頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

逆だった

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

世界で最も売れた本は聖書ですが『聖書を作るために、森林伐採が起きて自然破壊が引き起こされた』という視点があります。

この視点はおそらく、キリスト教徒の方からはなかなか生まれないのではないかと思います。

ですので、この視点(皮肉?)は他の宗教から出てきた指摘なのではないでしょうか。

 

 

さて、このように宗教というのは『見えるはずのものが見えなくなる』、『見なければいけないものを、無意識で見ないようにする』という効果を持っていると思っています。

 

この『マインドセット』を施すことで、宗教はより宗教然とし、体系化し、民の求心性を強くすると考えています。

つまりは、『思考をセッティングすることで、管理を容易にする』ということです。

この『思考セッティング(マインドセット)』は言い換えると〈洗脳〉と言えるでしょう。

〈染脳〉でもあります。

 

 

わたしは『宗教での洗脳が管理への第一歩』だと思っていたのですが、それ以前に『「言語を得るということ」こそが管理の第一歩なのではないか』と思いました。

 

つまり『"宗教が先"だと思っていたけど、"言語が先"ということ』です。

よくよく考えてみれば、特定の宗教を発展前の國に持ち込んでも、言語が通じなければ舶来の宗教感覺を教え植え付けることは到底できませんからね。

 

これは恐ろしいですよ。

 

 

この『言語が初めにあってこそ』というのは、「各種アプリケーションソフトが機能するのは、ハードがあってこそ」という事実や、「食物を焼いたり、煮たり、茹でたりと調理する方法は多様にあるが、それらは全て火がないと実行できない」というのと同じだと感じます。

つまり、フォーマットを利用する側は、フォーマットに依存せざるをえないということです。

 

もうちょっと俗に例えるならば、「お金があればなんでも買えるが、お金がないとなんにもできない」ですね。

『お金』という〈フォーマット〉がありきとして、世の中が構成されている。

 

 

また『言語が初めにあってこそ』というのは、新約聖書内のある一節にも通じます。

初めに言葉があった。

言葉は神と共にあった。

言葉は神であった。

この言葉は、初めに神と共にあった。

万物は言葉によって成った。

成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。

 

ヨハネによる福音書』より

 

これは『言葉によって万物が創造された』というような意味合いですが、「言葉は神であった」というのは、上記したように『言葉こそが最初の〈フォーマット〉で、言語自体が宗教である』ということに他ならないのではないでしょうか?

 

 

ということは、人間は言語を使っているのではなく『言語に使われている』という解釈もできるわけだ。

この構図は、イネ科が人間を支配している構図と似ているように思えますね。

〈ヒト〉は、自由に使えるものは「自分が支配していると思い込む生き物」ですからね( ¨̮ )

 

 

言語というのは、人の脳の使い方を決めます。

ということは、特定の言語を第一言語として、または主要の言語にすることによって、管理を容易にできるということですね。

 

恐ろしいですよ。

 

いつかに見た『洗脳の一歩目は、まず最初に主要の言語を書き換えること』という意見が、にわかに真実味を帯びてきているわけだ。

 

これはね、恐ろしいですよ。

 

 

「じゃあ、誰がその〈言語というフォーマット〉を作ったのだ」という疑問が浮かびますが、これに関しては凡人であるわたしには知る由もありません。

なにか絶対的な存在(それこそ神と呼ばれるものかもしれないし)から与えられたものなのかもしれないし、祖先らが自ら一から作ったのかもしれない。祖先らが自ら作るようにと設定されていたのかもしれない。

そんなことを考えたってどうしようもないのですね( ¨̮ )

 

確実なことは『わたしたちは言語に支配されている』という事実だけです。

この記事も言語に頼って表現されていることですし( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )