頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

責任は指揮者なのか?奏者なのか。

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

昔ドイツにはアドルフ・ヒトラーという人がいました。

アドルフ・ヒトラーという人は、一般的に『ユダヤ人の大虐殺を指揮した大悪党』と認識されています。

 

確かに、それは正しいのかもしれません。

ですが、実際にガス室なりで虐殺をしたのはヒトラー氏ではありません。

 

あくまで彼は『指揮をした人』で、その下にいる多くのドイツ兵が『実務』をしたのです。

 

さて、悪いのはどちらなのでしょう?

 

 

とはいえ、こんな犯人探しは無粋極まりないので深くはしませんが、責任の所在をどこに置いて考えるのか。

これを考えるのはとても重要です。

 

言うなれば『価値基準をどこに設定するのか』ということ。

 

 

9月の100分de名著で取り上げられている『群集心理』という書籍も、それらを書いたものなのではないかと感じています。

 

確かに、指揮や陽動をしたのは特定の誰かである。だが、その指揮に従った者がいる。

むしろ、その指揮に従った者が居なければ指揮者は指揮者たり得ないのである。

 

むかし、「オーケストラの指揮者って必要なの?ただ棒(タクト)振り回しているだけじゃないの?」という疑問を確かめるために、未経験者が四重奏を指揮するという映像を見たことがあります。

結果は、よれよれのぐちゃぐちゃ。

樂器の奏者は、指揮者の挙動(振りの大小や体の向き)や表情を見て、演奏の強弱を変えます。

フルオーケストラの場合であれば、タクトを振りながらタクトを持っていない方の手で別の樂器を指揮したりもします。

 

演奏をして奏でているのは樂器を持っている奏者ですが、指揮者が中心にいなければ演奏の統率が乱れ、バランスがひどく歪なものになる。

もし、そのオーケストラで目立つミスをした場合の責任の所在は?誰なのでしょうか。

 

 

アドルフ・ヒトラーの話に戻ります。

現代では『アドルフ・ヒトラーは稀代の極悪人』とされていますが、ヒトラー氏にも側近がいて、その複数人が宣伝をしていたことも知られています。

もちろんヒトラー氏自身もアイデアを出したことでしょう。

 

その側近にも部下が居て、その部下が"実務"をこなす役割。

 

ガス室のガス噴霧ボタンを押した人に「どうして押したのだ。非人道的とは思わないのか」と問うても、「仕事で命令されたから」と答えるのでしょう。

さて、「命令はしたが実際に命は奪っていない人」「命令を果たすために実際に命を奪った人」どちらが悪いのでしょうか。

 

きっと、「どちらも等しく悪いし、どちらも等しく悪くない」というのが理性的な結論だと感じます。

 

おそらく、この思考・心理の悪い(恐い)ところは、『どちらかが悪いと決めつけようとするところ』だと思います。

「どっちかが悪いんです!」と決めつけてしまえば、それ以上考えなくて済むからではないかと感じています。

しかし、思考は続けなければいけない。考えろ。

 

何かを指揮した人間も悪いが、それに従った人間も悪い。

それらを嗤っていた人間も悪いし、無関心であった人間も悪い。

 

痛み分けの精神ではないが、そういった思いやりとでも形容できそうな感覺は、これからの世の中には今まで以上に必要になってくるし、絶対に忘れてはならないと思います。

 

唯一良くも悪くもない人間を挙げるなら、それは「何も知らなかった人間」でしょう。

『無知は最大の罪』とも言いますが、ここで言う「何も知らなかった人間」は、タロットカードでいう『愚者』のイメージ。

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なるほど考えれば考えるほどわからなくなってくるな。疲れるしな。

案山子の頭を割ってみると虫たちが動き回っていたかの様な氣持ちがする。

 

巨悪を割ってみれば、その中にいたのは善良で真面目な人間が『仕事』をしているだけだった。

その真面目な人間たちは、ただその行為が「世の為になる」と信じているだけだった。

そういったような。

 

たぶん、考えると頭がクラクラするんだ。だから、人は思考することを嫌う。

 

 

 

よく「特権階級の人間が首を差し出すことで、他の民を助ける」ということがあったりするので、そういう意味合いで特権階級は必要なのかと思いもします。

 

 

あまり『責任の所在はこの人間に全てある!』と考えない方がいいのではないかと感じます。

その認識が色々な不和や不調を生んでいく。

 

 

 

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )