本日も閲覧ありがとうございます。
わたしは伊坂幸太郎さんの作品群が好きです。
わたしの一側面は伊坂幸太郎さんの作品でできています。
その中に『魔王』という作品があり、今月の100分de名著で取り上げられているル・ボン著の『群集心理』が下敷きになっているのではないかと思います。
魔王
🌾 以下、もちろんネタバレを含みます🌾
この魔王という作品はファシズムのことを扱っており、しばしば民が「結束」する様が描かれています。
ちなみに、この『魔王』は『モダンタイムス』へと繋がる物語となっています。
安藤という会社員が主人公で、ある出来事をきっかけに、自分が念じたことを相手に発言させることができる「腹話術」という能力を自身が持っていることを知ります。
その安藤は、考察魔と言われるほど日常的に考察をしていて、マクガイバーというヒーロー番組の「考えろ考えろ」という文句を、自身に絶えず投げかけています。
おそらくわたしの生活スタンスは、この作品から由来したものが多いのでしょう。
この安藤が生活している世界には、犬養舜二という政治家がいて、犬養が大衆を掌握する様が描かれます。
この犬養舜二という人物は、明瞭で、センセーショナルで、人を惹きつけるカリスマを持っています。
テレビの討論番組に出演した際には「陳腐なことでも、必要なら何度でも繰り返しますよ」と言い、続けて「五年でこの國を立て直す。それが無理だった場合は首をはねろ」と発言します。
非常に分かりやすく、センセーショナルです。
この犬養に対して、安藤は危機感を覺える。
結束主義
この作品がきっかけで『ファシズム』というものを知ったのですが、ファシズムはイタリア語の「集団・結束」という言葉が語源になっています。
その「集団」や「結束」を描いた箇所が、何度も作中に登場します。
アメリカへの嫌悪感から、日本に帰化したアメリカ人の英会話教室講師アンダーソンの家が火事で燃えているのに、消防車を呼ぼうともせず「アメリカなんて燃えちまえばいいんだ」と言う者。
人氣ロックバンドのライブで「王様の命令は絶対か!」と煽るボーカルに対して「絶対!」と呼応する観客。
切ったすいかの種並びが綺麗に整列している描写。
再三言っていますが、個人的には音樂にはカルト臭さであるとか、宗教っぽさは合っていいと思っています。
カルトと形容されるかどうかは、そのフォロワーの分母が多いか少ないか、また規模が大きいか小さいかですからね。
誰もサザンオールスターズさんや矢沢永吉さん、少年ジャンプに掲載された作品群を『カルトだ』とは言いません。
昨日こちらの演奏を見ていて思いました。
このボーカル、マヒトゥさんが言っているのは「知らないうちに入れられている水槽のガラスを内側から壊せ」という意味です。
しかし、おそらくその見た目やバンドが作っている雰囲氣などの表層だけを見て「うわぁ」と思う人もいるのでしょう(無意識の内に「わたしこそが深層を見ている」という幻想や選民思想に"自分の脳が"落とし込めようとしている事実を忘れてはいけない)。
もし、上記のようなことを広く浸透するカリスマを持った人が発言したら?
それこそ犬養舜二のような人物やアドルフ・ヒトラー氏の様な人物が発言したら?
魔王の作品内で安藤は、ライブハウスで見た観客への不安を吐露します。
『バンドが命令をしたら、犯罪が起きかねないのではないか』
何の知識もなく聞けば、きっと「荒唐無稽な思い過ごしだ」と思うのでしょうが、群集心理を知った上で考えれば、さもありなんと思われるのではないでしょうか。
あるカリスマが群衆の一人を指差し「そこにいる者は我々を混沌へ陥れる危険な人物だ。早く捕まえないと大変なことになる」と発言したならどうでしょうか。
その一人は『共通の仮想敵』となって、大勢の者から取り押さえれるでしょう。
その結果、無実だったその人が死んだとしても取り押さえた側が「だってそう言われたのですもの」と主張したなら責任の所在はどうなるのか。
ヴィジュアル系の文化には特定の振り付けやノリ(どのジャンルにも特定のノリはある)がありあす。
それを見て『もはや宗教!?』といったパッケージをつけるインターネット記事もあります。
それは『宗教』という言葉に引きがあって、強い意味を持つ、あるいは大衆の脳に強い意味が"紐づけられているため"です。
考え直せ。あなたが好きなものも理解のない人間から見れば宗教だとしか処理されない。
日本は多神教だぜ。
熱狂を演出する者が
安藤が街頭演説をする犬養に対して、腹話術を試みる様子が魔王の最後で描かれます。
安藤は犬養に「わたしを信じるな!」と言わせようとするのですが、これを実際に熱狂的な支持を受けるカリスマが発言した場合、どうなるのでしょうか。
もしヒトラー氏が「わたしの話すことを信じるな!鵜呑みにするな!自身の頭で考えろ!」と発言したなら、聴衆はどういった反応を示すのでしょうか。
ヒトラー氏のジョークだと受け流すのか、ちゃんと自分で考える習慣を教示する懐の広さを感じ入ってさらに心酔するのか、実際に自身で考える様になって、多くの事象や人物を精査観察するようになるのか。
わたしは実際にそういったことが起きたか否かを存じないので、わかりません。
世の常かと存じますが、人は自分の手の内は明かしません。
手の内を明かすと商売上がったりになりかねないからです。
マジシャンの方が「このマジックはこれがこうなっているのですよ」とタネを見せて「からくりが分かった上でこれからは樂しんでくださいね」とでも言ったら次からの興行は大赤字でしょう。謎は謎のままだから樂しみが持続する。
わたしはなるべく思ったことや大事だと思ったこと、どうしてそう思ったのか、どうしてそれが良いのか良くないのか、を発信しようとは思っていますが、所詮は表層で自覺している程度の意識です。
「これを明かしたら駄目だ」というラインは脳が自動で設定していて、そのラインすら自覺していない可能性は高いです。
自分だけの秘密にして悦に入っているのって、結局それは自己満足で、氣分が良いのは自分だけでしょう?
「群衆」は「大衆」、「群衆」というより「大衆」
魔王に出てくるドゥーチェというバーのマスターは「得てして人は、自分の得た物を、自分だけが得た物と思い込むというわけですよ」と安藤に話します。
これは安藤の能力について言及しているのだろうな、と思っていたのですが、もしかしたら「こんなことを言ったら変人だと思われて敬遠されるかもしれない」と思ってずっと言わなかったが、実は同じことを他者も思っていた、と言うことなのかもな。
「自分だけだろう」と思っていたが、同じことを考え思っている人が居た。それも大勢。それによって仲間意識という連帯が生まれ、群衆と化す。
「群衆」というより「大衆」と形容した方が正しいのでないかとも思う。
恐ろしいのが、自分も群衆だということをいつのまにか忘れていることです。
一方の群衆を見ている内は、自分もまた別の群衆に属していて、ちょっとした、"ほとんどつまらないきっかけ"でまた別の群衆に取り込まれる可能性がある。
だから、分かりやすい区切りとして『群衆』という言葉を使っているが、その本質は『大衆』と相違がない。
ル・ボン氏が言及している「保守的」というのは、「保守的な信条や思想も持っている」ということではなくて、『自身の信条や思想"を"強固にして守ろうとすること』を言っているのではないだろうか、と思いました。
人は安定を好みますからね。
脳は、意識していない間に自己を狭い意識の中に置こうとします。
「これに執着しているな」と氣付いたらさっさと手放すが吉だと感じます。
「自分の頭で考えている」と思っていて、なおかつ「自分の頭で考えているその考えも他者からの受け売りで、それを自分が考え出したものだと思い込んでいる可能性が高い」とちゃんと分かっている方とお話がしたい。
でもわたし協調性ないからだめだわ。
でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば、そうすりゃ、世界が変わる
ありがとうございました( ¨̮ )
消灯ですよ。