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大体の概要
この間、『パフューム ある人殺しの物語』という映画を久しぶりに観ました。
観たのはこれまでで何回目でしょうか。5,6回目くらい?
2007年の映画だそうですね。
中學生の頃ですが、原作小説も読みました。
読書好きとして有名な、芸人の又吉直樹さんも、その昔オススメの小説として選出しておりましたね。
香料の名前などがカタカナなどではなく、全て漢字表記で印刷されていたので(麝香/じゃこう や、薄荷/はっか、龍涎香/りゅうぜんこう など)、漢字辞典を片手に調べながら読んだのは良い思い出です( ¨̮ )
なぜ今、また観たくなったかというと、ふと観たくなったからです。
直感ってやつですね。
現在、ヴィクトール・ユゴー氏の著作である『ノートル=ダム・ド・パリ』という作品を読んでいるので、その影響もあるのかもしれません。
この『パフューム ある人殺しの物語』という作品は、嗅覺が非常に優れた主人公が、理想とする香りを保存するためにうら若き女性を殺める、という作品です。
文字で表現するととんでもねえな。
あ、ネタバレはしますので、もしお読みいただける場合はお氣をつけください。
変態映画
パリの魚市場で誕生した、主人公のジャン・バティスト・グルヌイユは、その超越した嗅覺から周りから敬遠されていました。
彼はあらゆる香りに魅了されます。
革なめし職人の元で生活するなか、ある日、パリの街になめした革の配達を任されたグルヌイユでしたが、その街中で出会ったプラム売りの少女の体臭に魅了され、少女を尾行し、作業をする少女の〈香り〉を背後から嗅ぎます。
グルヌイユの氣配に氣付いた少女は叫び声をあげるも、グルヌイユに口を押さえられ、呼吸ができず窒息死をしてしまいます。
グルヌイユは絶命した少女の身ぐるみを剥ぎ、その体臭を一心不乱に嗅ぎます。
このシーンにいつも、全く変態的だなぁ、と感じます。
少女が絶命してしまったことで、少女の〈香り〉が消えてしまったことに絶望したグルヌイユは『香りを保存する方法』を知るために、香水商のジュゼッペ・バルディーニに弟子入りします。
ここで蒸留によって香油を精製する方法を知りますが、蒸留法では限界があることを知ったグルヌイユは、冷浸法という香りを抽出する方法を學ぶため、香水師のメッカとも言えるグラースへ旅に出ます。
いずれにせよ、人ではない
旅の道中で、グルヌイユは自身に体臭がないことを知ります。
体臭というのは、ある意味「自分の生を主張する要素」として大きな役割を担っていると考えています。
そんな《生物としての存在証明》が自分にはない、ということに氣付いた時のグルヌイユの絶望は凄まじいものだろうな、と思います。
ちなみに、これは伏線となります。
このシーンの前後で、『何かの意思(たしか劇中では"空氣"と形容されていたと記憶しています)』が、グルヌイユを「確実に殺そうと」します。
この場面は映画ではカットされています。
『目に見えないものが意思を持って』という表現をしていたと記憶しているので、目に見えないものを映像化すると陳腐化してしまうことを懸念してですかね。
しかし、この場面は他に類をみない名シーンじゃないか、とわたしは思っています。思い出補正はあると思うけど。
「自分には体臭がない」ということを知ったグルヌイユは、その欠点?を逆手に取り、他人の体臭を身にまとうことを決めます。
この『体臭の元』が「うら若き少女」であるということです。
最終的に13人の少女を殺めたグルヌイユですが、その犯行が露見してしまい、処刑をされます。
その処刑当日、グルヌイユは少女たちから得た香油で調合した〈特別な香水〉を身にまとい、処刑場に現れますが、その姿は『ボロ布を纏った青年』ではなく『上等な服を着た青年(さながら皇子然としている)』でした。
それまでは「早く処刑をしてしまえ!」「悪魔め!」などと口々に言っていた見物人ですが、"〈特別な香水〉で得た体臭を纏った"グルヌイユを見ると、「彼は無実よ」「悪魔なんかじゃない。彼は天使だ」と真逆のことを口走ります。
これこそ、人間が匂いにどれだけ頼っているか、ということの証明となりますよね。
グルヌイユがハンカチに〈特別な香水〉を垂らし、それを振ると、芳しい香りが見物人に見舞われます。
グルヌイユがハンカチを手放すと、風に揺蕩うハンカチを見物人達は、我先にとハンカチに手を伸ばします。
この時に思ったのですが、これって、当然ですがグルヌイユの存在に魅了されていたのではなくて、グルヌイユが纏っていた『表面』に魅了されていたってことですよね。
つまり、グルヌイユ自身を欲している人は、いない。
うわぁ。なかなか辛い。
と思いましたが、これって果たして現代では存在しないと言えるのでしょうか。
相手の地位やパーソナリティで判断している、そんな現代人。
相手の"その人"を見て、その人自身を欲している人なんてそんなにいないのではないでしょうか。
自身の罪
13人目に殺めた娘の父親であるリシだけは香水の力を受けていなかったのですが、「わたしは騙されないぞ!」と叫びながらも、グルヌイユに近づくと「お前を疑って悪かった。我が息子よ、許してくれ」と泣き縋ります。
このシーンは巧いなぁ、と初めて小説を読んだ時から思っておりました。
娘の匂いを纏っているから息子ということでしょう?
冷静に考えれば安直であるとも思えますが、『匂いで肉親かどうかを判断する』そんなこと日常生活で意識して考えませんし、考えないからこそ『巧い』と感じたわけです。
このリシが泣きすがっている時に、グルヌイユは涙を流します。
同時に、グルヌイユは最初に殺めた少女のこと思い出します。
リシは、娘の香りを纏ったグルヌイユだからこそ、『息子』と形容した。
つまり、リシ自身もグルヌイユを"その人"としては見ていないのです。
また、それまではグルヌイユのことを『悪魔』などと形容していた見物人やカトリックの聖職者は、〈特別な香水〉を纏ったグルヌイユを見て『天使』と、手のひらを返したように言います。
存在としては真逆の存在であっても、結局その実は、人間ではないのです。
幼い頃から超越した存在として敬遠されていたグルヌイユは、人の輪に入れてもらえなかったであろうと思います。
つまりは人として扱われなかったという見方もできるわけです。
実際皮なめしの場は結構酷な環境だったと描かれていたように思いますのでね。
この『パフューム ある人殺しの物語』は《天才が、天才が故に見舞われてしまう圧倒的な孤独》を描いた作品だったのかな、と、今ふと思いました。
しかし、最初に殺めた少女はグルヌイユの氣配でグルヌイユの存在に氣付いた。
もちろんグルヌイユの体臭ではなく、息遣いや微量な体温で氣付いた可能性はありますが、どれにしたってそれらは「生物を生物たらしめるもの」です。
そんな、最初で最後かもしれない『グルヌイユ自身を認める存在・肯定する存在』である少女を、自身の手で殺めてしまった。
その愚かさ?や、罪深さに氣付いたから、グルヌイユは涙したのではないのかなぁ、と思いを馳せました。
そのあと、グルヌイユは生まれた場所であるパリの魚市場に戻り、残った〈特別な香水〉を頭から被り、そこにいる〈宿なし〉達に「天使だ」と言われた後、身を食われ?一生を終えます。
そんな映画です。
あくが強い映画の方が好き、ということだと思います。
この映画は何度観ても、『うん、やっぱり変態性が強い映画だ』と思うのですが、その変態性が美にすら、藝術にすら昇華しているように思います。
それは単純にとても凄いことだと感じます。
また、そういった《執念をすらも感じる凄み》に魅了されて何度も観てしまうのだろうな、とも思います。
おいそれと他人に薦められる作品ではないんだけど。
中學生くらいの時分に見知って、DVDすらも買った作品というのは、今になって見返しても想うところがあるものです。
「あぁ、この作品のこういうところが、今の自分の価値観の一端を形作っているのだな」なんてね。
『V フォー・ヴェンデッタ』なども、去年久しぶりに観返して、そんな風に思いましたよ。^
今度は『チェンジリング』とか『シザーハンズ』を観ようかしら。
しかし、最近。2時間を超える映画を観ることに対して足が竦む。
老化だ。
そういえば、『エスター』の新作が公開されるそうですね。
『エスター』怖いんだよなぁ…。。
ありがとうございました( ¨̮ )