頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

秀樹のバーモントカレー

 

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つい昨日、劇団四季さんの『ノートルダムの鐘』を観て参りました。

 

 

ノートルダムの鐘』は、ヴィクトール・ユゴー氏の『ノートル=ダム・ド・パリ』という小説を原作としたミュージカル劇です。

ユゴー氏はかの有名な『レ・ミゼラブルなども執筆しておりますね。

 

 

原作を読んでのちょっとした感想

この『ノートル=ダム・ド・パリ』は15世紀のパリを舞台としております。

以前に記事を書いた『香水 ある人殺しの物語』と同じくらいの時代背景ですかね。

 

 

わたしはこの劇団四季版『ノートル=ダム・ド・パリで人生二度目の観劇なのですが、原作を読んで予習した者からすると「別物だった」という感想です。

 

 

まず、原作小説の感想ですが、わたしは『ノートル=ダム・ド・パリ』を読んで『愛というものの、全くの愚かさ』を覺えました。

 

まぁ〜、愚かなんです。

クロード・フロローの激し過ぎる嫉妬とか。

エスメラルダのフェビュスに対しての想いとか。

 

まぁそんな個人の感想は良いとして。

 

 

原作では劇作家で哲學者のピエール・グランゴワールという男性が登場し、そのグランゴワール君がとても良い働きをするのですが、劇団四季版では登場しませんし、〈おこもりさん〉と呼称される悲劇の女性も登場しません。

 

また軍人であるフェビュスはフィーバスに、クロード・フロローの弟であるジャンはジェアンと、名前が変わっております。

「フェビュス」と「フィーバス」はフランス語を英語読みした関係とかかな、と思われます。

 

原作に登場するフェビュスは、まぁ、一般的人間な胸糞の悪い人間なのですが、『フィーバス』となると、勇猛な軍人の好青年として描かれております。

クロード・フロローの弟であるジャンは、『ジェアン』となり演劇版ではジプシーの女性と結ばれ、子どもを授かるが、天然痘で亡くなってしまいます。

死の淵にある状況で、兄のクロードに自身の子を託した。その託した子がカジモドとなっておりますが、原作ではカジモドは捨て子です。

 

別物ですね。

しかし、その登場人物の名前を変えたのは『別人として表現するため』だったのかな、と観劇しながら思いました。

 

 

個人的にジャンが物語を引っ掻き回したり、グランゴワール君や〈おこもりさん〉がいることで(に〈おこもりさんの存在〉がいることで)、この『ノートル=ダム・ド・パリ』という作品の強度というか、劇性というか、ドラマチックさが高くなるように思ったので、この二人がいないのは少し寂しさを感じました。

 

しかし、その二人を登場させたり原作通りの劇にすると、きっと恐らくは四、五時間くらいの内容になりますね。

このグランゴワール君と〈おこもりさん〉は演劇ではなく映画の方が映えるのかもしれません。

 

 

省かれたものほど、きらきらと輝いて光る

原作小説は岩波文庫で上下巻に構成されております。

もし以前から興味はあったけれど未読な方は、お氣をつけください。

上巻はMAJIでなっがし、読み難いです。

 

著者であるユゴー氏の、建築に対しての愛からくる想いが、本当に長いし多い。

 

他にもパリという街の成り立ちや、學問に対しての造詣が深いが故に、読み手からすれば「それいる?」と思いかねないものまで書かれています。

 

しかし。

脱線した授業ほど面白く感じて、よく記憶しているパラドックスです。

 

 

再三言っておりますが、わたしは伊坂幸太郎さんのファンです。

その伊坂幸太郎さんの作品である『モダンタイムス』でも言及されていますが《要約された時に省かれたものほど重要》というわけですね。

 

 

角川文庫から『ノートル=ダム・ド・パリ』の抄訳版が発売されているのですが、それには作中にて著者が主張していた『言葉(活版印刷)は建築を滅ぼす』などは削られて編纂されているのではないかと思うのですが(その分読み易いと思われます)、削られた部分にこそ重要なことが詰まっていると考えます。

 

 

その理由は、この『ノートル=ダム・ド・パリ』という作品が《教養としての読書》を体現していたためです。

パリを埋め尽くすゴチック建築の意味やなりたち、文化藝術學問に対しての想い・考え、パリという都市の成り立ちとその変遷、そういったものがふんだんに込められていたので、読む側としても『その教養を持っていないと樂しめない』部分ではあると思いましたが、それこそ《教養としての読書》を体現している部分。

『書物というものの原初の意味』を表していたのだと考えます。

 

『読み書き算盤は教養の基本』だなんても言いますが、実質、それらができなくても生活をすることは可能っちゃ可能です。

ニューシネマパラダイス』という映画でも、第二次大戰の終戰直後くらいの時代でも読み書きができない大人が描かれます(これはもう時代という要因だけが原因だと思っているので、その舞台になった場所の文化水準がどうとかと言いたいわけではないです)。

 

それくらい『ものを読んだり、書いたりすること』は教養と密接に関係しているということですね。

それらの理由から、この『ノートル=ダム・ド・パリ』という作品は、まったく《教養としての読書》であるなと思いました。

 

 

ディズニーナイズ

前述しましたが、原作小説ではカジモドが捨て子とされていたところをクロード・フロローが施しとして?拾ったことから、エスメラルダや〈おこもりさん〉を巻き込んだ数奇な物語が紡がれます。

 

これも『原作とは別物である』という感想の一つなのですが、何よりも、作品のヒロインであるエスメラルダの性格と人物像が、一切原作と違っていたことに驚きました。

 

原作では15,6歳の少女として描かれていたエスメラルダですが、『ノートルダムの鐘』のエスメラルダは勝氣で自立のした20代中盤くらいの女性として描かれておりました。

まさに、全然違います(別にどっちがよいというのではなく、あくまで原作と劇などの表現としての解釈の違いという意味合いです)。

 

それもそのはず。

この劇団四季版『ノートルダムの鐘』はディズニー映画版を基にして構成されているのだそう。

 

ディズニー作品の特徴の一つとして、個人的に想起されるのは『女性が確固たる意思を持っていること』です。

 

この劇団四季版演出のエスメラルダも強い女性として描かれておりましたが、それは作品にディズニー的要素がこもっていたからなのでしょう。

 

そう考えれば、ミュージカル部分のメロディーワークもディズニーっぽいなぁ、と感じます。

これまでに観たミュージカルの映画作品って、2012年公開の『レ・ミゼラブル』とティム・バートン作品の『スウィーニー・トッド』と、実写版『アラジン』くらいなのですが、明らかにこの『ノートルダムの鐘』はディズニーの香りを感じました。

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怪物とは?人間とは?愛とは?

劇の最後では『人間と怪物の違いはなにか』という命題を舞台から客席へと投げかけます。

 

確かに『当人では人間然としながらも、エスメラルダを我が物とせんとするために全く怪物じみた行動をするクロード・フロロー』と、『風貌はまさに怪物とも言えるが純粋で清い《愛の想い》を持ったカジモド』どちらが怪物でどちらが人間なのでしょうか、と問われたら。

その違いはなんなのか、と問われたら。

 

はっきりとこれが違いであると提示するのは難しいよなぁ、と感じました。

 

 

『愛』というものに対しても、言葉なく言及されておりましたが、確かに、なんなのでしょうね。

原作で描かれていたように文化藝術に対しての思いや、クロード・フロローが激しく抱いていた嫉妬という感情。

カジモドがエスメラルダに対して表現していたとても清い感情や、エスメラルダのフェビュスに対しての愚かすぎる純粋な想い。

グランゴワール君がヤギのジャリに対して抱いていた愛や(わたしはこれがもっとも清い愛情だと感じます)、〈おこもりさん〉が自身の娘に対して何年も抱いていた愛。

 

愛って、なんなのでしょうね‾\_(ツ)_/‾

 

 

まぁ少なくとも「愛」という命題にしておけば、大衆的にもとっつきやすいから、そういった意味合いでの一つのアイコンとしてもあるのでしょうと思います。

 

しかし、わたしはどうしても愛という感情に対して鼻白んだ思いを感じてしまうのですが、どうやらそういったものを扱っている作品に興味を持つようである。

平野啓一郎さんの『ある男』とか。

 

