頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

見誤っていたかも ~『仲間意識』という一番身近な選民思想~

 

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

【ブランド】と【メーカー】の違い。その考察。

突然ですが、ブランドってあるじゃないですか。

 

服飾のものだと、プラダとかアルマーニとかバーバリーとかエルメスとか。

 

モーターの乗り物だと、クラウンやらベンツやらプジョーやらミニやらヤマハやら。

(ところでベンツはどうして「メルセデス」と呼称する方が多いんですかね)

 

樂器でもfender, Gibson, Shur, MUSICMAN, MOON, ATLANSIA, Pearl, CANOPUS、ヤマハなどあります。

 

これらのブランドの類に対して、わたしは基本的に興味がありません。

名前は存してるけど、だからってそれらに対しての所有欲があるってわけでもないのです。

 

所有してるブランド製品ってfender custom shop製のストラトくらいなもんです。

 

 

しかし、ギターとかに関してはブランドと呼称するよりもメーカーと呼称したほうがしっくりくるようにも思えます。

 

 

【ブランド】を定義したときに、何が重要になるのかと考えると、〈それがあるとステータスになるか〉だと考えられます。

いや、高額なギターを持っているというのでもステータスにはなるのでしょうけれど。

 

【ブランド】と【メーカー】の違いはそこじゃないかと感じますね。

ギターに興味がない方からすれば、Gibson社製のSGもヤマハのSGも違いなんてわからないのでしょうし、steinwayのピアノとカワイのピアノの違いは値段だけだと思ったりもするでしょう。

 

HARLEY-DAVIDSONのバイクも、モーター機器に興味のない方からすれば、一括りに「バイク」と認識されます。

 

 

いといと可笑し

さて、ここでいと可笑しなことが起こっていることにお氣付きでしょうか。

聡明な皆さまであればお氣付きでいらっしゃるでしょう。

 

いかに高価なブランド製品であっても、興味のない人からすれば、それは『ただの物』ということです。

つまり服飾に一切の興味がない人がすると、「は?ただの布だろ?ただの布に何萬圓も使うの莫迦じゃね?」となるわけです。

 

『ブランド品』と呼ばれているものも『メーカー品』と呼ばれているものも、大した差はない。

五十歩百歩、どんぐりの背比べ、同じ穴の狢、というわけです。

 

では、「ただのメーカー品をどのようにして〈ステータス〉のある【ブランド品】にするか」なのですが、それはもう言わずもがなではありましょうが、広告を打つ。これに限るんだろうな、と思います。

 

嘘だとも思っていただいて差し支えないのですが、大したことないものでもある一定の『広告費 a.k.a マーケティング費』をかければ、それなりに売れるんです。

 

世の中、金ということですね。

 

‾\_(ツ)_/‾

 

 

そんな、【ブランド】と【メーカー】の違いについての考察でした。

上記を踏まえて、今回の記事をお読みください。

 

上記考察したことは記事には関係ないかも知れません。

 

 

見誤っていたかも

或る日の朝、労働に、誠に辛苦な労働へ向かうため公共交通機関を用いておりました。

 

公共交通機関は公共の公共交通機関であるがため、様々な方が利用します。

 

そんな屋内で、ある有名な市松模様をあしらったブランド鞄を携えた方を見ました。

 

 

前述の通りわたしはブランド製品には興味がありません。

ですので「皆さん一様にブランド品を携えていらっしゃいますわねわね」と思って傍観者というか、外にいる人間的な立場で市松模様鞄を見ていました。

 

そのときにふと思ったんです。

「『みんなと一緒がいい』ではなくて『仲間外れが嫌』なんじゃあないのか?」って。

 

 

仲間意識は仲間はずれを生み出す

なんかしらんけどブランド製品ってみんな持ってますよね。

なんでなんですかね。

 

わたしはこれまで、その理由を『他者と一緒を望んでいる』からだと思っておりました。

平均主義のしょうもない義務教育的思想の弊害です。

 

 

しかしですね、わたしはその理由を見誤っていたかもしれません。

皆が一様にブランド品を持ちたがる理由、それは『仲間はずれにされることに対して恐怖を感じている』からなのではないでしょうか。

 

 

皆が一様にブランド品を持っている、そうすると持っている人同士で交流が生まれたりもします。

ここで重要なのは《特定のブランド》である必要はない、ということです。

 

【ブランド】ということが大事なのです。

 

 

ブランド製品を持つ、そうするとブランド製品を持っている同士で交流が生まれたりする、その交流は『仲間意識』を生む。

そんな仲間意識の集団が「ブランド品を持っていない人」を見つけたとき、どうなるでしょうか。

 

「仲間ではない」と判断するのではないでしょうか。

 

つまりは『仲間はずれ』です。

 

仲間意識は仲間はずれを自然と生み出すのです。

皮肉なものですね( ¨̮ ) 愚かなことです( ¨̮ )

 

 

不安で仕方がない人たち

『仲間はずれに恐怖してブランド品を持つのではないか』との推察を前項で書きました。

 

ここの『仲間はずれに恐怖する』というのは、朝井リョウさんの『正欲』でも言及されていたことですね。そういえば。

 

 

『仲間はずれされることに対して強い恐れを感じている』のではないか、の推察ですが、当然のこと当事者は自覺なんてされていないでしょう。

そもそも自分の脳みそで考えることが苦手且つ、自分から思考を放棄しているような方々です。

「流行」は意図して作られていることに無自覺な方がほとんどみたいですから。

 

そんな方々に「ブランド品を持つのは、仲間はずれにされるのが怖いからなんでしょう?」と話しかけたところで、ぴんと来ないか、怒られてしまうでしょう。

まぁ "怒った" ということであれば、少なからずの図星は含まれているのだと感じるのですけれど。

 

