頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

由々しき問題

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

最近、わたす、思うことがあるんです。

 

あたすは本を読むのが好きなのですが、その読書時に最近『書かれている内容を無意識に改変していた』ということに氣付いたのですね。

平野啓一郎さんの『本心』を読んでいた時くらいからなので、一ヶ月ほど前からでしょうか。

 

本来の文章が「目覺まし時計の音が、意識を早朝の自分に戻した」だったとしたら「目覺まし時計のけたたましい音で、意識を早朝の自分に戻した」と読んでしまっている、というような感じです。

改変して読んでいることに氣付くのは、流石に文章の意味が伝わらなくなるためです。

 

由々しき問題じゃないですか。

意味合いが変わってくるし、なんだったら真逆の単語に改変していることすらあります。

ひどいものです。

全くもって由々しき問題なのですよ。

 

いや、そりゃあ単純に『集中力が著しく低下している』ってのはその通りだと思います。

 

そして、この由々しき問題が自己の中にあると認識した時、思うことがあります。

それは人との会話場面での話です。

 

読書と会話はもちろん違いはしますが、相手が話しているときに〈相手が発した言葉〉の意図を改変して受け取る、そういったことが起こりかねない。

という懸念が鎌首をもたげるわけです。

 

というか、すでに現実世界(わたしが生きているより外めの世界)ではそれが起こっている。懸念が懸念ではなくなっている。

 

これって以前に書いた『会話していて、自分が意図することが相手にうまく伝わらない』の話なんですよね。

floodinhead.hatenablog.com

 

清書的な意味合いといいますか。

 

 

正直世界の人間はすでにその【意図の改変】を多くしているのでどうだってよいのですが(ここ数年で民の阿保化が進んで、それをする人が多くなったように思います)、わたしが恐れているのは、会話においての【意図の改変】を自分自身がしているのではないか、というところです。

これはね、恐ろしいですよ。

本当に。

 

善くも惡くも、自分の都合よく物事を解釈するってことで、思い込むってことです。

それの何がよくないかというと、その全く事実と反する思い込みで他者に迷惑をかける可能性があるため、なのです。

 

わたしは昔から被害妄想的な部分があります。

そのため会話上での【意図の改変】を無意識に行って、自分勝手に激する危険があるということです。

恐怖です。恐ろしいのです。

 

 

読書というのは『一方的に受け取るもの』ですので、最終【意図の改変】を行っても別に問題ないとは言えてしまえます。

 

しかし、会話というのは相手が居て成り立つものです。対話を行っているわけですからね。

ということは『一方的に受け取るもの』ではない。そんなことがあるわけないのです。

その《対話》を行う状況で、無意識的に【意図の改変】を行って解釈する。

 

これの恐ろしさたるや。

危険です。

 

 

このブログなんてものは別にわたしの考えを垂れ流すだけの機関として役割があるので、自己解釈をして内容を書いたって別に問題はありません(もちろん程度にはよる)。

ですが、対人においての《対話》を行う場合じゃあ、一方的に無意識で自分の都合よく解釈するのは許されません(案外多いけれど)。

 

 

では、その【意図の改変】が行われるのを防ぐためにはどうすればよいのか。

とどのつまりその対策とは『まずは相手の話を聴く』ことしかないのだろうと思います。

 

「相手が話しているときに自分が返答する内容を考えない」というあれです。

 

結局、相手の話を聴かずに自分の話を考えているから、聴きながしてしまった言葉を想像し補完する。

それによって【意図の改変】が発生してしまう。

 

若干論点が変わっているようにも、我ながら思う。

 

 

ですが、そもそも『書かれている内容を無意識に改変していた』のって、氣もそぞろ、心ここに在らずで読書という行いをしていたからじゃないのか、とは思います。

ということは氣もそぞろで会話をすると、相手が発した言葉に対しての【意図の改変】が発生しえる、ということです。

それは強く思います。

 

最終的に「それは集中力が著しく低下したから起こった」という凡庸な理由ではあるのですけれど。

ちゃんと集中して読書をしていたら書いていることを改変なんてしなかったはずですし。

 

 

とりあえずはそういった注意喚起を自分に対して自覺できただけでも御の字かしら。

全くまだまだ至らない未熟者ですよ。若造です。

 

 

 

ところで、会話って難しくないですか?

わたし自身が「一般的な言葉で説明なしでも伝わる」と思っていた言葉が伝わらないことが多々あります。

『齟齬』や『嘯く』なのですが、正直、漢字自体は難しいです。

ですが「そご」「うそぶく」という言葉の意味くらいは共有されていると思っていました。

 

しかし、そんな考えは思い込みである場合がほとんどで、『食い違い』や『知ったかぶる』と言わないと通じないことがほどんどであるようです。

 

「え〜、そんなとこまで面倒見ないといけないの?」と「仕方ないな、そりゃ伝わらないと意味ないしな」の氣持ちがまだら模様に混ざっております。

後者の方が強めではありますが、割と諦観の念はあります。

 

うーん、難しいですね。

 

 

とはいえ、この記事はある程度は脳内から出てきた言葉をそのまま書きます。

「自己犠牲ってどういう意味ですか?」って言われたって、それはそれぞれの熟語の意味を知らない側にも責任はあるでしょうに。

『自己』と『犠牲』の意味くらいは知っていてよ、それは一般常識レベルじゃないのかよ。

 

好きに生きれば良いのですが、さすがに言葉を知らない人へわざわざ一々毎度合わせるのは骨が折れる。

 

 

やーね。

わたし自身も人様に対して偉そうに言える人間ではないので、もっと精進します。

 

 

 

ありがとうございました。