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〈知的エンターテイメント〉
一般に『オカルト』と呼称されるものは〈知的エンターテイメント〉と呼ばれていたりします(一般的かどうかは知らない)。
オカルトとは総称でございまして、幽靈や宇宙人、UAP(古の表現だとUFO)、UMA、最近では都市伝説もオカルトの一部であるかなぁと思います。
そのオカルトと称されているものが、どうして〈知的エンターテイメント〉と呼ばれているかについて、最近理由が判明したような氣がいたします。
ということで、今回は〈知的エンターテイメント〉について書きます。
一般的に『オカルト』と称されているものは、科學的な意味合いで証明がされておりません。
そういった理由故に「本当にあるの?胡散臭い。非科學的ー 笑」と敬遠されがちです。
が、そのように「証明されていない」からこそ、『オカルト』というものであり〈知的エンターテイメント〉と呼ばれるのだと思われます。
「証明されていない」ということは実態が摑めない。
→実態が摑めないということは、そのもの・ことを想像する。
→→想像するには、知力が必要になる。
というわけです。
結論、オカルトは想像力・知性が必要になるから〈知的エンターテイメント〉と呼ばれている。
あらまぁ、もう結論が出てしまいました。
結論が出たのでもはや蛇足となりますが、人は不確定な要素を嫌います。
不確定なものは不安定なので不安を感じる、ということです。
なので、人はその説明が偽りであっても目の前に提示された説明を信じる。安心をしたいから。
また人間は怠惰な生き物らしいので、エネルギーを使って想像することを嫌う。
疲れるからですね。
「そうやって説明されてるんだからそれが真実でいいじゃーん」という心理構造です。
( ◠‿◠ )
そして、その説明要素として、ヒジョ〜に効果を発揮するのが『科學』というものです。
( ◠‿◠ )
科學ってすごいですよね。
なんでも説明しようとするんですから。
科學で証明できないことは「非現実的であり得ない嘘」ともするし、科學が説明できないことには「まだ科學の解明が追いついていないだけ」と弁解をします。
そういった『想像の余地がない答え』を、科學というものは与えてくれるのです。
考えることを放棄したい、疑問を感じずに生きていたい方々にとっては御誂え向きな体の良い【神様】ですね( ◠‿◠ )
世間では「オカルトを信じる人間はあほ」だという認識があったりしたりしますが、こう考えると【科學を無条件に信じている人間】も同様にあほである、ということになりますね。
なんとも面白い逆転構造というか入れ子構造的なものだと思います。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
正直わたしがどうしてこれほどまでに科學に対して敵対心をいだいているのか、わたし自身も不明です。
もともと科學というもの自体にはそこまでの嫌惡感はなかったのだけど、あまりに世間多くの人間が『 "科學で証明されること" を無条件に信じていること』と『その構図は宗教への信仰と大差がないのに、"科學を信じることも宗教的側面を強く持っている" ということを自覺していない』ことに阿保らしさと憤りを感じているから、でしょうか。
視座が低い、というのか。
まぁ視野も視座も低くて狭い方が人生幸せではあると思います。
とはいえ、こんなようなことを偉そうに宣っているわたし自身も視野がせまけりゃ視座も低いと思っています。
【自身の脳で考えたくない大衆】が大多数となった結果、科學自体に敵対心を抱いた。
直接的に科學は関係ねえじゃん。
結果的にわたし自身も阿保なんじゃあねーかよ。
あほでした( ¨̮ )
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オカルトと呼ばれているものがどうして〈知的エンターテイメント〉と形容されているのか。
それは『科學的に証明されているもの / いないもの』に対して「実はこれはこうなのかもしれない」と想像する知性を必要とするため、その想像にすら面白がれる知性があるためでした。
ちなみに、わたし自身といたしましては都市伝説と怪談(幽靈話も人怖も)が特に好きくらいで、宇宙人、UAP、UMAについてはさほど興味はありません。
「そりゃあ人間だって宇宙の生物なんだから宇宙人やらUAP、UMAくらいいるだろうに」と思っているからです。
しかし『UMAは人間がなんらか実験を行なった結果生まれた』という話になれば別です。
この「なんらか」が、また想像の余地を生むのですね( ¨̮ )
こうなると《人間の想像こそが最高のエンターテイメント》にもなります。
何においても人間が思考しないと物事は生まれませんからね。
ありがとうございました( ¨̮ )