しかし、はっきりと自覺しているのは『愛って良いものだよね!』というような感情を内包した作品に対して興味を示すのではなく、『はたして、愛とはなんなのか』というような《愛》という命題に対して思考し、考察し、問うていくというような感情を内包した作品に興味を示すということですね。

 

『すべて真夜中の恋人たち』も一度読ませていただきましたが、本当に相入れない世界だな、と思いましたし。

 

他にも恋愛作品として描かれていた映画も、何の氣の迷いか出来心かで鑑賞したことはありますが、本当に時間とお金と命の無駄だったな、と今になっても深く感じる次第です。

やってる意味のないことが大切、ではあるんですけどね。


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わたしにとって"愛"というものは、「はたして、愛はよいものか」という問いは、太宰治さんが『人間失格』で「信じるは罪なりや」と問うていたような命題と近いものだと考えております。

そんな個人の考えなんて、別にどうでもよく。

 

 

劇としての表現

物語の表現は様々にあります。

わたしが、大好きであり『旅行』と形容している小説や、映画、劇。

floodinhead.hatenablog.com

 

それぞれの表現にそれぞれの「強味」と「それでしか表現できないもの」があります。

 

この劇団四季版『ノートル=ダム・ド・パリ』ではっとした場面、表現は二か所ありました。

 

カジモドが溶けた鉛を階下へ流す場面と、カジモドがクロード・フロローをノートル=ダムの尖塔から投げる場面です。

 

前者は、溶けた鉛が入った鍋を傾けたら鍋からサテンの布が流れ出て、その後に舞台全体を覆うような大幕が下り、その大幕が赤い照明で照らされるというもの。

 

後者は『カジモドがクロード・フロローを階下へ投げ、落ちる様』を、クロード・フロロー役の役者さんを他の演者さん達が抱え上げ、舞台の奥に移動。

その後に舞台奥の壁に照らされた照明の、上から下への移動と効果音で、地面に落ちたことを表現するものでした。

 

この二つの表現は、恐らく『演劇であるが故の舞台表現』ではないかと感じます。

上記二つを観たときには、思わずはっと息を飲みました。

 

こういった「それでしか表現できないもの」を経験すると、それの魅力に魅了されてしまうものですよね。

なので、また観劇をしたいな、と思っております。

 

 

結局、原作には勝てない
と、これまで長々と感想を書いてきたわけですが(原作の影響でしょうか)、結論は『原作は超えられないよね』です。
 
元も子もねえ。
 
もちろん、とても良い観劇体験だったのですが、原作を読んでいるものからすると『カジモドが怪力である説明や、その理由』とか『カジモドが鐘つきの影響で耳がかなり聞こえ難くなっていること』や『溶けた鉛がどうしてあるのか』が説明されていなかったよな、と思います。
しかし、それは"説明過多"な現代を生きている「ぼんくら」なわたしの不甲斐なさが理由であったり、聞き漏らしていたりするのかもしれませんので、やいやいは言いません。もう言っているのだけど。
 
あ、でも「らんちき法王」を決める際のお祭りの場面は、原作の小説表現では限度があって表現できなかった部分であるかなと思うし、実際にユゴーの脳内にあった場面はあんな感じの乱痴氣騒ぎだったんだろうな、と愉しめたので、やっぱり劇もいいものだよな、と思い至っております。
 
 
よだん
本編が終了すると、カーテンコール?がありますが、その時に手を振っていたクロパン・トルイユフー役の役者さんを見て、「あぁ〜、あの人いい人なんだろうな〜」と思ったりしました。
 
あと、クロード・フロローはフェビュスにナイフを刺した後、エスメラルダに激情的な口付けをする様が原作で描かれておりますが、その場面を読んだ時に『ジョジョの奇妙な冒険 第一部』の有名なシーン、ディオがエリナに口付けをする場面を思い出しました。
 
MAJI余談中の余談ですね。
 
 
 
今度は『オペラ座の怪人』を読んでから観劇かな。
でもまだ『黒衣婦人の香り』読んでないんだよな。
 
ありがとうございました( ¨̮ )