本日もご訪問ありがとうございます。
わたしが本なんかを読むときには、基本的に『自分がこの本を読みたいかどうか』を鑑みて読むかどうかを決めるのですが、たまに『この本を読んでいる自分』という視点が発生します。
「夏目漱石さんの『こころ』を読んでいる自分」といったような感じ。
- 他者からどう見えるのだろうか?
- 名作や難しい哲学書を読んでいるということで、他者を牽制できるのではないか?
そういった感覺や考えが知らん間に脳裏に浮かんでいたりするのですが、そんな時に、はたと脳にある思いが現れます。
『お前は誰の生を生きているんだ?』
高尚・低級などを決めるのは、自分でもありますがそれと同時に他者でもあります。
特に『この作品を読んでいる自分』という自意識は、「"他者から見た自分"を基にした考えが強い意識」だと思われます。
はたして、それは自分自身の生を生きていると言えるのだろうか?
他者からの視線を感じながら、その視線に縛られて送る生活・人生というのは、はたして「自分の人生」と本当にいえるのでしょうか?
そんな人生クソじゃねえかな?
わたしはそう思うので、『他者から見た自分』という基準で行動を決めようとしていると氣付いたら、すぐさま『本当はどうしたいのさ、自分』と内省して再度決定をします。
誰かに監視される人生なんて、クソだね。全く。
あくまでわたし個人の見解と意見( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )