われるはずだった多くのお金は、無いものになってしまいます。

多くの損害が生まれるのです。

 

 

いじめ被害により自死を選んだ人が居て、その親御さんがその方をとても愛していたとします。

その方の自死により、それまでは溌剌と元氣だった人が鬱々と落ち込むばかりになった場合。

その親御さんは旅行が趣味で年に一回は必ず海外旅行に行っていたが、我が子の自死により旅行になんていける精神状態でなく、二度と旅行に行くことはなくなった。となった場合の社会的な経済損失は甚大なものになるはずです。

 

子どもの成長を見守ること、お世話をすることが生きがいだった場合、後追いでその親御さんも自死を選択をしないとも限りません。

その場合は経済損失が一人から二人、三人へと増えていきます。

 

 

論点を変えて考えましょう。

「来週の土曜日、午後三時にあなたは死ぬことになります。この事実は変わることなく、逃れることもできないので、その未来を受け入れた上で残りの人生をお過ごし下さい」と言われた場合、言われた本人はどうするでしょうか?

「最後の数日だから貯金を使い切ろう」と思い立って、豪華な食事や生きたかった場所に行ったりはされるでしょうが、新車を購入したり新しい服を購入したりはしないのではないでしょうか?

 

「どうせ死ぬなら」という理由で強姦をしでかす人や、無差別殺人に走る人もいるのではないでしょうか?

そうなった場合の経済的損失はどれほどのものになるのでしょうか?

もちろん、怪我や重症により医療機関は少なからず潤うでしょうが、医療機関が一番儲かるのは「生きている状態でいろんな病氣に罹って病院に掛かる」という状態です。

"人が死ぬ"というのは多大な損失を生むのです。

 

 

バカの壁』や『死の壁』を執筆された解剖学の養老孟司さんは「百円で購入したカッターナイフで命を奪うこともできる。でも、同じ百円で命を生き返らせることができますか?」と仰られていました。

そういうことです。

 

 

 

「人は一人で生きていけない」の真意

 

よく「人は一人では生きていけない」と言います。

そりゃそうですし、「自分はこれまで一人で生きてきたんだ」と粋がっている人もわたしは好きではありません。

(ですが、わたしは他人様から「この人は『これまでの人生なんでも自分の力で生きてきた』とか思ってそう」と思われていそうだなとは感じます)

 

上記したように、人が死ねば経済の活動率が低下します。

それは、人が生きていくということは互いに干渉しあっているからです。

 

生物は生きるために物を食らいます。

その"物"を買うために、陳列した人もいれば、それを運搬した人も、それを製造した人もいます。

生物が食らうものはほとんどが土に還る有機物ですが、多くの有機物を作るために必要となる土自身も、過去の長い歴史生命活動が無ければ存在しない訳です。

 

つまり「これまで自分は自分一人の力で生きてきた」とのたまっている方はそういった過去の生命活動さえも自分一人で担ってきたと言っているのです。

創造神かなにかでしょうか?

まぁそういった方は『他人の手を借りることなく自分で稼いできた。それを見てほしい認めてほしい』という氣持ちの現れで主張されているのでしょうから、そういった方と知り合った時は、にこにこしながらそっと去りましょう。

 

 

『蜜蜂が死滅したら人類は四年で滅ぶ』と言われます。

何も知らない状態でその話を聞いても『荒唐無稽な』と思われるかも知れません。

実際わたしも初めて聞いた時は「そんなまさか」と思いました。

ですが理由を聞けば一笑に付すことはできません。

蜜蜂がいなくなったら人類が滅ぶ、その理由は「蜜蜂が花粉媒介者(ポリネーター)として重要な仕事を行なっているから」です。

 

多くの植物は他家受粉のシステムを用いており、誰かが受粉を手伝わないと実が生ることはありません。

一部の穀物や植物は自家受粉をしたりもするそうですが、自家受粉では少ない量しか実に生らないそうです。

そんな他家受粉に多大な協力をしてくれているのが蜜蜂の皆様だということです。全く蜜蜂様様です。

 

このお話だけでも「人間が一人では生きていけない理由」として十分ですよね。

風で受粉する風媒があるだろうと反論されるなら、その風をあんたが生み出してんのか?とお聞きしたいですね( ¨̮ )

 

www.greenpeace.org

 

 

まぁ人類なんて地球に必要ではないのでさっさと滅びたらいいじゃないと思うんですけどね。

みつばちは可愛いから滅びてほしくないし、陸上で生活している生物全体の生命が危険に曝されるので、みつばちは居なくならないでほしいです。

人間は早く滅びてほしいですね。

 

は可愛いですよ。

 

 

 

バタフライ効果というトリガー 歯車という社会

 

