頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

現実から生まれたフィクションは現実をはるかに超えたリアリティを内在している

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

以前ちょろっと「精神科医名越康文さんのYouTubeチャンネルが好き」と書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

先日、その名越さんが行ったYouTube LIVEを見ていたのですが、その時に名越さんが話していたことがあります。

 

『フィクションとは実は現実なのである』

 

 

視聴者から寄せられた質問・相談に対して名越さんが返答するという形式だったのですが、その相談の中にこういったものがありました。

「いじめが原因で子どもを失いました。我が子は死んだのに、加害者がのうのうと生きているのが許せません。この氣持ちと折り合いをつけて生きるためににはどうすればいいのでしょうか」というものです。

 

その質問に対し、名越さんは「一番良いのは似た経験をした人と接したり話すことです。傷の舐め合いにならないように氣をつけながらね」と返答されており、続けて「とはいっても同じ経験をした人とはなかなか出会えないと思います。そんな場合は人形浄瑠璃や文樂などに触れてみてください」と提案していました。

 

その昔は、『いくらこちらが正しくても、相手が武士や貴族であればこちらが罪人になる時代』でした。

そのため、どうしても、どんなに納得がいかなくても飲み込まないといけなかった。

その発露が『フィクションに込めること』だと説明されていました。

 

そんな"無念"が込められたものが人形浄瑠璃である、とのことでした。

 

 

現実に「誰それが悪い」と触れて回ると恨みを買ったり粛清を受けたりするから、フィクションに込める。それによって自分の氣持ちを鎮めていた、と話します。

 

現代でもそうですよね。

「こんな辛いこと悲しいことがあった」と主張しても、「みんなそうだ」とか「大袈裟じゃないのか」と言われて終わりですからね。そんな状況が待っているなら話そうと思うはずがありません。

そういった受けた傷を癒すために、文藝に認めたり、フィクション化したり、藝術へ昇華させたりするわけです。

 

それと同時に、それから生まれた作品を第三者が読んで、また自己を癒すわけです。

 

 

この『フィクションとは現実である』というのは、大ヒットした『鬼滅の刃』でも顕著です。

『那田蜘蛛山編』で家族をしていた鬼はDVに喘いでいました。

現実や他者と交流する場では現状を言うことは決してできず、苦しんでいた人はあのシーンを読んで「自分だけじゃない」と思って少なくとも少しは氣持ちが樂になった部分はあるのではないかと思います。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

『朝が来る』でも、『14歳で妊娠し、以降暗い時間を過ごすことになる少女』が登場しますが、その少女が経験していることも『現実に起きていること』であるわけです。

わたしたちが目にしていないだけで、確実に存在しているわけです。

floodinhead.hatenablog.com

 

『現実よりも、フィクションの方が"現実"を表している』ということは、以前に書いたこういったこともやはりまた現実なのではないのか、と思う次第です。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

と、偉そうに話していますが、名越さんが話していることを見聞きするまでぼんやりとした霞でしか認識していなかったので、ピントを合って良かったです。誠にありがとうございます。

 

 

我慢を強いられるのは辛いよな。

 

 

ありがとうございました。