頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

比喩と現実感

 

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

この間、TVアニメ『ぼっち・ざ・ろっく』で活躍する、結束バンドのアルバムを聴いた感想を書きました。

 

アルバムの感想は以前に書いた次第ですが、このアルバムを聴いていて氣付いたことがありました。

 

 

なぜか対立構造

 

結束バンドのロックは、所謂「ロキノン系」とカテゴライズされる部類のものだと思います。

 

わたくしごとになりますが、『その人の音樂的嗜好を決定づける』と言われる思春期にはL'Arc~en~Cielや、ムックやcali≠gariDEAD ENDPlastic treeなどを好んで聴いていました(敬称略)

 

所謂、世間一般的に『ヴィジュアル系と形容される類のロックです(ラルクV系じゃない、というタブーは重々存じております。日本のヴィジュアル系の文化は《歌舞伎起源説》と《BOOWY源説》、《X JAPANhideさん起源説》があるが、ラルクDURAN DURANthe Cureなどの洋樂のニューウェイヴ、ゴシックロックからの系譜ですからね。ファンの皆様怒らないで わたしはギタリストの中で一番kenさんが好きです)

 

 

なぜかロキノン系とヴィジュアル系は互いを軽視しているきらいがあり、わたし自身、そんな思春期は確かにロキノンは合わないなぁ、と思っておりました。

でもASIAN KUNG-FU GENERATIONチャットモンチーBEAT CRUSADERS9mm Parabellum Bulletは当時から好きでしたよ。

 

知らん人間のつまらない自分語りですが、今もなお刊行されているGIGSというバンド雑誌を買っていた高校生時分にはSCANDALNothing's Carved In StoneRADWIMPSなどの皆様がよく特集されていました。

上記したバンドはロキノン系バンドと言えば、的な方々でもあります。

 

 

長らく「どうしてヴィジュアル系ロキノン系とは相容れないのだろう」と思っておりました。

 

その理由が、結束バンドのアルバムを聴いて少し分かったかも知れません。

 

 

けいよう!

 

『結束バンドのロックは、所謂「ロキノン系」とカテゴライズされる部類のものだと思われる』と、前述しました。

 

ロックという音樂を、〈ロキノン系〉たらしめている要素とはなんなのか。

 

それは歌詞における形容、比喩、メタファーが大きいのでは、と感じます。

 

 

結束バンドの歌詞には、『エリクサー(ギター弦)』や『スワイプ/スクロール』、『あのバンド』、『教室の隅』などの【"特定のもの"を示している言葉】がよく使われています。

 

"特定のもの"を示している言葉】を使うことで、曲の世界が自分の暮らしている世界と地続きになっている、という、ある種の『錯覺的効果』を得ることができるのですね。

 

その錯覺は、現実感や生活感がある言葉を用いているからこそ、もたらされるものであろうと思います。

 

 

それに対して、ヴィジュアルロックは比喩が多い。

多い。

 

そしてその比喩が分かりにくかったりもする。

 

比喩が多いことにより、もちろん非現実感が強くなるわけですが、ヴィジュアルロックを好む方は、音樂に現実感ではなく非現実を求めているのではないか、と、わたしは思うのです。

 

それは(わたしの憶測、妄想ですが)現実から逃れるために音樂に触れているきらいがあるように感じるからです。

 

だから現実感を謳っているロキノン系の音樂は相容れない。

「現実が辛いから非現実の音樂に寄り添ってんのに、どうしてわざわざもっと辛い想いをしないといけないのよ。ふざけんじゃないわよ、黒い球体ぶつけるわよ」となるのではないでしょうか。

あくまでわたしの妄想です。

 

どちらのロックのバンドも、大抵は愛や恋といった平易なものを歌っていたりするものなのですが、その対象に対しての切り口と表現が違うために相入れることができない(なんだかレゲエとヒップホップの関係と似たものを感じます)

 

大抵の人が愛だの恋だのという事象を経験するものでしょうからね

そういった事象はポップなのです。

 

だから、事務所の看板、稼ぎ頭になるバンドは恋愛的〜な歌を良く歌う印象があります。

 

確かに、king gnuさんの『白日』は《恋愛の曲に見せかけた書き方》をしたためにあれだけ売れたのだろうと思いますしね。

あくまで酔狂な妄想と憶測と思ってください。

 

 

比喩は自己満足と映りかねない

ロキノンロックとヴィジュアルロックの違いは比喩があるかないか、その程度、と書きましたが、その比喩によって、それぞれのフォロワーが相容れなくなっている側面もあるのではないか、とわたしは思っております。

 

ストレートな表現を好むロキノンロックのフォロワーはヴィジュアルロックの歌詞に対して「難解な比喩を使っているだけの自己満足」を感じ、ヴィジュアルロックのフォロワーはロキノンロックに対して「ひねりのない幼稚さ」を感じる。

あ、偏見です。

 

 

ちなみにわたしは『音樂』という高尚なものに愛だ恋だのの下劣なものを持ち込むなよ、と思うタイプです。

一番面倒な種族ですねˊᵕˋ )

 

 

そういった歌詞の妙があるから、完全にギターロックな音をしている凛として時雨ロキノン界隈でも特異な存在として異質な立ち位置にいるのではないでしょうか。

特異/異質、は、もちろん褒め言葉です。

凛として時雨の曲なら『illusion is mine』が特に好きです‪( ¨̮ )‬

 

 

『時計の針』を表現する際に「兄弟が追いかけっこをしている」とも「二人の心は近付いて離れて」とかとも表現できますし、「舞台の上であなたが動けば、空の色は変化して」とも表現できます。

まぁくどいし奇を衒い過ぎてて癪に触る表現ですけどね。

歌詞にはある程度の共感は必要。

狂感できない。

 

 

こうやって言及すると『ロキノンロックとヴィジュアルロックの違いは歌詞の書き方だけ』みたいなふうに思えるなぁ。

そうなると音は全部一緒なのかよ、という話になるし、ギターロックとメタルとフォークとヴィジュアルロックは歌詞の書き方でどうとでもできるって話になってくる。

 

そんなわけないし、実際に音の違いはある。

 

音の違いで言うならばなんだ

空間系を多用するのがヴィジュアルロック?

やっぱり魂?

はたまた、やっぱりそのみてくれ?

 

うーん、まとまりがない。

 

 

好きなままでいりゃいい

あ、ここまでのべつまくなし色々と偉そうに書いてきましたが、どっちが良い悪いではなく、それぞれの好みであって好きなんなら良いじゃんって話です。

 

少なくともはっきりしているのは、『これはよくてあれはだめ』といったような村意識じみたものでしょう。

良いものはジャンルに関係なく良い。

良くないものは自分が好きなジャンルにあろうが、良くない。

 

わたしはそう思います。

現時点ではね‪( ¨̮ )‬

 

好きを誇って!

 

 

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