本日もご訪問ありがとうございます。
今回はお久しぶりな八十八ヶ所巡礼さんのアルバムレビュー回です( ¨̮ )
例によってわかった部分だけを自分なりに解説レビューしていきます( ¨̮ )
絶妙Σ
DBT!DBT!南無阿弥陀仏!DBT!DBT!絶妙!
渇愛の波掻き分けて 低俗な波動放つ我ら
仏滅の夜From流儀 観念なさいな
頭痛のある 汲々の日々 パニックとなる 人類の意地
しみったれた観念を引きずり廻し
情報に乗っかってる
時間が伸びたり縮んだり ふざけてる世界さ
時間がノウハウ握ったり 身勝手な時代さ
時間は何かと訊かれたら 時間は波だと答えるし
時計は何かと聞かれたら 時計は屑だと答えるさ
─────────
絶妙な意味が欲しい 俺らまだまだ苦しみたいらしい
─────────
じゃあどうしよう? 敵は血に潜んでる
なあそうだろう? 貴様らの中さ
頭痛のある 汲々の日々 パニックとなる 人類の意地
しみったれた観念を引きずり廻し
行き交う 怏々の神のシグマ
のろまな時は止む 我らの先は絶妙
DBT!DBT!南無阿弥陀仏!DBT!DBT!絶妙!
『南無阿弥陀仏』というのは、「わたしは仏様に従います」という意を表した言葉らしいです。
『絶妙』は「この上なく巧みで優れている様」ということみたいですね。
ということは「仏に全幅に従ったら、この上ない巧みな世に行ける!」という念仏的な意味合いでしょうか?
渇愛の波掻き分けて 低俗な波動放つ我ら
「低俗な波動放つ我ら」というのは、サビになって意味を持ってきます。
ぜひ氣に留めておいてください。
仏滅の夜From流儀 観念なさいな
ここで示されている「観念」の意味は『諦めな』という意味です。
これも後になったら意味を持ってきます( ¨̮ )
頭痛のある 汲々の日々 パニックとなる 人類の意地
『汲汲』という言葉は「一つのことにかかりきったり、小さなことにあくせくする様」という意味だそうです。
つまり、『小さなことに囚われてあくせくし、パニックになって頭痛がもたらされている』という意味かと思われます。
しみったれた観念を引きずり廻し
ここに書かれている「観念」は『物事についての考えや意識』という意味です。
「しみったれ」は『考えが狭いこと』という意味らしいですね。
ということは『狭量な意識にとらわれて、それを固〜くさも大事そうに握りしめ』という意味合いになります。
情報に乗っかってる
これもあとからちゃんと説明しますが、『実態のない虚構な情報に頼って、それに囚われているとも氣づかず囚われて』という意味です。
その情報ってなにかっていうと、時間とかね( ¨̮ )
時間が伸びたり縮んだり ふざけてる世界
時間が伸びたり縮んだり ふざけてる世界さ
きっとちんぷんかんぷんに感じられると思いますが、この世には時間というものはありません。
ヒトが時間という概念を作って、その他のヒトたちがその概念を信じているだけにすぎません。
聡明な貴様らの皆様ならばご理解いただけると存じます( ¨̮ )
ここで『時間が伸びたり縮んだり』と歌っていますが、貴様らの皆様方も「同じ5分でもやけに長く感じたことや、すぐに経ってびっくりした経験」があるのではないでしょうか?
