頭の中の洪水

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鬼滅の刃 刀鍛冶の里編 第七話『極悪人』 感想・考察

 

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被害者の立場

今回のお話は炭治郎が〈怯〉の鬼の頸を斬りかかる場面から始まります。

炭治郎の繰り出した爆血刀の刃が〈怯〉の鬼の頸へ当たると、きりきりという金物をこするような音と共に、激しい火花が舞い散ります。

 

頸を斬られる恐怖からか、〈怯〉の鬼は苦しみの悶えを発します。

この場面で、鬼の舌に描かれている『怯』という字が強調されるカットがありますが、わたしは、何故に『怯』なのか、それが想像ができませんでした。

 

前回の第六話の時にも思っていたのですが、纏まらなかったために言及していませんでしたが、この〈怯〉の鬼は森の中を逃げ回りながら「悪い奴ら(鬼殺隊士)は彼ら(喜怒哀樂の鬼)が助けてくれる」と、そんなようなことを言っていました。

上記の発言から、この〈怯〉の鬼は『自身を被害者として振舞うことで、『弱者側、ひいては庇護される側』として護って貰っていた。そう立ち回って生活をしていたのではないか?(優等生の苛めっこが「苛められっ子にぶたれた」と被害者を装い、苛められっ子を集団から糾弾するかのように)』と思いました。

事実、『悲劇のヒロイン症候群』ではないですが、被害者として生きる・生活をする方が樂ですからね。

 

第一話の感想にて、「半天狗さんは実はとても狡猾らしい」と書きましたが、『自身の立場を弱者側に誘導している』のであれば、確かに狡猾であると思わずにはいられないでしょう。

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極悪人

〈怯〉の鬼の頸を斬ろうと奮闘する炭治郎ですが、その炭治郎の背後に凄まじい氣配を感じます。

 

その「氣配」は〈憎〉と書かれた太鼓を打ち、その衝撃で炭治郎たちは吹き飛ばされます。

吹き飛ばされた粉塵の中、土?の龍が登場します。

ここの表現は劇場で観たらとても映えるのだろうなぁ、と、純粋に感嘆しました。

『那田蜘蛛山編』にて、炭治郎が下弦の伍・累さんと戰った時にも"まるで映画みたいな映像"のシーンがありましたね。

 

この土の五頭竜の猛攻を、禰豆子の助けで辛くも脱した炭治郎。

 

「弱きものを甚振る鬼畜、不快、不愉快、極まれり。極悪人どもめが」と、ついに〈憎〉の鬼がついに姿を現しました。

前回・第六話にて『来週は「極悪人」だなんて題名なんですって。まぁ鬼に対してなんでしょうけど』などと言っておりましたが、違いましたね。

というのも、前日の土曜日に「あれ?」と思って原画展のパンフレットを見返したら、掲載されておりました。〈憎〉の鬼が「極悪人どもめ」と言っている見開きがですね。

 

第三話の感想にて、風神雷神の容貌について触れましたが、この〈憎〉の鬼は、しっかり雷神モチーフの容姿ですね。

 

そんな〈憎〉の鬼が睨みを効かせたことで、炭治郎らは身動きができなくなります。

蛇に睨まれた蛙、みたいな?

ここの元ネタは《覇王色の覇気》ってやつでしょうか。

 

 

玄弥が〈憎〉の鬼が出現した経緯を説明してくれます。

炭治郎が〈怯〉の鬼の頸へ斬りかかった時、〈怒〉の鬼が他の感情の鬼を吸収し、〈憎〉の鬼へと代わったそうです。

 

これはクソダサな後出しなのですが、〈怯〉の鬼と〈怒〉の鬼って着ている着物の柄が一緒じゃないですか。

なので、なにか主導的な立場にあるんだろうな、と思っておりました。一つ分頭抜けているというか。

でも先に言及していなかったので、これはクソダサい後出しの御託です。

 