 

『世の人間が仲間はずれにされることを恐れている』という色眼鏡をかけて外を歩けば、色々と面白く興味深いことに氣付きます。

 

例えばブランドのロゴがプリントされたお洋服を着ている方、沢山います。

あれが『自分は敵じゃないですよ』という無意識の意識化した表現だったとしたら。

 

 

人は仲間はずれにされることを嫌います。

使い回された話ですが、生物は一人では生きていない。それが理由としてあるためですかね(地球、はたまた宇宙がないと生きることはできませんし)。

 

ほとんど無意識で仲間になろうとし、相手が自分の仲間たり得る人物か否かを取捨選択しているでしょう。

と、いうことは、無意識に「わたしはあなたの敵じゃないです」の意思表示をしていることでしょう。

 

その無意識の意思表示が『ブランド品を身につけること』であり、『 "ブランドロゴのプリントされた服飾品" を身につけること』なんじゃあないのか、しら。と考えた次第ってわけです。

 

そう思って街ゆく方々を見ると、なんだか愚かしくて可愛く見えてきそうですね。

 

 

ちなみに【ブランド品】でなくても、特定の作品のグッズなどといった趣味嗜好の類でもこの考え方は有用だと感じます。

 

 

 

ところで『《特定のブランド》である必要はない』と、上記いたしましたが、実は【ブランド】や趣味嗜好どころか、物ですらなくても良かったりもするみたいです。

 

 

あぶり出しの装置

面白いですね。

自分で考えた一推論でありながら、非常に面白いお話、仕組みであると感じます。

 

あ、もちろん、わたし個人の一推論、というところですので、そこはお忘れなきようお願いいたします。

好きに生きてください。

 

 

『ブランド品を持つことが生存戦略だ』というようなことを当記事では言及しているわけですが、「別にものである必要すらないのだ」と思い至りました。

 

どうやって「自分は敵じゃないですよ」の人間をあぶり出すのか。

 

 

おそらくなのですが、【流行】ってそれらをあぶり出すためにも機能しているのではないでしょうか。

 

日々、生活している中で、絶えず流行というものが巻き起こります。

盛者必衰、本当に色々なものが流行っては見なくなっていきます。

 

この【流行】というものに準ずるかどうか、その動向こそが『仲間意識』を生み、「相手が自分の仲間たり得る人物か否かを取捨選択するための装置」として機能しているのではないか、と思うのです。

 

 

特定のお洋服ブランドが流行れば、その服を着るか否か。

服の着こなし方が流行れば、それを取り入れるか否か。

ある曲が流行れば、それを聴いて布教するかカラオケで歌うか否か。

ある病氣が流行れば、それに対しての対策を行うか否か。

 

流行に準ずるか否か。

 

 

【流行】によって結果的に物は持っていたりしておりますが、"物" は関係なく主義主張、そして思想こそまであぶり出されるわけです。

なんだか怖くなってきましたか?世の中って案外そんなもんだと思いますよ。

 

何があぶり出されるのか、といえば、〈経済を回すための主力たる金づる〉であること、なのですが、まぁそこの話は今回は関係ないですね。

 

 

【流行】というもの一つで主義思想から仲間意識者まで、あらゆるものが判明するようです。

 

 

つーかそもそも仲間意識って選民思想じゃね。

人間、もとい生物は得体の知れないものを恐れる傾向があります。

 

以前の記事でも「相手の素性がわからないのは、怖い」というようなことを書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

素性の知らない人が自分のいる組織や村に立ち入れば、大きな損害が発生するかもしれない。

だから、相手を知ろう(見定めよう)とする。

そのためには『仲間意識』が必要となるし、「相手が自分の仲間たり得る人物か否かを取捨選択する必要」も生じてきます。

 

これは生物自体の至極真っ当で正当な仕組みだと考えます。

 

 

でも、わたし思ったんですよね。

『仲間意識』って、選民思想じゃない?って。

 

選民思想って、世間的には惡とされているじゃないですか、『白人至上主義』とか『上級国民』だとか。

選民思想は「我々上のものが下のものを導く」という理念の下に発生しているらしいので、正確には仲間意識とは相違があります。

 

ですが、選民思想も根本は『仲間意識』から萌芽しているんじゃないのでしょうか。

 

 

結論ですが、『仲間意識』って、氣持ちが惡いよ。

 

 

『仲間意識』が省くもの

『仲間意識』は『仲間はずれ』を生む、とも書きました。

 

『仲間意識』を信条として運営している『少年ジャンプ』も、読者はその雑誌で掲載された作品を読んでいない人を除外します。「読んでから出直せ」みたいな。

愚かですね。

 

 

『仲間意識』は色々なものを『仲間はずれ』にしますが、その究極って「同性愛」への糾弾じゃないかと思うんですよね。

これは同性愛は良くないなどと言及しているわけではなく、どうしても生物には性別というものがある関係上、〈つがいとして子孫を残すというプログラミング上のシステム〉があります。

 

その異性愛者(ヘテロセクシャル)の数が圧倒的多数である。

多数派の『仲間意識』が圧倒的にあるため、同性愛者(ホモセクシャル)を『仲間はずれ』にして除外しようとするのではないか、と考えます。

どうしても〈子孫を残すというプログラミングのシステム〉上の影響というのもあるのでしょう。

 

 

だからと言って、「システム上仕方ないのだから『仲間はずれ(同性愛者糾弾)』を推奨する!」というわけではないです。そういう意図は一切ありません。勘違いしないでください。

あくまでも、わたしというけったいな一個人のけったいな推論としての所感です。

 

 

結局のところ、好きに生きて

どうぞ、お好きに生きてください。

これに尽きますね。

 

愚かな人間生活、どうぞお好きに。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )