頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

常に綱渡りをしている状態

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

前回はバランスのお話を書いたのですが、脱線しました。

書きたいことではあったけど、本来書きたいことではなかったのです。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

というわけで、今回はバランスの記事で言いたかったことの本懐です。

 

 

 

派閥意識は枷

以前から「物事は多方から見ないと本質はわからない」と言っていますが、そのスタンスを常に心がけることが、バランスの記事で言いたかったことです。

 

 

高校生の時分に、クラス内に大きく見て二つの派閥がありました。

別にその二つがバチバチに対立していたわけではなく、交流はあったのですが、なんとなく派閥はあるなという程度。

 

わたしはその派閥のどちらにも深入りせずに距離を取って接していたのですが、その時に当時一番仲の良かった友人にあることを言われました。

「結局あんたはどっち派なん」

 

これを聞いた時にわたしが感じたのは???????という感情です。

なぜ派閥に所属しないといけないのだ?

派閥に所属すればその派閥特有の枷によって自由が奪われかねないではないか。

 

派閥や派閥意識って、特有の氣持ち悪さを感じるんですよね。

その派閥を必死に保存しようとする無意識とかが。

仲間意識とも言えますね。

 

派閥内の人間が悪くとも、派閥の人間だから庇わないといけない同調圧力

派閥外の人間だから排他的にせねばならんと言ったような言論統制

わたしにとっては、派閥意識というのは、檻とか枷と同じものにしか思えないのです。

 

まこと、氣持ちの悪い。

 

 

昔から派閥争いは苦手で、かつ大嫌いです。

社内政治なんかも、勝手にやってくれしかし巻き込まないでくれその醜い思考を押し付けて侵さないでくれ、と思います。

全く醜い。

 

その場限りのかりそめで溜飲を下げてないで自由に生きろよ。

 

 

もたれることは信仰への第一歩

この派閥に所属するというのは、「どちらかにもたれる」ということだと思うんですよね。

つまり、それはバランスを崩している。

 

この「もたれる」ということがなぜマズいかというと、先述の通り『個人の自由が制限される』という理由もあるのですが、「もたれた結果、信仰となってしまいかねない」と感じるからです。

つまり、信じて、もたれ、頼るということは宗教化への第一段階ということ。

 

特定のものを信じていた場合に、その信じる存在が道徳に反する行動をしなさいと命じた時、「それは流石にちょっとどうなの」と思う人と「この人がいうならば正しいのだろう」と思う人と、割合はどちらが多いでしょうか?

それの実情は、それぞれがその状況にならねばわかりません。

 

言わずもがなですが、後者の方が宗教性は高いです。

 

そして、その所属意識を強く持つ方の方が群衆化しやすいと感じます。

 

 

右だ左だ白だ黒だ黄色だアカだつって特定の所属をすれば『仲間』が周りにいるので居心地はいいのかもしれませんが、その『仲間』の目を氣にして言いたいことを言えなくなることもあります。相互監視ですね。

まぁコミュニティを維持していくにおいて、新たなリスクを減らすために"異端"を排除しようとするのは当然とも言えるとは思います。

 

ですが、もしそれが『人間社会というもの』なのだとすれば、わたしは所属などせずに一人で一生を過ごした方が何百倍もマシです。強制されたならば死んだ方がマシ。

 

 

平均台で綱渡り、それが一番の自分軸

わたしは常に平均台の上に乗っていたり、綱渡りをしているような精神スタンスで生きていたい。

 

平均台に乗っている状況で片方へ重心が傾くと、平均台から落ちてしまうからです。

平均台から落ちないためには、どちらにも傾かず、重心を真ん中にして低く構えるのが大事。

それがバランスの記事で言いたかったことです。

 

過剰と感じる方もいらっしゃるでしょうが、わたしには一方へもたれるということは堕ちることと同義と感じます。

 

 

しなやかで柔軟な考え方で居たいと常々思っているのですが、この平均台の思考はしなやかな考え方を養うのに効果的なのではないかと感じます。

別の観点から見れば、わたしの思考は全く柔軟ではないんだろうなとも思います\(´-`)/

 

 

ま、自分が今必要だと思うものを取り入れりゃあいいんだよ。

他人から「やってる意味のないこと」だとか言われようとね。

 

 

ありがとうございました\(´-`)/