これは、『時間というものが、絶対完全のものではなく相対のものだから』です。
ここらへんは『相対性理論』で詳しく説明されていますので、一度調べてみてください( ¨̮ )
簡単な話、『時間というものは存在しない相対的な概念で、あるのは時だけ』と思っていただければ問題ありません( ¨̮ )
時間がノウハウ握ったり 身勝手な時代さ
そんな時間という概念をヒトが作り出し、その概念がヒト支配した時代、24時間という区切りがノウハウを持って、ヒトを握っている時代。
時間は何かと訊かれたら 時間は波だと答えるし
ここで『時間は波』と言っています。
この波は『波動(なみ)』の意味合いでの波でしょう。
物理的な波は満ち引きしますし、その満ち引きは絶対的に「ここからここまで」と設定されていないランダムなものです。
ここでも『相対性』が登場します。
ちなみに、ここの『時間は波』というのは量子論も入ってくるでしょう。
そんな「時間というヒトが作った概念に囚われた状態の我ら」は『低級な波動放つ我ら』という意味だろうと感じます。
時計は何かと聞かれたら 時計は屑だと答えるさ
「『時間というもの』はヒトが作ったものであるから、その時間を管理し、〈時間という感覺〉を絶え間なく我らへ洗脳し続ける時計というものは、屑(ゴミ)だ」ということです。
面白いですね( ¨̮ )
「お金が伸びたり縮んだり」とも歌っていますが、これは『インフレとデフレのことを指していることと、土地・場所によって物価が変動すること』などなどでしょうし、この『お金』というものも、ヒトが作った概念です。
そういった「ヒトが作った概念」という『情報』に乗っかっている、という意味でもあるわけです。
絶妙な意味が欲しい 俺らまだまだ苦しみたいらしい
意味のない地球、というかヒトの生きる浮世ですが、そんな意味のない世界に〈絶妙な意味を付けること〉によって、それが『生きる意味』にもなります。
そんなアホをやると、その行動が理由になって苦しむことにもなるのですが、『生きる意味がほしい』と思うということは、『自分から苦を望んで、受け入れている』ということです。
やっぱり俺らはまだまだ苦しみたいらしい( ¨̮ )
じゃあどうしよう? 敵は血に潜んでる
なあそうだろう? 貴様らの中さ
これは『貴様らが常識で変えられないと思っていること自体が、貴様らを苦しめているんだよ。血として駆け巡っている価値観こそが敵で、敵は貴様ら自身が飼っている。だから、暴け。疑え』という意味じゃねえの?と思いました。
『Violet Purple Bible』で「感情は細胞の霊魂」と歌っていたことの延長だと感じます。
酔狂( ¨̮ )
頭痛のある 汲々の日々 パニックとなる 人類の意地
しみったれた観念を引きずり廻し
行き交う 怏々の神のシグマ
のろまな時は止む 我らの先は絶妙
怏怏という言葉は『不平不満のあるさま』という意味らしいです。
シグマはいまいちよくわからなかったのですが、ギリシャ語アルファベットで18番目の文字であるらしいのと、数學においての総和記号らしいです。
『観念』は「諦め」と「物事への考え方」という意味だと先に書きました。
そして、先に出た『しみったれた観念』は「視野の狭い観念」と訳しましたが、ここでの『しみったれた観念』は「諦め感情」の方だと感じます。
これぞ漢字の妙Σ
小さなことに囚われてパニックになり、頭痛になっている日々
ちっちゃくて狭量な意識と諦めに囚われて、それを固〜く大事そうに握り締め
不平不満を抱え抱えて行き交う神であるはずの我ら貴様ら
そんな我らの行き着く先は至上の世界
という解放と希望の曲だと感じました。
「どうしたって俺たちは救われる未来、幸せな結末しかないんだから」というような暖かさすらも感じました。
歌詞を読むとやっぱり感じなかった思いが浮かぶものですね( ¨̮ )
奇天烈レジャ〜
気分ばっかの心ないラヴ♡
─────────
狂楽
─────────
! 確かに変だ ! さすがに変だ
〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!
気分ばっかの心ないラヴ♡
これはわざわざ言及しなくてもいいものですが、まぁワンナイトラブとか金銭が絡んだ関係ということでしょう。
心のないインスタントな、物理的なだけの虚夢ちゃんな愛情なんてものは摂取するだけ空虚な穴の無い傷を増やして、傷口を広げますからね。
本当じゃない、心のない愛なんて触れても虚しいだけで、それの中に『自分を満たしてくれるものがある』と勘違いしても、渇望を繰り替えすだけ。
そのループは「喉の渇きを潤すために海水を飲む行為」と同じです。
狂楽
これは享楽の書き換えだと思いました。
『享楽』は「快楽を味わうこと」なのですが、その〈快楽〉だと思っているものが、実は狂ったものである。
しかし、その「狂ったもの」が『普通』になっているから、その異常性に氣付けなくなっている。
『沈んだりすること』に「慣れた」状態は、問答無用で異常です。
赤信号をみんなで渡っている全員が「これは普通なことだよ」と言おうが、異常です。
! 確かに変だ ! さすがに変だ
〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!
異常を普通だと思い込んでいる状態、その異常性自体が変だと確信したのでしょう。
〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!
