頭の中の洪水

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鬼滅の刃 遊郭編 第九話『上弦の鬼を倒したら』感想・考察

 

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今回は「鬼滅の刃 遊郭編」の第九話『上弦の鬼を倒したら』の感想・考察です。

 

👇 第八話の感想👇

floodinhead.hatenablog.com

 

 

生き残ったものの責任

雛鶴さんが満開の桜を見て『綺麗』と言います。

こういった感情を動かすことは、生きていないとできないことです。

 

宇髄さんは一族でも運良く生き残った一人です。

その、運良くか、運悪くか、生き残った人間に課せられた責任は『先に死んだもの達の意志を継ぐこと』でもあると感じます。

宇髄さんが「悪いが、まだ俺は死ねてねえ」という台詞からもそれが垣間見えることと存じます。

 

ですので、生きているものの、生き残ってしまったものの責任というのは、色々なものを見、感情を動かすこと。

そういったことを描いているのではないかと感じました。

 

これは樂しみも、愉しみも、悲しみも、怒りもです。

月の光を見てもの思うことも、日中、太陽のもとで風景を愛でるのも。

 

 

刀の持ち方

ちょっと氣になったことがあります。

それは炭治郎・善逸・伊之助それぞれの刀の持ち方です。

 

炭治郎は一本の刀を両手持ち、善逸は常に居合の構え(片手持ち)、伊之助は二刀流です。

 

普通に考えれば炭治郎の持ち方が一番体力消費が少ないはずです。重さが分散されるはずですからね。

 

善逸は刀一本持ちとはいえ、もう一方の手は常に鞘に置かれていて、刀を一振りするごとに鞘に納めます。

 

伊之助は二刀流で、両手に別々の刀を持っています。三人の中で一番消費体力が多いはずです。

 

この三者三様な刀の持ち方というのは、なにか関係があるのかしら?

 

 

 

伊之助の言い間違い

伊之助が『炭治郎』とちゃんと認識するシーンがあります。

これは心の声としての表現でしたが、興味深かったです。

 

伊之助は炭治郎や善逸を言い間違えることが半ばトレードマークみたいになっていますが、それはやはり威圧や牽制だったのでしょう。

伊之助は常に勝氣で純粋なひねくれを持った人物に描かれています。

 

幼稚というわけではなく、伊之助は『まだ幼い子どもが得意げに自慢する』というようなメンタリティを持っている人物だとわたしは考えています。

 

そんな伊之助が『ぼくは君のことなんて大したように思っていないよ』という牽制で、『意図的に名前を呼び間違えていたんだな』と思います。

単純に『名前をそのまま呼ぶのが小っ恥ずかしい』という可能性もあります。

つまり、将来的に伊之助が『意図的な名前間違い』をせずに名前を呼ぶようになることで、成長を表現するのかな?と思いました。

 

ですが、今回の最後で伊之助は胸を鬼に突かれます。

心臓だからあれ死ぬんじゃないの…?

刺されたのが背骨の際あたりにも見えるから、実は大丈夫でした🙌 ってなるのかしら?

 

もし伊之助が死ぬんだとしたら、最終選別で生き残った不死川の子がパーティー入りするんでしょうか?

ありえなくはないけど、伊之助が死ぬのは嫌だなあ…。

 

 

『三人寄れば文殊の知恵』を用いて堕姫ちゃんを撃ったわけですが、撃った伊之助がとてもかっこよく見えるように演出されていたし、まじで最後の錦としてってことになるんじゃないのか…。。

スリードであることを祈ります。

 

 

表面しか見ることができないルッキズム

堕姫ちゃんが伊之助に首を斬られます。

散々っぱら炭治郎らを『ブサイク』と形容していたルッキズム信仰の堕姫ちゃんですが、その伊之助は実は相当な美男子です。

その美男子に『首を斬られる』というのは非常に皮肉的だなと思いました。

 

これは『結局のところ、ルッキズムなど所詮は表面しか見ることができない』ということでしょう。わたしはそう思いました。

 

『猪頭を見て侮っていた』=『表面しか見ていなかった・見ることができなかった』ということです。

この表面というのは『財力』や『権力』と言い換えることもできますね( ¨̮ )

まぁ所詮はうわべだけしか理解できないということです。

 

 

神樂

以下はこれまででも一番酔狂な推論です

 

 

炭治郎は『ひのかみかぐら』という技を使います。

『かぐら』は『神蔵(かむくら)』を語源として転じてできた言葉、らしいです。

 

お神樂は〈神蔵に神を降ろして交流する宴の場での舞踊〉ということみたいですね。

岩戸隠れをした天照を外に出すためにアメノウズメが踊った出来事が起源になっているらしいです。

 

 

この『かぐら』は〈神樂〉と書きます。

『神を樂しませる』ということです。

 

これらから考えたのですが、『ひのかみかぐら』は〈神と繋がる行為〉で、〈神に近づく行為〉

神に近づく行為だから、呼吸を止めて行動する、ということなのではないか?と思いました。

『死者を仏さんと表現する』のは日本の文化ですが、『死に近づくことで神にも近づく』という考え方です。

 

鱗滝さんの山で修行した際に、真菰と錆兎という『鱗滝さんのもとで昔修行していた者』から炭治郎は修行を受けます。

この二人はもう死者であったわけですが、この二人は狐のお面をつけています。

 

お面というのは、元来〈神から身を守る役割〉もあります。

お神樂などの踊りは『神を樂しませるため』にするものなのですが、その踊りが素晴らしくて神に氣に入られると、"連れていかれる"といった事象も引き起こされかねないそうです。

逆に氣に入られなくても神が怒ってその人間を持っていく場合もあるそうです。修行?

 

ですので、どっちにしてもお神樂を踊る人、その人を『守るために』お面を着けるそうです。

炭治郎のお父ちゃんがお神樂を踊る際にも、お面を着けていたでしょう?

 

そういった神に近づく行為が〈ひのかみかぐら〉なのかしら?と感じた次第です。

 

 

でも炭治郎自身が慈悲慈愛深い神様みたいな人物だから、完全な神になる行為としての〈ひのかみかぐら〉なのかも?

わからないけど( ¨̮ )

 

 

👇 第十話の感想👇

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ありがとうございました( `◟ 、)