頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

思考は生物

 

思考は生物である。

 

あれ?もしかして、を蔑ろにして頭の端に追いやっていては、その思考は腐ってしまう。

 

思考は生物である。

 

あれ?もしかして、と向き合わずお粗末にしていては、次第に思考はそっぽを向いて、新たな「あれ?」をもたらしてくれなくなる。

 

もし「あれ?」があるとしても、「あれ?なんだっけ」がオチであろうと思う。

 

 

思考はノートである。

 

そして思考はペンでもある。

 

双方があらねば『思考』という奇跡を軌跡として残すことができない。

 

「全て覺えていればいいのさ。わたしの頭の中のアカシックレコードさ」と思う過去のわたしもいたが、所詮人の記憶。

 

許容できる量というものは決まっている。

 

湧き水は湧き水として、湧き出す場所があるからこそ、許容量を超えず湧き水として湧き出すことができる。

 

湧き出す場所がないまま、水が溜まっていくと、そのタンクはいずれ割れ、二度と貯まらないのだろうと思う。

 

それはどうにも堪らない。

 

正しく循環するために湧き出すのであり、正しく忘れるために思考を書き出すのである。

 

それは奥に残ったものを掻き出すように。

 

正しく書き出し、忘れた結果に、また新しい正しいと思える思考が湧き出すのである。

 

 

つまり、

 

わたしも思考を蔑ろにせずちゃんと書き出します。

日々が忙しいとか、そんな言い訳を言って逃げちゃらんないんだね。

 

自戒々々。