頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

多様性

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

先日お散歩していました。

今回のお話と全く関係ないですが、植えられた樹なんてなんも自然じゃねえよな。

 

 

 

街路樹とか見て「あらー多様性」とか思っていました。

生っつーのは多様性ですからね。

youtu.be

 

しかし、その時に、ふと思いました。

「多様性とかいうけど、それが普通で自然じゃねえ?」

 

 

わたし思うのですが、『多様性』って言葉にみなさん縛られていません?

 

言い方を変えると『単一的に多様性を見ていませんか?』ということですね。

 

多様性に縛られすぎて、多様的な考え方ができなくなっていませんか?ということです。

 

「多様性」という言葉があるのは何故なのか。

それは『単一的視線が幅を利かせているから』に他ならないのではないでしょうか?

別な言い方をすれば単純化された思考が強くなり、それに支配されている。

 

だから、多様性という言葉も一側面だけを見て、理解しようとしている。

言葉も多面体なのは当然のことですが、その一面しか見ようとしていなければ、全体像なんて見えるわけがありませんよね。当然です。

 

『多様性』を真に身と心にいれたら、『多様性』などという言葉は意識の外へ行くのだと思います。

 

多様性があるのが『当然』かつ『自然』だから。

 

「自由という考え方がある内は真の自由とは言えない」というのと似ていますね。

 

 

多様性に縛られている限り、真の多様性(自然)を身に付けることはできないでしょう。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )