本日もご訪問ありがとうございます。
今回のお話は『《藝術》について』です。
以前からわたしのお話を好んで見ていただいている方には、もしかしたらご存知かもしれませんが、わたしは藝術が好きです。
いいえ、大好きです。
中でも音樂は『人生の元』と言えるほど(いや、人生の元ですね)好きで、忠誠を誓っています。わたしを縛ることができるのは音樂だけ( ¨̮ )
西洋絵画や絵の世界も好きで、年一以上は美術館に行っていますが、年数回の美術館って好きのうちに入るのか??
いや、自分が好きだと思っていれば、それで良い。
三月には人生初めての観劇にも行く予定です。バーモントカレー。
藝術というものに対して、わたしは愛しか向けていないのですが、逆に言えば、俗人たちが一喜一憂するものに対しては興味もないですし、軽蔑すらしています。
これは不要な自己紹介ですね。
さて、どうしてわたしが藝術を好きかというと、その作品を生み出した人の魂を感じるためです。
ほとんどその人の人生とも言えるような創作を、その作品自体から魂を感じることで、こちらの魂も呼応するというか、共鳴するのです。
制作だけをしている間だけは心休まった、その一瞬間だけでも人生が報われたんだろうなぁと感じる作品と対峙した時、非常に辛くもありますが、その『魂の煌めき』も、その力強い閃光をも感じて、愛と愛しさが溢れます。
ゴッホさんや太宰治さんなんて方々の作品は、その魂を感じます。それだけ辛さも感じるけど。
しかし、藝術家は、自己と、その内側にあるものと真正面から対峙して、煩悶する。
そして、自身の魂をつるはしみたいなもので打ち付けて、そのかけらが作品として生まれる。
その作品たちは、強い光を放つものとして存在するけど、『つるはしで自身の魂を打ち付けて削る』という行為は、自傷行為的であると言えます。
しかも三次元的な物質的肉体への自傷ではなく、超自然的で超越的な魂への自傷であるため、目立たないし、その実、傷は深い。
魂への自傷であるため、世間というものからは必然か?軽んじられます。
三次元として発露されたら、俗人ですら認識をすることが可能ですからね。
やっぱり目で見えるものは、所詮その程度であると感じます。
でも、やっぱり自身と真正面から向き合った『魂のかけら』たる《藝術》は素晴らしいし、とてつもない光を放っていて、まさに藝術家たちの生の証明であり、藝術家たちの存在の肯定的役割も担っているのです。
『「傷ついた」と認識するのではなく、「磨かれた」と思うがいいのです』という言葉があります。
全く良い言葉であり、なんと都合の良い藥かとも思うのですが、磨き方がつるはしで削るのだとすれば、なんと不器用なのか。
しかし、でも、不器用がゆえの、《藝術》であり『藝術家』なのです。
器用だったら、藝術に縋らずとも生きていけています。俗人でいられる。
しかし。
果たして先人たち藝術家諸氏は俗人への憧れはあったのだろうか。
「無い物ねだり」というだけあって、憧れはあるのだろうと思いますが、その憧れは、〈"憧れ"の原始形態〉である『嫉妬』という形で藝術へと発露され、昇華するのだろうかなと思います。
藝術家たちは「どうにか太平樂な俗人になれたら」と思うも、どうせなれないと知っている。
一度ならず、俗人として泥んで生きようとした時に、精神が悲鳴をあげて『死ぬために生きること』を必死に阻止するからです。
藝術家たちにとって『死ぬために生きることは、死ぬことと同じだから』です。
藝術家たちにとって『生きることは、魂をつるはしで打ち付けることと同じ』だから、です。
辛いなぁ。
まるで、藝術家は罪人のように思えてくる。
藝術家たちは罪人なのか?
藝術を行なっている人たちには、その魂が報われてほしいと、切に切に願うばかりです。
でもなぁ。結局はピカソ氏とかエジソン氏みたいなビジネスマン的能力の高い人の方がうまく立ち回るんだよな。
そういった器用な方がうまくやってのけるだけ、不器用な藝術家たちにはその辛さを感じることが無くなってほしいと思います。
しかし辛さを感じるから魂を削って入れ込んだ作品を作ることができるんだよな。ジレンマだよな。
藝術家たちは狂人か、あるいは病人なので、共鳴するのはおすすめしません。
辛いなぁ。
ありがとうございました。