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心理機構
今回はデリケートなお話をひとつ。
整形手術を繰り返す方がいらっしゃるじゃないですか。
整形手術を繰り返す心理は人それぞれあると思いますので、別に否定とかをする氣はありません。
しかし『もしかして』の要素を思いました。
整形手術を繰り返す方に虐待を受けた過去があるとして。
その過去が整形手術に結びつくということは有り得たりするのではないでしょうか。
実の親から直接虐待を受けたというのであれば、成長によって親の面影を自分に見出し、トラウマが呼び起こされる。なんてことがある。それが嫌だから整形をする。
または親族から『親譲り』としてひどい嫌味を言われたり。
幼少期に言われたことで酷く傷ついた過去があり、それを忘れるために整形手術をする。
そういった経緯があったりするのかしら、と、ふとこの間思いました。
しゃらくせえエビデンス主義
ところでこの間【風の時代】についての考察を書きました。
その【風の時代】って、『《可能性》を慮る』ということも含まれてるんじゃないかな、と思いました。
この十数年、やたらと「やれエビデンスを提示しろ」とうるさく言われていました。
ここで書いているような内容をわたしが実際に話した時でも「で、それの根拠は?」などと言われることもあります。
そもそもが『こういったこともあったりするのではないか』という《可能性》の話をしてるんだっての。
全くやれやれって感じです。
『エビデンス』とは証拠とかって意味合いですが、この『エビデンス至上主義的価値觀』こそ【土の時代】的な賜物なのではないでしょうか。
【土の時代】は前例のあるものや根拠のあるものが優遇される時代でした。
この権化として表出したのが前述の『エビデンス至上主義的価値觀』だった。
そうは思えないですか?
ゆらぎ
《可能性》とは、「ゆらぎ」です。
ゆらぎとは、風などの流動するものがあるから起きることです。
「ゆらぎ」がないものは結着や、固着が根底にあります。
【根】という言葉はこれこそですが、土という礎があるからです。
『これはこうだ、これ以外にあり得ない』という意識や考え方は、固着です。
『こうなっているものは、これこれの理由があるのかもしれない』と可能性を想像することは、ゆらぎです。
確かに不確かな要素は強いです。
しかし、我々が『これはこうだ』と思ったことってのは、本当の本当に正しいのでしょうか。
"不確かが不安" だから【正しい】と思い込んで固着しているだけ、という《可能性》はありえませんでしょうか。
この話も、この話こそ《可能性》の感覺でお考えください。
ありがとうございました( ¨̮ )