頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

自負こそが厄介

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

 

自負というものの厄介さ

人には自負という感情があります。

端的に説明すると、この自負というものは『自分の能力に自信を持ち、誇りを感じること』です。

この説明は意図的に良いように書きました。

『自負』という感情を肯定的に捉えたということですね。

 

ですが、わたしはこの自負というものは場合によっては非常に危険で厄介な感情になり得るのではないかと考えています。

 

 

自負という化け物

どうして『自負は危険で厄介な感情』と思うのかというと、それ(自負という感情)があることにより自分の考え方に固執し「"自分の意見こそが正しい"と思い込んでしまう」という危険性が発生するのではないかと思っているためです。

 

もちろん、「自分が考えているこの考えは正しいはずだ」と思うことや、自己の肯定はとても大事で重要なのですが、その思いと同時に「はたして本当に正しいのだろうか?」という視点を持って考えたことを見ることも、同じくらい、あるいは自負を持つ以上に必要になると思うのです。

 

 

人間という生物は『これはこうなのではないか』と思ったら、その考えを肯定すること(事象)を自然と、無意識のうちに探す特性があると思っています。

 

自分がそうであったためです。

といって、他者の全員に適応されるとは思いません。

ですが、そういった無意識の心理行動は皆様にあるのではないかと思っています。

 

これを『確証バイアス』なんて言ったりするそうですね。

 

 

種の成長

2021年10月31日に起きた京王線での事件や、その他の猟奇的事件も、事件を起こした犯人の『自負が肥大した結果に』起こされたことだと考えています。

 

もし動機が『社会への不満』や『今現在運用されている社会システムへの抗議』というものであった場合、日々の生活で生まれた〈動機の種〉が自負の栄養を得て『犯行理由』へと成長しているような氣がしています。実際に事件が引き起こされることで収穫と相成るわけです。

 

わたしは件の事件で下手人となった当事者様ではないので、実際の思考プロセスは伺い知る部分ではありませんが、『確証バイアス』だけで思考した結果に「個人の意見」が〈揺るがない事実〉へと変化成長した、という側面と可能性は大いにあると感じます。

 

これは以前書いた『個人の意見が社会の総意だと思ってしまう』というのと似ていると思います。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

やはり『自負』というものは一長一短、諸刃の剣的な意味合いがある。

 

結局はその〈自負という意識〉を誰が使うかというところになってしまうようにも思うのですけれどね。

 

 

『今自分がこんな悲惨な現実を生きているのは〇〇のせいだ』と考えついた際に、「一側面からすればそうだ。だが、その現実に身を寄せたのは自分でもある」と"考えられるかどうか"が分かれ目なのだろうか?

 

しかし、この考え方って前回に書いた『自己責任理論・自業自得理論』でもあるんだよな。

floodinhead.hatenablog.com

 

ジレンマである。

重要なのは、『自分自身が自業自得であると思うか』と『他者から「それは自業自得でしょ」と言われるか』なので、明確に違う部分なのですが、どうにもジレンマを感じてしまいます。

 

「他人に迷惑をかけない程度に自負を持ちましょう」なんて言えたら手っ取り早いのだけど、それは無責任がすぎるし、世の自負を持っている方は『自分の自負が他者へ迷惑をかけている』なんて思いもしないのでしょうし。偏見ですけれどね。

 

あと「わたしのこの正しい知見から得た意見(自負入り)が"迷惑になる"なんて、そんな"迷惑な言いがかり"はやめてくれないか」と思われる可能性すらある。偏見です。

 

 

うーん。悩ましい。

 

 

その思考方向は違うにしても、「今の自分は"自分の仮説を肯定するため"に、"肯定的な側面だけを見ようと"していないか?」という『意識の感覺』を忘れないように、ことあるごとに自覺するのは大事な心持ちだと感じます。

 

 

 

自負由来のお話は総じてしょうもない。

あと、以前にこちらでも言及しましたが『自負由来の得意げな主張は総じてしょうもない』という問題もあります。

floodinhead.hatenablog.com

 

話している本人からすれば、話していることは『稀代の大発見』だと思えたようなことも、話を聞く側からすると「それはもう知っていたよ」と思われるなんてことはざらにあります。

 

わたしが聞く側の場合はそれが多かったです。

ですが、わたしの少ない対人サンプル数で言うのもちょっとどうなのかしら、という感じですし、わたしがそう思ったということは、わたしが得意げに話したことも聞いた相手からすれば「知っていたよ」と思われている可能性があるということです。

このブログも、もちろんそう思われている可能性があります。むしろ、大いにあると言った方が良いでしょう。

 

あぁ、恐ろしい。

 

んだもんで、自負なんてものはあんまり持たない方がいいんです。

 

 

バランスボールの上に置いた平均台の上で片足立ちする意識

やはりバランス感覺というものは非常に大事になってくる。特に〈意識のバランス感覺〉です。このバランス感覺というのは、「冷静さ」と形容することもできるでしょう。

わたしもこのバランス感覺を失わずに思考したいと思います。バランス感覺を失うのはとっても容易ですし、それゆえに危険ですからね。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

 

『自負というのは持つと非常に厄介』というような内容だったわけですが、"自負の塊"とでも言えそうなこのブログで言うのも、ねぇ…。

 

でも最近『自分が自負をたっぷり入れた意見を発信していた』ということを忘れていたので、非常にありがたいタイミングで思い出すことができた。危ないところだった。ありがとう意識。

 

 

『実るほど頭を垂れる稲穂かな』の意識を常に心がけて生きていくのが一番の得策かもしれませんね。

 

ありがとうございました( ¨̮ )