頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

2022年6月23日


本日もご訪問ありがとうございます。


今回は非常に個人的な話になりますので、拝読頂かずとも大丈夫です。

それ以前に、暇つぶしくらいにしかならないわたしの思考を、いつも拝読頂きありがとうございます。







去る2022623日の正午に、父が死にました。


本日は26日ですから、御通夜も本葬も終了しています。


5,6年ほど前に腰を悪くし、それの治療をしてからは問題は無かったのですが、去年の夏くらいから不調が出だし、202110月に検査入院をしたことをきっかけに、骨肉腫という病氣に罹っていると言うことが発覺し、そこから脳に転移し、要介護になり、寝たきりになり、と転がる様に悪化し、天寿を全うしたということになります。


昨年の10月時点では『2,3ヶ月が山だろう』との見立てだったので、実際は8ヶ月も命を繋いでいたということになります。



去年の10月に診断が出た時から、正直覺悟というか、長くはないと思っていたのですが、訃報を知った時はひどく動揺をし、狼狽をし、狼狽をしている自分に狼狽しました。


それまでは『生まれたら死ぬのは当然だし、人は生物なんだからむしろ死ねる方が自然じゃない?』なんて思っていました。

この氣持ち、考えは今もあるので、偽りではないのですが、いざ、親が死んだという事実と目の前で対峙すると、ひどく狼狽え、狼狽えている自分に狼狽えました。


所詮は殊勝なことを言っていても、強がっていきがっていただけだった、と言うことですからね。

しかも、『親が死んだ』という私事が介入しない大変な出来事の最中で、「狼狽えている自分を知って狼狽えた』なんて言っているわけです。

わたしはまだまだ自分本位で半人前のエゴちゃんですね。



御通夜を行う会場で寝ている父を見ましたが、むくりと起きて話し出しそうとすら思えるほと、見慣れた寝顔。

というよりも、そう思いたいのだろうと思いますけどね。


人は死ぬとここまで血の氣がなくなるのだ、と思ったり、あまりに現実感がなく蝋人形なのではないか、と思ったり。

それも現実を直視したくないから思うのでしょう。


本葬の日に納棺を行ったのですが、布団が除けられた父の脚の細さが痛々しかったり、組まれた手の爪の感触が、間違いなく爪の固さであったり、顔を触った時の感触が皮膚そのものであったり。

必死に脳が『蝋人形として』考えようとしているのに、『人の肌の感触』という現実が目の前で対峙させられたのはしんどかったです。


納棺する際に脛当てなどをつけますが、その結び方が蝶々結びであり、何度も輪廻するためなのか、とか思ったり、『輪廻してほしいと思っているのか、自分はまた父に会いたいと思っているのだな』と思ったり。


親戚のおじさんは自分の一身等が亡くなったかとごとく泣いてくれるし、いい人だなぁと思ったり、そんな姿を見るとせっかく泣かない様にしていたのに泣きそうになったり、せっかく泣かない様に必死に氣を張っているんだからやめてくれよと思ったり。



やっぱり「もう逢えない」と思うと、かなりつらいものがあります。


他にも、衣服などの「故人(個人)の匂いがするもの」は不意に見せられると辛かったですね。

そのままの意味としても、形容としても。

この『匂い』は『熱』と言い換えることができます。


御通夜が終わって食事をする時も、「あれ?まだ父さん座ってないじゃん」とふと思ったり、本葬前でばたばたしている中、「父さんがいないな、どこにいるのだろう」と自然と思ったり。



その度に複雑な氣持ちになったのですが、こういった感情というのは、土にじんわりと雨が沁みるように理解していくのでしょうね。


父という肉体は燃えて灰になりましたが、物質として消えたからこそ、心に染み入り、一体化していくのでしょう。



先に書いた親戚のおじさんは、父に相当世話になったらしく、嗚咽しながら「何も恩返しできてない、どうすればいいのか」とわたしに質問を投げました。

若輩者なわたしは、その問いに対して「生きていくしかない」と月並みなことしか言えませんでした。


しかし、結局はそうなのだと思います。

生きて、自分が大事だと思う存在を愛し、大切にする。

そうすることで、故人から戴いた雨を、自分という土を通して、岩清水として世界へ流す。


土砂崩れは一見災害ですが、山の上にしかない植物の種を平地まで運ぶためには必要なのです。



本葬の日は雨だったのですが、お葬式の日に雨が降ることを涙雨と言うらしいです。

天が故人を惜しんでいるということなのだそう。


あるいはわたしの祖父は父のことをとても大事にしていたそうなので、祖父が歓迎しているのか。


どちらにせよ、父は優しい人で、沢山の人に惜しまれる人でした。

正直優しすぎる人だったから、もうちょっと怒ってほしかったです。




父が死んで知ったことですが、わたしは父のことを何も知らなかったんだなと痛感しました。

正確な年齢を知らなかったのは良くないよね。


後悔先に立たずですので、考えても無駄です。

後悔するだけ、それだけやりたいことがあった、言いたい話したいことがあったということですからね。

後悔もゆっくりじっくり受け止め感じられるよう、生きていければ、それでいいと、今は思います。




皆さまへ老婆心ですが、言わないといけないと思っていることがある場合、それを言いたい人がまだ存命中である場合は、悪いことは言わないから早めに言っておくことをおすすめします。


父が検査入院をするとの一報が来たときに、何か嫌な予感がして、父に『謝らないといけないとこと』と『音樂を与えてくれたことに対しての感謝』を伝えれたからわたしは心残りはないですが、もしその予感を無視してたらとかは考えたくもありません。

検査入院から投薬治療になり、意思疎通が十分にできなくなったので、本当に直感に従って想いを伝えられてよかったと、強く思います。




わたしはギターを弾きます。

そのギターがあったから、なんとか生きてこれたという部分が多大にあります。


そんなギターを与えてくれたのも父です。


つまり、父から半分の生を受け、父に生かされて、今があると言っても過言ではないのです。





これ以上は想い出が際限なくなるので、ここらへんでお開きといたします。


ここまで読んでいただいた方がいらっしゃるなら、ありがとうございました。



そして、お父さん。

長い人生と短くはない闘病生活、お疲れ様でした。

ゆっくり休んでください。

そして地球になって、多くの慈悲を多くの方に与えていってください。


本当にありがとうございました。
















追記

624日に御通夜を執り行い、その際にお坊さんが「翌年には一周忌、亡くなってから二年目には三回忌と行われます。命日近くになると故人様を思い出していただきましたらと思います」と言った様なお節法をされたのですが、御通夜を執り行った624日はわたしの誕生日です。

なので、先の人生は誕生日が近づくたびに複雑な氣持ちになるのでしょうね。


「命日忘れんなよ」ってことでしょうか。

忘れられるかよ