幽星より愛を込めて
初めて聴いた時に、非常にB'zさんっぽいな、と思いました。
きっと、B'zバンドが演奏して稲葉浩志さんが歌っても、なんら問題ないでしょう( ¨̮ )
表面的にはなかなか毒を吐いているように感じますが、樂曲がメジャーキーで明るいこともあって、叱咤激励に感じます。
岡本太郎さんが書いた『自分の中に毒を持て』と似たものを感じる。
エネルギーが高い。大好き( ¨̮ )
大体暗い街で輪になって とり憑かれたように
繰り返しの愚図なゲェムに病みつき
─────────
大体凍る街で震えてて 憑依されたように
役立たずの屑な ニュースに狂喜し
─────────
言葉に秘めた 毒の奥を掴め
言葉で感電死 化けの皮を剥ぎとれ
大体暗い街で輪になって とり憑かれたように
繰り返しの愚図なゲェムに病みつき
これはビデオゲームとかの意味としても取れると思いますが、個人的には権力抗争や社内政治的な意味合いの政治、コミュニティ内での自己の優位性を主張するために行うマウンティング等のことだと思います。
大体凍る街で震えてて 憑依されたように
役立たずの屑な ニュースに狂喜し
多くのゴシップでしょう。
誰それが結婚した、離婚した、解散した、不倫した。
そういった〈自分の人生に一切影響しない小事〉たちのことです。
そんな『どうでもいい役立たずの屑なニュース』に"憑依されたみたい"にかじりついて狂喜している。
自分の人生を生きろよ。
「他人の人生を覗き見てやいのやいの言っている」ってのは、他人の人生を生きていることになるんだからな。
言葉に秘めた 毒の奥を掴め
言葉で感電死 化けの皮を剥ぎとれ
これは『攻撃的国民的音楽』で歌っていたことの延長だろうと思います。
新しい言葉の裏側に隠されている真理馬鹿らしい言葉の裏側に隠されている神秘
また、毒の効いた過激に聞こえる歌詞に用いられた言葉たちがどうしてその言葉を用いたのか、毒のその奥を探れ。という意味合いとも感じます。
ウルトラ・ヘヴン
ぽっかり底に空いた 穴の無い傷があった
─────────
さあ、ヘヴン!飛べるように くだらない脳を捨てよう。
─────────
天国は どこでもあるクスリだって
じゃあ僕は 救いのない所に立っていた
─────────
夢の中では余念がないさ
空に始まり出口はないのさ
─────────
天国は どこでもある誇りだって
じゃあ僕は 浮世でまだ観ていたいさ
天国は どこでもある地獄だって
じゃあ僕は 同然ならここに立っていよう
ありがとう
楽になった
サンキューです
ぽっかり底に空いた 穴の無い傷があった
これは「虚構を実りあるものと思って接していたことによって生まれた傷」かしら?
それこそ『気分ばっかの心ないラヴ♡』を摂取し続けたことで受けることになった傷?
それとも「過去に経験した深い傷が、表面的には治っているけど実は完治していなくて底は空いている傷」か?
個人的には後者だと思いました。
どっちにしても、底に傷があればどんなに実りあることでも貯まることはありません。
さあ、ヘヴン!飛べるように くだらない脳を捨てよう。
酸いも甘いも、樂も辛いも難攻不落の氣分次第だから、その煩悩を産んで去来させる、くだらない脳を捨てましょう。
天国は どこでもあるクスリだって
じゃあ僕は 救いのない所に立っていた
これは世に多くある『宗教』の話かしら?
だとしたら、そんな宗教を無条件に信仰できる純粋性(ある意味合いでの幼稚さやアホさ)が無くなっていた状態なのでしょう。
また、冷めた意味合いでの賢さも持ち合わせているために宗教の「粗」も自然と見えてしまう。
それが故に虚無ちゃん。ニヒルに侵食されている状態ということです。
そんな精神状態だから、宗教にも全幅の信頼を置けず、救いのない所に立っている。ということかな?と考えました。
夢の中では余念がないさ
空に始まり出口はないのさ
ネガティヴイメージは何もない状態からでも始まる。
マイナス思考は始めると芋づる式よろしく、次から次へとネガティヴを連れてくる。
そんなことを続けるとネガティヴに支配されて、出口はない。
天国はどこでもある誇りだって
じゃあ僕は 浮世でまだ観ていたいさ
天国はどこでもある地獄だって
じゃあ僕は 同然ならここに立っていよう
天國は「どこにでもある誇り」で、「どこにでもある地獄」である。
つまり、自分の氣持ち次第で『自分が生きている場所を天國にも地獄にもできる』ということです。
その事実に氣がついた曲の語り手は、「天國も地獄も大して変わらない似た様なもので、難攻不落の氣分次第なんだったら、それが本当か確かめるために浮世でもうちょっと観ていよう」と氣持ちを一新する。
それを知った語り手が、言いました。
ありがとう
楽になった
サンキューです
脳がとろける街888
なんとも深夜を感じる曲です。
そして、どこか聖なるものを感じる曲です。
8分もある曲ですが、半分を越した頃から曲調に希望が滲んできます。
ここ(樂曲Time 4:39~)がcali≠gariっぽい。アコギのバッキングが入ってるところとかも、すごく「ぽい」
やっぱりcali≠gari通ってそう。
こだわり続けるのを 諦めたら壊れちゃう
─────────
この街では塵の様に 霧の様に『今』をぼやかしてる
─────────
どこまで続けるの?と 吐き出したら壊れちゃう
─────────
こうやって叫べば面白い? こうやって叫べばどこでも勝てるさ
─────────
夜が続きそうな街で 夜が続きそうな街で 夜が続きそうな街で
こうやって叫べば
夜が終わりそうになるさ 夜が終わりそうになるさ
そうやっていけたら最高さ
夜が続きそうな街で 夜が続きそうな街で
喉が千切れそうな程に こうやって叫べば
夜が終わりそうになるさ 夜が終わりそうになるさ
そうやって溶けたら最高さ
こだわり続けるのを 諦めたら壊れちゃう
『こだわること』が精神的支柱で精神衛生の根幹にあるから、それをやめたらもたれる場所がなくなってしまって壊れちゃうんですよね。
身に覺えがあるのでわかります。
一見すると強く見えるんだけど、実はそれって非常な脆さも持っているんですよね。
この街では塵の様に 霧の様に『今』をぼやかしてる
『この街』と言っていますが、これは『現代のこと』だろうと思います。
誰もかれもが過去や未来にばかり目を向けてばかりで、今に目を向けずぼやかしている。
『今』という、ある意味での〈身体性〉を蔑ろにしている現代、という意味だと感じました。
どこまで続けるの?と 吐き出したら壊れちゃう
ふっ、と冷静になってこんなことを考えてしまったら、その冷静さを自分に向けてしまったら自分がこれまでしてきたことすらも否定することになりかねない。
多くの夢追い人には経験のある、馴染み深い感情なのではないでしょうか。
でもね、こうやって冷静さが顔を出してきた時点でもう危ういんですよね。
絶好調な状況や盲目的な状態ならば「どこまで続けるの?」という冷静さは出てきませんからね。
こうやって叫べば面白い? こうやって叫べばどこでも勝てるさ
おそらくこの曲の語り手は日々の生活で「面白い」と感じることが少なくなっていたのではないかと感じます。
『面白い』と感じる柔軟性が心から消えていた状態というか、『面白い』を感じるだけの心の余裕を回せなかったというか、そんな感じ。
そんな語り手が「面白い?」と疑問符をつけながらも、『面白いを"面白がれるように"なるとっかかり』を摑んだ。
しかも、「こうやって叫べばどこでも勝てるさ」という『無条件の自己肯定』を自分の中から生み出しているような描写すらある。
純粋に嬉しいです。
余談ですが『裏声を出す』というのは自分を表現することにおいて、非常に良いトレーニングになるそうです。
単純に声を発するというのは、自己表現の一つですからね。
もしかしたら、この語り手は発言することに苦手意識やコンプレックスを持っていたのかも。
それを解消しようと思えるようになったのも嬉しいですね。
夜が続きそうな街で 夜が続きそうな街で 夜が続きそうな街で
こうやって叫べば
夜が終わりそうになるさ 夜が終わりそうになるさ
そうやっていけたら最高さ
自己表現の方法を得て、それを実践していれば、夜が終わるんじゃないか。
もし、まだ夜が終わらないのだとしても、夜が終わるんじゃないかと思うことができる。
もしまだ夜が終わらなくても、「夜が終わるかも」と思うだけでも、そう思えるだけで最高さ。
この夜は精神的な意味合いでの比喩でしょうね。
いちいち言わなくでもわかるよって話ですけどね。
夜が続きそうな街で 夜が続きそうな街で
喉が千切れそうな程に こうやって叫べば
夜が終わりそうになるさ 夜が終わりそうになるさ
そうやって溶けたら最高さ
これまでの「こうやって叫べば」はファルセットを用いて歌っていましたが、最後になると地声で、本当に叫ぶように歌っています。
これは自分の声を臆することなく出せるようになったということなのだと思います。
しかも『喉が千切れそうな程に』ということは大声で叫ぶということです。
つまり、この語り手の心の夜はもう明けようとしているということです。
これを嬉しいと思わずして、喜ばずしていられるでしょうか。
このファルセット→地声で表現する歌唱法は、2021年に開催された【幻魔大祭1205】の『永・凹・阿阿瑠』でもマーガレット廣井さんは用いられていましたね。
曲始まりはマイナー調ななんとも『夜』を感じる曲でしたが、曲が終わる頃にはメジャー調になってシンセ音すら入っています。
このエンディングには『ドン暗い夜の時間から、時が流れて夜が明けようと白み出している空を見上げた情景』が浮かびました。
見上げた空にはきらきらと星が瞬いている情景も込みで( ¨̮ )
とにかくこんな御託はどうだっていいとして、この語り手が自分を救ったこと。そして、この音樂と心に触れて自分で自分を救う人が少なくとも一人はいるであろうことが、とってもとっても嬉しいです。
苦しんでいる人がいっぱいいるのは辛いですからね。
『自分が辛い経験をしたから、他の人間にも同じ経験をさせないと氣が済まない』なんていうのは言語道断です。
これが人生だったのか!よし!もう一度!
