今週のお題「自由研究」
「くるくる」を漢字で表現しようと思ったらどうしたらいいのだろう。
「回回」?
(回▽回)?
うん。その状況やその様を表すのならばいいと思う。
しかし他にもあるのではないか。
「来る来る」?
うん。そのまま漢字に変換すればこうなるだろう。
しかしなにも来ない。
いや?「くるくる」を『何かが回転している様』だと規定して考えているが、それは「"くるくる"を『何かが回転している様』だと考えるように脳が規定している」のではないか?
たしかに「くるくる」は「くるくる」という言葉でしかなく、それ以外の意味はない。
意味は世の人間がつけているだけに過ぎない。
うん。
話を戻そう。
「くるくる」
「苦苦」
本来ならこれは『くく』や、『にがにが』と読むだろう(この際「本来」という意味合いの言及はしません。mendo-kuse~)
『くく』については「ク」が「苦」という漢字の音読みにあたるので納得できます。
『にがにが』ならばどうでしょう?
『にが』は「苦い」にも見えるように(い)という送り仮名が付くから、『苦(く)』が『苦(にが)』へと変化します。
また、「苦い(にがい)」という言葉があるから『苦苦』でも『にがにが』と読めるのではないでしょうか?
それならば、『苦苦』を『くるくる』と読んでもいいのではないか。
わたしも実際、「送り仮名(しい)がなければ『苦しい』は"くるしい"と読めないのではないか」と思っていました。半ば信念を持って主張していました。
なんと張りぼてちっくな信念でしょう。
『苦』という言葉を「くる」と読まず、「く」としか読んでいなかったのは誰から強制されたものでもなく、わたし自身がわたし自身を狭い箱に押し込めていただけだったのです。
『苦苦』は『くるくる』と読んでもいい。
同じ考え方を当てはめれば『狂狂』も「くるくる」と読むことは可能です。
現代日本で幅を聞かせている音読みの仕方ならば「キョウ」です。
しかし「狂」の通例使用例の『狂う』が二つ合わさった『狂々う』なんて言葉は現代日本ではありません。
まず「狂う」という言葉の比較級が『狂々う』なんて安易な言葉だと遣る瀬無い氣持ちになります。
『狂々』ってなんだか強そうですね。「けものへん」の「王さま」ですからね。それがふたつ連なってるなんて、いまにも姿勢を低くして飛びかかって来そうじゃないですか。
『狂々』はネコ科のイメージです。ライオンのイメージがもうあるからでしょうね。
☆結論★
「くるくる」を「狂々」と表現してもいい。
よく見る表現で狂った時は頭の上を星が回っていたり、目が回っていたりしますので、やはり「くるくる」は「狂々」でも通用する。
さて、ここまで読んでなにかお氣づきになることはありませんでしょうか。
そうです。人間はなにかの可能性を規定することで自分自身を縛っているのです。
「しい」という送り仮名がないと『苦』を「くる」と読んではいけないということだったり、『狂々』の字面を見ただけでライオンなどのネコ科動物が想起されていたり、『くるくる』は「何かが回転している様」だと無意識に思っていたり。
その行為は側から見れば、自分で後ろ手に自らの手首に手錠をつけているように見えるのではないでしょうか?
器用ですね。
自分で自分の行動を縛っている。セルフSM。
アホ浮世。
アホ浮世を遊泳する優麗な幽霊 我ら諸君。
脳は虎視眈々と我らを騙そうとして来る。
用意周到に自らの意思で檻に入らせて自分の手で鍵を閉めさせようとするぜ。
脳自身としては「脳が理解できないものを直面したら精神がパンクするから」、自身と宿主であるわたしたちを"善意"で檻に入れているのかもしれないけどね。
まぁ「不自由こそが自由」という理論も一理あるし。
「AかBか」で選ぶ選択肢があるのが自由なのではなくて、「AかBか」という選択肢が提示されないこと。っていうあれと一緒ですね。
「AかBか」という選択肢には「AかBか」という選択肢を提示した人間(あるいはシステム)の意図がありますの。
「真の自由は自由だの不自由だのって価値観が存在しないこと」って誰か言っていたっけ?
「多様性という言葉が存在している時点で多様性はなんてない」って言葉の派生だろうけどね。
自分ほど研究しがいのある対象はいないぜ。
「自分のことなんだから解ってるよ」って?
それこそが脳の用意した檻だとしたらどうだい?
脳の外に出てみたら面白いんじゃないかな。
hey セルフSMな我ら。
Thank u