本日もご訪問ありがとうございます。
「貴様らは何人だ?」と問われれば、わたしは『日本人だ』と答えます。
日本人はよく合掌をします。
「手と手のしわとしわを合わせて、幸せ」というやつです。
日常的に合掌を行います。
食事を行うとき、食事を終えるとき。
死者を悼むとき、死者を祈るとき。
願うとき。
この合掌なのですが、ふと思いました。
「これって自と他、有と無とをひとつにする儀式としてあるのではないか?」
《食事を行う》というのは、外のものを自分の中に取り込むことです。
これは『自と他を一つにする』という行為です(そもそも生物は地球、宇宙と一つ・地球と宇宙そのものであるのですけどね)。
合掌と聞くと仏教を想起いたしますが、仏教が誕生したインドはヒンドゥー教の文化が昔からありました。
ヒンドゥー教では、右手は清浄、左手は不浄を意味するそうです(だから右手で食事をし、左手で用を足すのですね)。
その清浄と不浄の手を合わせることで清濁を混合し、文化や隔たりを超える、という意味があるのだそうです。
素晴らしいですね。ガンジス川みたいです。
『合掌とは、自と他、有と無とをひとつにする儀式』に思い至った時「死者を悼むとき、祈る時にどうしてどうして合掌をするのか」と考えたのですが、それは "【成仏】ができるように" なのではないのか、と思いました。
むかしからそうですが、生者は死者のことを恐れています。
ほら、念とかで厄災も起きたりするし。
生者は死者のことを恐れているために、土葬したのちに重い石を埋めた場所に乗せるのです。
そうやって、生者は死者のことを恐れているからこそ、合掌を行なって成仏を願う。
願い。
われわれ生者は神佛に祈ります。
祈るのはどうしてなのでしょうか。
それは『自分の願い』が叶って欲しいからだと考えています。
その場合、その【願い】は何と一つになるのか。
それはいわゆる神、いわゆる佛、いわゆる集合的無意識、いわゆる宇宙、それらと一つになる。
ひとつになるから、叶う。こともある。
ということなのではないかな、と思いました〜〜。
そういえば謝罪をする時も合掌をしますが、その理由も "願い" からだろうかな、と感じます。
そういえば西洋圏でも祈る時には両手を合わせますね。
たぶん、合掌はするだけでとてつもない力がある。何百何千年と残っているし。
合掌をするときは無心で、と思っていましたが、願いながら行うのも悪いものではないのかもしれませんね。
合掌って、素敵ですね〜と思いました話でした。
皆様に幸多からん人生を(-人-)
お読みくださいましたなら、有難う御座いました。
( ¨̮ )