頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

不老不死

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

いつも弊ブログを見てくれている読者の皆様は、不老不死についてどうお考えでしょうか。

 

『この世は地獄』と考えているわたしとしては(これについては"そう思っている"から、"地獄に相応しい現実が用意された"というだけです)、「不老不死だとかとんでもない!氣が狂っているのではないか!」と長らく思っていました。

 

『秦の始皇帝が不老不死を求めて水銀を飲んだ』とかいう有名な逸話もあります。

その逸話を聞いた当時のわたしは、「はー、アホなことする人もおったもんやで」と思っていたのですが、最近考えが変わりました。

 

 

『不老不死』を"肉体のもの"として捉えていたから、それを望む者の想いが思い知れなかった。

 

 

彼らが求めていた不老不死というのは、『肉体という物質を超えた存在になりたい』ということだったのではないでしょうか。

 

 

「人は二度死ぬ」と言います。

一度目は肉体の死。二度目は他者から忘れられるという記憶としての死

 

そして、存命の間に忘れるということもありますが、人が死ぬことによって「その人の記憶ごと消える」ということもあります。人の記憶のサイクルが早いということです。

 

 

人生100年時代」とかバカみたいなことを言っている現代ではなく、平均寿命が40年とか50年だった時代は医療も発展していなかったでしょうから、様々な病でいつ死んでもおかしくない状態だった。

 

そのため記憶のサイクルが早く回る。

それを恐れて彼らは不老不死を求めたのではないか。

 

忘れられることは辛いことなのでしょうね。

 

 

 

そう考えると徳川家康さんを筆頭とした「歴史上の偉人」と言われる方々は、不老不死を叶えているとも言える。秦の始皇帝も。

 

本当に存在して生きていたならばのお話ですけどね。

 

 

 

そして、もしそういった推察が真意だったとしても、わたしは不老不死とか嫌ですね。

勘弁々々。

 

ましてやヴァーチャルの世界で生き続けるとか以ての外。

まさにそれこそ生き地獄でございます。

 

人ってものは老いて節々が痛むのを感じながら世を憂いたり、「肉体のゆらぎ」に一喜一憂していくものじゃねーの、と思います。

人(有機)は死ぬ(朽ちる)ものですよ。

 

 

 

 

ありがとうございました。