バタフライ効果という考え方があります。

『ブラジルで一匹の蝶が羽ばたいたその影響で、テキサスに竜巻が起こるか?』という氣象學者さんの公演タイトルが由来だそうです。

概要でいうならば「少しの力でも時間の経過で大きな結果が得られ得ること」みたいな感じですかね。

最初は小さい雪玉だったのに、転がるに連れて巨大な雪玉に変わったり、角度を五度上げただけで坂の傾斜が大きく変わるのと似たところではないでしょうか。

 

馴染み深い言葉で例えれば『風が吹けば桶屋が儲かる

 

互いが知らないうちに細かく、緻密に相互干渉し合っているということ。

自分がアイスクリームをひとつ買っただけで、保護動物の殺処分が回避される可能性も存在するということです。

 

youtu.be

 

 

いまだに生活保護の是非や死刑の是非を議論していらっしゃる方がいますが、それらが必要な理由は、生活保護を支給することによって広く、多くの経済効果が生まれるからです。

 

死刑囚とは言え、すぐに死刑になるわけではないので国家としては生かしておかねばなりません。つまり食が必要となる。

刑務所で提供される食事は調理された状態で配膳されるので、スーパーに並べる用の"綺麗な野菜"じゃなくでも良い。

形が悪かったりで規格外とされ、本来なら買い手のつかない野菜も刑務所が買うことによって経済の流れが生まれる。

 

生活保護においても、十万円の支給を渋るより、支給したことによって生まれ伝播する衣食住や娯楽の経済効果の方が国家としては有難い。

 

 

地下水がなくなれば地盤沈下するのと同じで、どんなに小さな歯車(国民)でも破損すれば国という機械は動作エラーを起こします。

部品は替えのものを確保していくのが鉄則ですが、替えすらも破損していたり、別の場所で同時多発的に歯車の破損が発生すれば機械は読んで字のごとく"壊れ"ます。

 

 

我々が「国」という共同組織の元に生まれた以上、個人の勝手で歯車の役を降りたり壊したりしては国家が黙っていないわけです。

つまり、逆を返せば経済を循環させることさえできていれば国民などは必要ないということだと思います。

 

 

 

結局なんであかんねや

 

長々と国家が困るやら書いてきましたが、結局の理由は、生産性が下がるから

これです。

 

人が一人死ねばそれによって得られるはずだった経済が滞る。

死が多く発生し、国として疲弊した状態の時に他国に攻め入られた場合、その国は存続することが危うくなる。(反政府ゲリラが無差別テロを起こすのも同じ理由ではないでしょうか)

そうならないために、そうしないために国家としては『人を殺めたら罪に問われますよ』と法律を組み上げ、厳罰を課しているわけです。

 

国を人体、国民を血液と例えましょう。

血液は身体中へ栄養や酸素を送る役目を担っています。

怪我などで血液が体外へ出ることがありますが、少量の場合は新しい血液を生成することができます。

ですが、平均体重の成人の概算で、血液総量の1/2、およそ1.5リットルの血液が出血すれば失血死で命を落とすそうです。

 

毎日様々な活動をしている国民一人一人、その総数が半分になれば国が国としてこれまでのように存続して行くことができなくなり、国としては死んでしまう。結果、隣国などに吸収されてしまう危険も生まれてしまう。

その血液たる國民を守るために活動しているのが、自律神経であったり自己免疫やナチュラルキラー細胞といった役割の国家なのです。

 

 

 

最後に

 

いつものように長々と書いてきました。

ここまで読んでいただき感謝いたします。6000字は書く方も疲れますが、読む方もお疲れになることと存じます。

 

さて、お氣付きの方もいらっしゃるかも知れませんが、この記事のテーマは伊坂幸太郎著の『マリアビートル』から着想を得たものです。

f:id:maro19930624:20210615190353p:plain

promo.kadokawa.co.jp

 

この作品は前作の『グラスホッパー』の続きとなっており、殺し屋が語り手を担っております。(続き物にはなっていますが、各作品独立しておりますので『マリアビートル』からでも面白く読むことができます)

 

その語り手の内の一人、王子という中学生の少年が「なぜ人を殺してはいけないのか」と大人に問うていきます。

その問いに対して『グラスホッパー』で語り手の一人だった鈴木が答えたことを元にしてこの記事を書いています。

正直「人を殺したら国家が困る」というのはまんま引用を致しました。

 

ですが、その「国家が困る」という理由から、『経済的損失が生まれる』や『生産性が下がる』という結論を導き出したのは、推察を広げた結果です

 

つってもわたしなんかが思い至ることなんて他の方も考えつくと思いますので、偉そうな言い振りなんてできませんけどね( ¨̮ )

それこそ「自分は一人で生きてきたんだ」と息巻いて話す方と一緒です。

 

だいたい結論に見えるものなんてのは『結論だと思っているだけの表面的なものだろうしな。

 

 

どうか一笑に付していただければ( ¨̮ )

 

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )