本日もご訪問ありがとうございます。
『きれいは汚い。汚いはきれい』という一節をご存知でしょうか。
マクベスの物語冒頭で三人の魔女が口にする台詞です。
きれいはきたない、きたないはきれい
わたしはマクベス未読未視聴ですが、伊坂幸太郎さんの『あるキング』である程度知りました。
『あるキング』は『マクベス』が下敷きにされた作品です。
『あるキング』でも『マクベス』と同じように三人の魔女が登場し「きれいは汚い、汚いはきれい」と口にします。
この、『きれいは汚い、汚いはきれい』という言葉は、今まで「一方から見ればきれいでも、他方から見れば汚く見える」ということだと思っていました。
実際にその側面もあるのでしょう。
しかし、昨日精神科医の名越康文さんの動画を見ている時に思ったことがあります。
その動画では、『お台所で食器を洗った時の洗剤の泡が溢れて床まで垂れている様子』が描写されていました。
その描写を見て「きたない」と名越さんは形容していたのですが、その時に思ったことがあります。
「おや?」
「洗剤はきれいにするものなのに、床に落ちたら"汚い"になるのか」
容器や場所
単純に「油汚れなどが泡の中に含まれているから汚い」ということでもあるのでしょうが、わたしが氣になったのは『場所』です。
おそらく、未使用の洗剤が床に溢れた時に人は「汚れた」と思うでしょう。
しかし、洗剤は未使用です。洗剤自体に汚れが含まれているわけではない。
なのに、洗剤が床に溢れたら我々は「汚い」と思う。
不思議ですね。非常に興味深くて面白いです。
つまり「汚いか・きれいか」を判断しているのは、それ自体というよりもそれが『どこにあるか』だということです。
きれいにする洗剤が川へ流れると、環境汚染という『汚いもの』へと変わる。
変わるというよりも、本来は両方の側面を持っているだけで、『適切な場所にいるかどうか』ということなのでしょう。
ごはんがお茶碗に盛られていれば「きれいなもの」だけど、服の袖口についていたら途端に「汚いもの」へと変わる。
糞尿という「汚い(とされている)もの」も、『肥え』にして肥料と使えば「きれいなもの」へ変わって、美味しい作物を作るための糧になります。
「もともとがきれいなもの」か、「きれいにするもの」なのかでも変わってくるし、時間が経過することで「汚いもの」へ変化することもあるのだとも思います。
きれいもきたない、きたないもきれい
つまり何が言いたいかというと、「きれいはきたない、きたないはきれい」というのもあるし、「きれいもきたない、きたないもきれい」ということです。
いい加減に『それはどっちか、どちらかで固定』みたいな時代遅れな価値観は是正されねえかなと思いますね。
世界は多面体ですもの。
なので、『犯罪者は問答無用で悪い』みたいな価値観はもう終わりにしましょう。
罪を憎んで人を憎まずの意識は大事で重要です。今の世はそれを忘れている人が多い。
忘れるなよ。
犯罪を犯したその人にも、その人の人生があって、その人生が原因となっている『側面』もあるということです。忘れんなよ。
「犯罪を犯した側面」はその人が悪いけど、「犯罪を犯すきっかけになった半生」はその人は悪くない。半分は悪くて半分は悪くない。
何回言えばいいんだよこれ。
ありがとうございました \(´-`)/