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年末、実家へ帰省する時に海を通りました。
海は好きです。
美しいから好きです。
どうして美しいと感じるかというと、生と死が混在していると感じる為です。
海は、海中で死んだ生物が朽ちる動きと、その死が新しい生を生み出す動きを同時に行っています。
生と死のサイクルが同時に起こっているということですね。
『生と死のサイクルが同時に起こっている』ということですが、それは海だけではなく山もそうですし、人体も同じです。
体表面では古い肌が剥がれて落ち、また新しい皮膚が生成されます。
食べることは『死を取り込むこと』ですが、その死を吸収して生を繋げてます。
死が生に変換しているということですね。『流動』と言い換えることもできます。
ということは、『生は流動すること』で『死は停止して動かないこと』なのでしょうか?
そう仮定して考えると、以前『人が住まなくなった家は朽ちるのが早い』と書きましたが、それにも説明がつきます。
人が住まなくなると、対流が起こらないために空氣がひとところに留まり、かびが発生したりして朽ちるのが早い、というわけですが、これは"停止している"ということではないでしょうか?
空氣が停止しているから、朽ちる(死を迎える)ということです。
『不老不死は死んでいるのと同じ』というのは何度となくわたしが主張していることですが、それは生の流動、つまり老いというサイクルが起きていないからです。
しかし、朽木は死んだ木ですが、その木がきのこを生んだりしています。
ということは朽木は生きていることでしょうか?
生物も、死んだら生のサイクルは止まりますが、死んで数時間?は生体活動をしていると聞きます。
また、『朽ちる』というサイクルを行います。
これはどういうことなのでしょうか?
『自分の生を流動する』のとは違って、『他者の生を回す(流動させる)こと』になるので、これは違うということでしょうか。
生は流動し、サイクルすることであり、生をサイクルし老いていく。
しかし、死んでも、サイクルが止まわけではなく、また別のサイクルが動き出します。
そこにどういった真意が込められているのか、まだまだわたしにはわからない部分です。
まぁ自然から外れないようにしていたらいいかな。
ありがとうございました( ¨̮ )