本日もご訪問ありがとうございます。
先日お散歩していました。
今回のお話と全く関係ないですが、植えられた樹なんてなんも自然じゃねえよな。
街路樹とか見て「あらー多様性」とか思っていました。
生っつーのは多様性ですからね。
しかし、その時に、ふと思いました。
「多様性とかいうけど、それが普通で自然じゃねえ?」
わたし思うのですが、『多様性』って言葉にみなさん縛られていません?
言い方を変えると『単一的に多様性を見ていませんか?』ということですね。
多様性に縛られすぎて、多様的な考え方ができなくなっていませんか?ということです。
「多様性」という言葉があるのは何故なのか。
それは『単一的視線が幅を利かせているから』に他ならないのではないでしょうか?
別な言い方をすれば単純化された思考が強くなり、それに支配されている。
だから、多様性という言葉も一側面だけを見て、理解しようとしている。
言葉も多面体なのは当然のことですが、その一面しか見ようとしていなければ、全体像なんて見えるわけがありませんよね。当然です。
『多様性』を真に身と心にいれたら、『多様性』などという言葉は意識の外へ行くのだと思います。
多様性があるのが『当然』かつ『自然』だから。
「自由という考え方がある内は真の自由とは言えない」というのと似ていますね。
多様性に縛られている限り、真の多様性(自然)を身に付けることはできないでしょう。
ありがとうございました( ¨̮ )