不可解なのは『〈怒〉の鬼が〈哀〉の鬼を吸収しようとした時、〈哀〉の鬼が抗議・懇願する様子を見せていた』ということです。

 

ここから考えられることは、〈怒〉の鬼に取り込まれて〈憎〉の鬼へ変わってしまうと、喜・哀・樂の鬼たちは発言権や意識が無くなるのか?ということです。

思えば、《憎しみ》という感情を心に持っていると、喜怒哀樂という基本的な人間としての感情は鳴りを潜め、『"憎い"という感情』が優勢となってしまい、『憎いという感情』だけが脳を占拠してしまうような氣もします。

 

この喜怒哀樂という感情が「基本的な人間としての感情」なのだとすれば、『憎い』という感情に支配されること、それこそが《鬼化した》ということだとは考えられないでしょうか。

ちなみに、喜怒哀樂はひとつでも欠けたり、意識して塞いでいると、精神が見る間に疲弊し感情が歪むので、しない方が良いです☆ お氣をつけなさって☆★

 

 

その〈憎〉の鬼を見て、玄弥は「分裂じゃないのに若くなった」と訝ります。

その容姿は「子どもだ」と。

 

〈憎〉の鬼は「何ぞ、貴様。わしのすることに何か不満でもあるのか」と炭治郎に問います。

この発言で確信しましたが、確かに『子ども』ですね。

幼稚。

『自分のすることに口を挟まれたくない』という幼稚さの現れである、"あれ"です(偉そうに言っているお前自身はどうなんだよ…)。

 

 

〈憎〉の鬼としては、手に乗るほどの〈怯〉の鬼を炭治郎が切ろうとしたため、炭治郎らを『極悪人である』と認定しております。

この〈怯〉の鬼が「自身を被害者の側に置く」という処世術を用いている、とは先に書いたことですが、この《処世術》を自覺して行なっている(相手を陥れようと画策しての行動)のならば、まだ良いと思います。

この処世術を「無意識」に行っている場合、これが非常に厄介なのですよね。

 

意識的ならば、内心舌を出しているわけで、言ってしまえば救いようがある。

しかし本心から『自分は弱者だ、被害者だ』と思っている場合は、厄介ですよ。言ってしまえば、たちが悪い。

 

『自分は被害者だ』と、無意識でかつ本心から思っていると、〈憎〉の鬼のような力を持ったものが庇護者として発生してしまうためです。

 

 

怒り

戰い変わって、時透無一郎さんの場面へ。

自らの血鬼術によって時透無一郎さんの動きを封じた玉壺さんは、森の中に建つ小屋を暴くため、移動します。

 

鉄穴森さんの抵抗虚しく、玉壺さんが小屋に入り、中を暴きます。

 

てっきりわたしは、この小屋には『鉄穴森さんが時透無一郎さんのために打った刀』だけがあるものだと思っておりました。

が、その小屋には一心不乱に刀を研ぐ鋼塚さんがいたのです。 

 

戸に背を向ける鋼塚さんに対して、玉壺さんは話しかけますが、一心不乱に刀を研ぐ鋼塚さんの耳には届きません。

 

鋼塚さんの意図とせず自身の話を無視されたため、玉壺さんは癪に触りました(日本語あってる?)。

玉壺さんは自尊心の高い性分を持っているようなので、納得ですね。わたし自身にも身に覺えがあります。

 

というよりも、玉壺さんが氣に食わないのは、なによりも『自分よりも集中している姿を見せられているから』だと思います。

『自分こそが至高』と思っている(思いたい)玉壺さんにとって、その『自分こそが至高』という考えを脅かす人が目の前にいて、その人自身が意図せずとも、結果的に自分を無視している。

つまりは《相手にされていない》ということです。

 

