頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

効率化という現代病。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

もう数ヶ月前に読んだ書籍ですが、養老孟司さんの『ヒトの壁』から感じたことを、引用、そして読んで感じたこと、行って思ったことを書こうと存じます。

 

 

電線のたわみ

いきなりで凝縮ですが、現代は〈効率化〉に囚われ過ぎていると感じます。

 

効率化、一見それは良いことにも思えます。

 

ですが、それは裏を返すと『余裕をなくしている』と形容することも可能です。

 

『ヒトの壁』では「最近のオフィスは効率化をし過ぎていて、無駄が無さすぎる」と記されています。

 

その理由は、『仕事に必要なものしか置かれていないために、氣持ちが汲々となりすぎている』から、とのことでした。

 

 

日本の電線は、電柱と電柱とで渡されていますが、その電線自体はたわんでいます。

 

その理由は『強風が吹いて、電柱がしなっても電線が切れないように』です。

電線がぴん、と張っていると、電柱がしなった場合即座に切れしまうのだそうで、そのために「わざと電線をたわませている」のだそうです。

 

つまり、「意識的に無駄を作っている」わけですね。

 

 

それに対して、現代のオフィスは無駄を排除する様に設定されている。

つまりは〈電線がいつ切れてもおかしくない状況〉なのです。

 

そんな〈電線がいつ切れてもおかしくない状況〉で仕事をすると、どうなるか。

 

電線が切れてしまうのと同じように、精神的にも途切れてしまいかねないのです。

ぱちん、と破裂して再起するまでに長い時間を要する必要が発生したり、自ら命を絶ち、二度と再起できなくなることもあります。

 

 

事実、職場で他部署の回答を貰うために連絡することがあります。

色々と決まり事が多い職場なので、「その部署の管轄範囲内のこと」はその部署が対応した文章をもらう必要があるのですが、いざ返答があればスタンプひとつでなにも対応法が明示されない、なんてことも起きています。

これこそ『効率化の弊害』に他ならないのではないでしょうか。

 

全く、何にでも効率化を当てはめる意識というのは、あほらしいものだな。と感じます。

 

交感神経と副交感神経の関係のように、『効率と非効率』が同時に存在していて、場合によっては優位者が変化することが、"豊か"ということなのではないのかよ、と感じます。

少々愚痴が過ぎましたかね。

 

 

緊張が、ふっ、と、弛緩する

上記、『ヒトの壁』を読んで、「全くその通りだな」と思ったので、十年ぶりくらい?にガチャガチャというものを行いました。

 

ガチャガチャのおもちゃとかって、あっても飾ったりしなかったのです。

そのため、どうしても不用物になってしまっていたので、とても縁遠いものだったのですが、いざ、やってみれば、あのギャンブル性もなかなか愉しいですし、良いものでした。

 

そうやって意識的に無駄を行って、そこで手に入れたものを、職場に置きました。

 

ガチャガチャしたものはフィギュアだったので、オフィスには一切不要なものです。

 

 

いざ置いて作業をしてみて初めて知ったのですが、所謂『無駄があること』で、仕事に対して緊張しすぎ神経質になっている意識が、ふわっと弛緩するのですね。

 

『無駄がない場所』で長時間仕事なり作業をしていると、緊張しすぎて、精神的に危険な状態になりかねない。

閾値を超えてしまうと、前述の通り『電線』が切れかねない。

そんなオーバーヒートを未然に防ぐために、意識的に無駄を作るのです。

 

 

ちなみに、『頑張れ』とかの鼓舞させる言葉は、個人的にその無駄を削ぐ言葉だと感じています。

 

なので、わたしは『頑張れ』や『頑張って』などといった言葉が嫌いです。

自分と相手とで頑張れる許容量は違うし、もしかしたら相手はパンク寸前にあるかもしれない。

これ以上"頑張ったら"その人はパンクしてしまうのだとしたら、その人は『期待されたら応えないといけない』と、どうしても思ってしまうタイプだとしたら。

 

『頑張れ』という言葉はそれだけ無責任な言葉でもあるわけです。

 

どうか、想像力を持って。

 

まぁ想像力がないから、それだけ無責任な言葉を使えるという部分もあるのでしょうけれどね。

 

 

重症化すると、ニヒリズム

まぁ、結局は『効率化』というものも〈時代の病〉なのでしょう。

 

しかし、この効率化は行き過ぎると、深刻化するとニヒリズムに発展していくのだ、と思うので、早いところ〈効率化の呪縛〉からは解かれて決別した方が良いと感じます。

 

効率化、それは即ち『人生に意味を求めること』と表裏だと感じ、その意識が深刻化すると「人はいつかは必ず死ぬのに、どうして一生懸命に生きるのか」と虚無に囚われることになり得るでしょう。

 

 

こちらも『ヒトの壁』で養老孟司さんが仰っておられるのですが、「相模原の事件で捕まった犯人は、『障害者に生きている意味はあるのか。税金を食って生きているだけではないのか』などと話していたそうだが、はたしてそれなら、君自身には生きている意味があるのか。"生きている意味"というのは、人生を効率化し過ぎた結果の意識ではないか。君は何を以て〈生きている意味がある〉と、判断しているのか」

 

生きている意味はありますよ。

少なくとも、生きている間は、必ず。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

さっさと効率化とかの『他人が作った幽霊的意識』からは解放されたら良いのに、と思います。

他人が作った付け焼き刃の宗教なんてものより、自分の内から産みでた宗教を知ろうと、大事にしなよ、と思います。

 

その自分の内から出た宗教も定期的に疑いながら、ね。

 

 

 

ちなみに、一時期流行った『無能だ有能だのと断ずる所業』も、効率化意識が端を発していると感じます。

 

『無能だ有能だの』と断じている場合ではないのです。

 

 

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