『永劫回帰』という仮説・考え方があります。
これはドイツの哲學者であるフリードリヒ・ニーチェ氏が提唱した考え方で、『ツァラトゥストラ』という著書で登場しました。
ニーチェ氏は「神は死んだ」という言葉でも有名な方ですね。
この『永劫回帰』というのは、同じ人生が永遠に繰り返されるという考え方です。
仏教の『輪廻転生』と似ているように感じますが、二つは全く異なったもので、輪廻思想は「一つの魂が別々の存在に宿る」というもので、永劫回帰は「一人の全く同じ人生が永遠に繰り返される」というもの。
詳しくはこちらの動画様を観ていただければと存じます。
『何度も同じ人生を繰り返す』と聞いて、「絶対に嫌じゃん」と思った方も多いだろうと思います。
わたしもその一人の一部でもあります。正確にはわたしの中にも「絶対に嫌だ」と思う部分がある、ということですね。
『何度も同じ人生を繰り返す』と聞いて、どうして『絶対に嫌』と思うのかというと、大小の少なくはない辛苦の過去があるからではないかと思います。
そんな〈大小の辛苦が少なくない人生〉の中でも『本当に魂が震えるほどの悦びに、たったの一度でも触れたのなら、その人生は生きるに値する』ということもニーチェ氏は語っています。
その経験をした人が、タイトルに引用した『これが人生だったのか、よし!もう一度!』と思って、永劫回帰を受け入れるということなのです。
どうして、このニーチェ氏の永劫回帰を引用して書いたのかというと、今回レビューした『日本』というアルバムを聴き終わった時に、その『これが人生だったのか、よし!もう一度!』というツァラトゥストラを想起したためです。
『攻撃的国民的音楽』をはじめに聴いた時には、「これはとんでもない世界を覗いてしまったやもしれない…」と思ったのですが、ラストを飾る『エイトビイトな人々』を聴いた途端に「いいアルバムだ…!もう一度!!」となりました。
その「いいアルバムだ…!もう一度!!」の感覺が、この『日本』は強かったのです。
正直このアルバムを初めて聴く段階で『奇天烈レジャ〜』『銀河の恥…』『大安ナイト』を聴いている間は、意味不明で奇天烈すぎて、困惑の感情が非常に強かったのですが、ラスト二曲で「いいアルバムだ!もう一度!」となりました。
この感覺が永劫回帰と似ているなと感じたのです( ¨̮ )
『奇天烈レジャ〜』や『銀河の恥…』で戸惑いや焦りじみたもの、ニヒリズムに支配されかけていたアルバムを通しての語り手が、『ウルトラ・ヘヴン』と『脳がとろける街888』で癒され、自分自身で"自己に課した"しがらみから解放した。
ここの感覺が「いろいろなことあったけど、まぁいい人生だったかな。 !…なるほど、これが人生だったのか。よし!もう一度!」という思いと似ているのではないか?と感じたのです。
永劫回帰ですよね。
二曲目の『亡月亡日』は同じフレーズが繰り返される楽曲ですが、永劫回帰の仮説を考えると『同じフレーズがリフレインする』というのは『同じ人生がずっと繰り返される永劫回帰』と捉えることもできます。
よく思い出せば『絶妙Σ』もリフレインが主ですね。
『銀河の恥…』も同じことを延々と繰り返していますし( ¨̮ )
永劫回帰( ¨̮ )
しかしこれまで各アルバムの発売当時に知っていなかったことを悔やまれるバンドもいないな…。
この『日本』が発売されてすぐの頃は、『ウルトラ・ヘヴン』もライヴのセットリストで多く組み込まれていたでしょうし、『攻撃的国民的音楽』の頃は『エイトビイトな人々』がセットリスト常連曲だったのでしょうからね。
本当に『エイトビイトな人々』を生で聴きたい。聴かなくては死ぬに死ねません。
まだまだ死にません( ¨̮ )
ありがとうございました\(´-`)/
9000字超え\(´-`)/