「やーい、ばかもの〜間抜け〜」と揶揄ったとしても、言われた人が意にも介さず、発せられた暴言に対して取り合おうとしなければ。

それは『あなたの相手をしている暇はないの』という意思表示にもなりますし、暴言を発した本人自身はそう思う場合(被害妄想というか、ある種のやっかみ)もあります(よくある例えですが『自分宛の荷物を受け取らなければ、その荷物は差出人に返送される』というのと同じ)。

 

そんな『目の前にいる人は自分よりも格が上だ』という、ある意味での現実をまざまざと見せつけられたた。

『自分は目の前のものよりも劣っている』というある種の事実を痛感したため、玉壺さんは激しく怒りを覺えた。

 

この怒りを覺える玉壺さんに対して、わたしは「人間くせ〜」と思ったのですが、"感情がある"ということは『人間の部分がある』ということじゃないのでしょうか。

第一話にて、鬼舞辻無惨さんが「人間の部分を多く持っているものから鬼狩りに討たれる」と言っていましたが、"感情"自体が「人間の部分」なんじゃないの?

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わたし個人の印象・憶測・想像ですが、『人間ではない存在』ってもっと超然としている印象があるし。

 

そういうことならば、怒ったり癇癪を持ったりすることも感情であり、よく癇癪を起こす鬼舞辻無惨さんも〈人間の部分を多く残している者〉であるということになりますね。

The 矛盾男。

まぁ、人間は矛盾するものでしょうけれど。

 

 

負け

鋼塚さんの手を止めさせるために攻撃を繰り出した玉壺さんでしたが、その攻撃を受けても依然として刀を研ぐ手を止めない鋼塚さんを見て、玉壺さんが愕然とします。

しかも、当の鋼塚さんはそんな攻撃など露知らず、目の前にある刀への集中・観察をより深めています。

そんな姿を見せつけられて、激しく憤る玉壺さん。

 

「この男を殺すのは造作もなきことだが、なんとかこの男に刀を放棄させたい」と思う玉壺さん。

 

ええ。

鬼からすれば、人間を殺すことなど赤子の手をひねるも当然のごとく簡単なことでしょう。

しかし、その簡単な『人間を殺す』という選択をすれば、『自分は相手よりも劣っている』ということを認めることになる。

しかも、"『自分は相手よりも劣っている』ということ"を認めるということは、"自身の負けを認めるということ"ということでもあります。

それに、相手を殺してしまえば『相手の勝ちは確定するし、勝ち逃げをさせる』ことになります。しかも、それを自分が引き起こして。自分は永久に負け越すということになるのですよね。そりゃあ嫌だ。

 

でも、そんな勝ち負けの判断基準で生きている以上は、幼稚であるとしか思えないようにも感じます。

思えば、鬼の世界は勝ち負けが基準としてある世界線だよなぁ、と思います。だって「少年ジャンプの基礎的価値観」で鬼のコミュニティ体系・秩序を設定しているので、それもそうだな当然ということでもあるのですけどね。良い悪いの白黒思考的な。物事は白黒思考でしか考えることができないと思っている的な。Wao! That's 戰後思想。

遊郭編』で堕姫さんが重たる信条としていたルッキズムも、言ってしまえば勝ち負けの価値基準ですしね。

 

 

そうやって思い出せば、『無限列車編』では上弦の参である猗窩座さんが「鬼の世界、超やべーから一緒に鬼、やんね?」と炎柱の煉獄杏寿郎さんを鬼の世界へと勧誘します。

それに対して煉獄杏寿郎さんは「No. No more 鬼化」の意思表示をし、結果、煉獄杏寿郎さんは殉死します。

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これって、正確には猗窩座さんは負けてますよね。

煉獄杏寿郎さんは死んでしまったので、一見では勝ちのように思えますが、あの状況において鬼側の勝ちは『夜が明けるまでに煉獄杏寿郎さんも鬼側に引き入れて、炭治郎らも抹殺、あるいは同じく鬼側に勧誘する』ことでしょう。

 

ですが結果は、煉獄杏寿郎さんは最後まで鬼の価値観に対してはっきりと決別の意思を示し、夜明けまで粘った。

朝日が登る中、森の中を逃げる猗窩座さんは「戰略的撤退だ」などと言っていましたが、実質あれは敗走です。

つまり、猗窩座さんはあの戰いにおいて『試合に勝って勝負に負けた』ということなのですね。

 

 

人のためにすることは、巡り巡って自分のために

玉壺さんの術により、急所を刺された小鉄さんは、吸い寄せられるように時透無一郎さんが閉じ込められている水壺に近寄り、自身の息を水壺の中にいる時透無一郎さんに吹き込みます。

急所の一撃によって小鉄さんが亡くなってしまうのかは存じませんが(少年ジャンプの作品だから、そんなことは無いとは思うけど)、『最後の力で次に繋げる』というのは、鬼殺隊士の、ひいては人間・生物というものの遺伝子的で根源的な本能の中継を感じました。

 

 

以前に炭治郎が言っていた「人のためにすることは、巡り巡って自分のために」という言葉を引き金に、時透無一郎さんは自身のお父さんのことを思い出します。

 

てっきりわたしは、この存在を時透無一郎さんのお兄さんとばっかり思っていたので、「お父さんかいな!」と驚きました。

こんな感想はいりませんね。

 

 

そういえば、鋼塚さんが研いでいる刀はオープニング映像にて時透無一郎さんが投げている刀と同じ模様をしていますね。

てっきりわたしは、波模様?のものを時透無一郎さんが使うと思っていたのですが、原画展のパンフレットを見返したところ、その波模様の刀を使う人を知ったので(いや、大抵の方が想像していると思うけど)、刀を"投げて渡している"というなのでしょうね。

 

 

大正コソコソ噂話

今回の大正コソコソ噂話(『大正コソコソ噂話』と言っていないので違うかも…)は鋼塚さんが断崖に摑まって、腹筋・背筋、30キロの重りを背負って絶壁の崖を登る、という修行の様が描かれます。

「なんでそんなことしてんの??」と小鉄さんが問うと、「剣士が命をかけて闘っている以上、研ぎ師もそれ以上の緊張感を持って刀に魂を、込めるのだ」と答えますが、これも作者である吾峠呼世晴の想い・本懐とすることでしょう。

 

言わずもがな、この『鬼滅の刃』という作品は鬼化した現代社会・その「鬼化していることにすら思い至らない、思いやりのない現代」に対しての警鐘的な、そんな鬼化した社会で疲弊してしまった人たちに対して浄化・救済・心を洗う役割を担っていると考えています。

『刀鍛冶の里編』くらいまでいけば、ファンレターなどで「あなたの作品だけが生きがいです。『鬼滅の刃』があるから生きていけています」というような内容の手紙も多く受け取っているはずでしょう。

 

そんな、『命をかけて生きている読者に対して生半可なものは描けない、読者が求めているものの、もっともっと先にある〈無意識〉すらも震わせるものを描く。そして描くことに全身全靈の魂を込める』という強い意思の現れなのだろうな、と、酔狂な物好きは妄想します。

 

 

あと個人的に好きな考え方があって、それを引用して今回の記事はおしまいといたします。

ものを買うには、お金が必要です。

お金を得るには、労働をしないといけない。

労働には、自分の時間を売る必要があって、自分の時間というのは命と同義である。

実際にものを買って、それを読んだり、観たりという体験には時間が必要で、その時間というのも、その人の命です。

つまり、ものを買って、観たり、聴いたり、読んだりという体験は、その人自身の命を二倍使っているということになります。

なので、ものを創る人は、生半可なものを作ってはいけないし、その頂いている命に見合うと思えるものを創らないといけない。

 

youtu.be

 

 

次回、第八話は『無一郎の無』という題名だそうですが、これは原画展知識で存じております。

 

 

善い作品と出会えて、幸せですね。有難いばかりです。

 

愉しみましょう( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )