頭の中の洪水

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鬼滅の刃 刀鍛冶の里編 第九話『霞柱・時透無一郎』 感想・考察

 

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今回は鋼塚さんが刀を研ぐ場面から始まります。

前回から思っていたのですが、砥石って水がないと満足に刀を研ぐことができないのですが、どうなっているのでしょうか。

それも鋼塚家に伝わる代々の技術なのでしょうか。

 

 

魚屋?

時透無一郎さんと玉壺さんの痴話喧嘩の末、時透無一郎さんの放った壺への感想が、玉壺さんの逆鱗に触れます。

 

玉壺さんの血鬼術は、軒並み魚が用いられますが、この時に思いました。

玉壺さんって人間時代は魚屋さんだったり漁師だったりしたのでしょうか。

 

生まれた家庭が漁師か魚屋さんで、それを継ぐ継がないの話になった。

玉壺さん自身は、魚の皆さんに愛着はあったが、それよりも藝術、壺作りをしたかった。

しかし、跡取り問題やらなんやで喧嘩になった?

親類周りや友人にも自身のしたいことを肯定されなかったが、ある時、鬼舞辻無惨さんが現れ、「君の苦しみは痛いほどよくわかる。君の藝術は素晴らしい。君を理解できない人間など捨て置いて、君の藝術を謳歌したら良い。鬼になれば、好きなだけ君の藝術を、満足のいく壺を作ることができる」とかなんとか言って誑かして唆した。

『したいことがあるなら、一旦、三年間頑張れ』みたいですね、なんだか。

 

また『刀鍛冶の里編』の第一話?で、「鬼舞辻無惨さんが玉壺さんの頭を手のひらに乗せる」という場面がありましたが、あの場面でも玉壺さんは《心酔》や《崇拝》という言葉が似合うような反応をしめしておりました。

 

あの《心酔》の感情も、過去に『鬼舞辻無惨さんに理解された』という思い出?が乗っかってのものなのかな、と思ったりします。

 

こう考えると、それぞれの鬼によって『鬼舞辻無惨さんに対しての印象』が違うように思いますね。

上弦の壱・黒死牟さんは、単純に『対上司、的なビジネス感情』?

上弦の参・猗窩座さんは『畏怖』?

上弦の肆・半天狗さんは『恐怖』

 

それに対して、玉壺さんは『心酔』や『尊敬』に似たものを感じます。

といっても、藝術ってものはほとんど《対象のもの》に対して心酔したり信仰(にとてもとても似た感情)したりと、『魅せられて』から嵌っていくので、さもありなん、とも思います。

 

 

ちなみに、玉壺さんが自身の血鬼術について解説していた『経皮毒』のことですが、これはフィクションではないですよ。

 

 

自分が認めるしかない

玉壺さんが脱皮をして、〈完全体〉と変化します。

なんというか、やっぱり爬虫類が混じりますね。

 

お魚さんと爬虫類さんは、鱗繋がりではあるとはいえ、『お魚さん』から『爬虫類さん』に変わるというのは、なんで?とは思います。

 

 

脱皮する前の玉壺さんは血鬼術を多用した戰闘法でしたが、〈完全体〉となったら拳で攻撃するんですね。

もっとすごい遠距離攻撃をするのかな、と思っていたので、これもまた以外でした。

 

 

今回の話になって、ようやっと氣付いたのですが、玉壺さんって自身に対しての説明が多いですね(わたしもそうだから身に沁みる)。

自身の藝術に対しての想いとか。

 

これって『誰も玉壺さんの話を聞いてくれなった』からなんじゃないかな、と想像しちゃって悲しくなりました。

同情、とはわたしが思うに少し言葉が違いますが、なんというか玉壺さんの境遇に不憫さを憶えてしまい、少し涙が出そうになります。

『誰からも認めてもらえなかったから、自分自身で認めるしかない』ということです。

哀しい。

 

が、どうやらまっっっったくの見当違いみたい(出自を拝見した)なので、所詮は戯言である。

 

 

鎮魂

霞の呼吸で玉壺さんを翻弄し、見事、時透無一郎さんは玉壺さんの馘を討ちます。

なんともあっけない終いでしたね。

「あれ?そんなものなの?」とも思いましたが、それが柱の強さというものなのでしょうし、また〈炎の呼吸〉や〈音の呼吸〉のような派手な類の技ではなく、〈霞の呼吸〉という『静』の性質をもった類の技なので、それもそうか、と思えば納得いたします。

 

 

馘を斬られた玉壺さんは、断末魔?負け惜しみ?を喚きますが、この場面で言っていた『優生思想』の価値観って、わたしたちが考えているよりも根深い?というか、優生思想を持っている人は多いんだろうなぁ。と、感じます。為政者とかね。

 

とはいえ、面と向かってその優性思想の考えを『さも崇高』『さも、あるべき世の理』かのように主張されるのは、氣分が悪い。

 

 

産屋敷さんからの言葉を思い出し、回想する時透無一郎さんですが、痣は消えるんですね。

詳しくは存じませんが、この『痣』が重要な要素となるそうです。

 

時透無一郎さんの痣は消えましたが、炭治郎の痣は大きくなる一方なので、なんというか、心配というか、そんな氣持ちがあります。

 

 

泡を噴いて倒れた時透無一郎さんに狼狽える鉄穴森さんに、小鉄さんが「横向きにしたらええねん」と忠告します。

「しっ、、死者の亡霊だー!!」と騒ぐ鉄穴森さんに対して、小鉄さん本人から「炭治郎はんから、鍔、預かっとってな。それが護ってくれてん」と説明し、煉獄杏寿郎さんの刀に付いていた鍔が提示されます。

 

その鍔を見て、時透無一郎さんは柱に成った当時に煉獄杏寿郎さんから言葉をかけられた記憶を思いだし、そのあとに先立った三人の家族に鬼を討った労を労われます。

 

第八話の回想にて、その情景は銀杏がとても印象的だったので、意図してなのだろうとは思っておりましたが、その時点では花言葉などを見ても、ぴん、ときませんでした。

 

しかし、今回のお話を鑑賞して、なぜ銀杏だったのかがわかったような気がいたします。

 

銀杏には花言葉が多々ありますが、その一つに『鎮魂』というものがあるそうです。

『鎮魂』という言葉の意味は、〈死者の魂を鎮め、慰める〉という意味がありますが、この《死者の魂》というのは、時透無一郎さんが救えなかった両親・そして兄に対しての謝罪や罪悪感なのだろう、と感じました。

そんな「謝りたくても謝れない」という人たちから、『氣にしていない』という労いがかけられた。

また、生前はどんなに頑張っても自身の頑張りを認めてもらえなかった兄の有一郎さんから、その頑張りを認めてもらえた。

 

それらが、無一郎さんの心中に重くあった罪悪感という魂を鎮魂した、ということなのかしらねぇ、と感じました。感じ方は人それぞれなので、お好きな解釈をしてください。

 

 

戰い変わって、対半天狗さんの場面。

炭治郎が半天狗さんの龍に飲み込まれて絶対絶命の時に、甘露寺蜜璃さんが三日月を背にして登場いたします。

どうやら皆様同様の感想をお持ちみたいですが、この場面を見て『美少女戦士セーラームーン』みたいだな、と思いました。

多分製作者側も流石に意図していると思われます。

 

また、甘露寺蜜璃さんが半天狗さんの龍を斬っていく様は、その時の劇伴とも合間って『魔法少女 まどか☆マギカ』っぽいな、とも思いました。

 

 

いざ炭治郎を助け出した甘露寺蜜璃さんですが、「きゃーー!!」と可愛らしい悲鳴を上げるのは、変わらないというか、その人の個性がしっかりしているな、と顔が綻びます。

この甘露寺蜜璃さんは、声を花澤香菜さんが当てていらっしゃるそうですが、とても適役な声優さんだと思います。

「頑張ったね〜!休んでていいよ〜!偉いぞっ!」の場面とかは、甘露寺蜜璃さんの性格がよ〜く表現されていると感じました。

なんというか、演者と演じられる人物とがとても親和していて、非常に魅力的だな、と思います。

 

「禰豆子ちゃんと玄弥くんはわたしが助けるから、あとは任せてちょうだい!」と言って、半天狗さんに立ち向かっていく場面には、オープニング曲の『絆ノ奇跡』がストリングと打ち込みビートにアレンジされた曲が劇伴として流れますが、やっぱり『まどか☆マギカ』っぽいなぁ、と思います。


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コマ割り

第何話からかわからないのですが、いつからかアニメーション映像を見ていると「原作ではここでコマが描かれているのかな」と、視える?感覺があるのですが、コマとコマを映像にして繋げるのが、アニメーション表現の旨味であるのだろうな、と感じます。

いろんな表現があって、樂しいですね♪

 

 

さて、第十話は『恋柱・甘露寺蜜璃』という題名だそうです。

今回の題名が『霞柱・時透無一郎』であり、無一郎さんの過去が鎮魂された、ということは第十話は甘露寺蜜璃さんの回顧録でしょうか。

でもエンディングにて描かれているから、やっぱり半天狗さんの過去?

 

どっちでも良い!どっちでも愉しみ!です!

 

 

ありがとうございました ( ¨̮ )