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わたしは伊坂幸太郎さんの作品群が好きです。
数ヶ月前に文庫化された『フーガはユーガ』を最近読みました。
これは双子が主人公の作品で、作中で二人は父親から虐待をされます。
虐待。
親や保護者が自身の子に対して行う折檻のことです。
- DVと言われる様な暴力を用いた『身体的虐待』
- 性暴力行ったり性行為を見せたり強要する『性的虐待』
- 言葉による支配やきょうだい間での差別的な扱いをして、その子自身の存在意義を削ごうとする『精神的虐待』
- 保護者が保護者の役割を放棄する『ネグレクト』
と、大きく分けて四種類の虐待があります。
虐待。
加害者の保護者は、被害者である子どもが市の職員や児童相談所の職員に保護されそうになると、必死に反抗するそうです。
おそらくは『自分の所有物を取られる』と思うからなのではないか、と考えています。
幼児がおもちゃを取り上げられて泣いている状況と同じということですね。
子どものことを『所有物』や『おもちゃ』と思っている時点でダメなのですが、実際のところ『子どものことを所有物だと思っている保護者』自体は多いと思います。自覺はしていないでしょう。偏見です。
以下はわたしの妄想かつ偏見ですので、話半分に読んでください。
『子を所有物だと思っている』のはなぜなのでしょうか。
それは保護者が「自分自身の存在価値を確立できていないから」なのではないか、そう考えています。
『自分の価値』を確立できていないから、他者を支配することで「自分は他者を支配している。ということは自分には価値があるのだ」と思い込もうとしているのではないか、と思うのです。
しかしこの仮説は身体的虐待や性的虐待をしている人にのみ適応されるようにも考えられます。
それはそうとして。
『自分自身の価値を確立できていないから、他者を支配して、自分には価値があると思おうとする』
これは虐待とか関係なく、學校で引き起こされる『いじめ』と形容される行為などを行う加害者においても適応されると思われます。
もしそれが本当ならば、"主導権を持っているのはどちらなのか"という疑問が浮かんできます。
おそらくは『他者を支配したいと思っている側(虐待をする親や、いじめっこと呼ばれる子ども達)』としては「そんなものこっち(加害者)が持っているに決まっているだろう」と主張するでしょう。
しかし、果たしてそうなのでしょうか?
加害者側が「他者を支配していないと自己の存在価値を確立できない」ということならば、『虐待を被る子ども(被害者となってくれる存在)がいなければ、虐待保護者(加害者)は自己の存在価値を確立できない』ということになります。
支配する相手がいなければ、自分は不能だと思ってしまう。
そんな状態であるとしたら、主導権を握っているのはどちらなのでしょう?
『虐待をさせてもらえる子どもがいるから、存在価値を実感できる』のならば、主導権は虐待を施行する保護者(加害者)側には無く、虐待を甘んじて受け入れる子(被害者)の側にある、ということになるのではないでしょうか?
この力関係?とか構図はSMと似ているように思えますね。
全部妄想ですので話半分に消化してください( ¨̮ )
でる〜〜〜〜じょん。
ありがとうございました( ¨̮ )