頭の中の洪水

観察と思考と分析の日記ですよってね。たまに思想家が顔出します。よってね。

俯瞰・鳥瞰・桶屋算

 

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

先日、2025年一冊目となる『オーデュボンの祈り』を読み終わりました。

 

 

年明けに言及しておりました【伊坂作品発表順に読み返しシリーズ】の幕開けです。

 

 

喋るカカシ

この『オーデュボンの祈り』という作品には喋るカカシが登場します。

突飛ですね。

 

主人公は伊藤という青年で、ある時出来心で自棄を起こした結果、荻島という誰にも知られていない有人島に連れてこられます。

そこには人の言葉を介し人間と意思疎通をするカカシがいて、どうやらそのカカシは未来がわかっているそう。

 

そのカカシは島民から大変に頼られていましたが、ある時何者かに殺害されます。

 

『カカシを殺害したのは誰か』を主軸に物語が進んでいくミステリ作品。

それが『オーデュボンの祈り』です。

 

 

カカシは人間よりも優位に立っています。なぜかって未来がわかっているから。

しかし、カカシはその未来を話そうとはしません。理由は「未来がわかっていたらつまらない」からです。

 

このカカシは未来を知っている。ということは、神の立場にいるということになりますね。

 

 

天氣を予報する猫

主人公の伊藤は自転車を漕ぎます。

それはなぜかというと、カカシに「自転車を漕ぐでしょう」と言われたから。

 

『カカシは未来のことを言わない』んじゃなかったのか?と思われたでしょう。

主人公の伊藤も思いましたし、島民にそれを話しても信じようとはしませんでした。

 

はたして、伊藤はそのあとに自転車を漕いでいました。

島唯一の郵便局員から自転車を借りてまで、です。

 

 

伊藤は荻島に単身やってくるわけですが、それは自身の意思ではありません。

島の運び屋である轟が伊藤を荻島に連れて来たのです。

 

そんな伊藤に日比野という青年が島を案内して回ります。

 

その道中、日比野がある猫を指して言いました。

「あの猫は雨を予見するんだ。木の下で寝ていたら当分は晴れ。木に登っていたら雨になる」

 

そう言われても伊藤は信じません。

「天氣予報をする猫なんて聞いたことがない。そんなことがあるのか」そう日比野に対して反論します。

 

 

そのあと。伊藤がカカシ殺害の真相を捜査しているときに件の猫を見ました。

猫は木に登っています。

するとすぐ後に雨が降りました。

 

 

風が吹けば桶屋が儲かる

風が吹けば桶屋が儲かる』ということわざがあります。

風が吹く

→砂が舞う

→砂が目に入ったことにより盲人が増える

→盲人だろうが生きねばならない。食うために三味線弾きになる

→三味線を作るためには猫の皮が必要になる

→と、猫の数が減る。ので、ねずみが増える

→ねずみは齧歯類なので何かをかじらないとやってられない

→ねずみが桶をかじる。

→桶屋が儲かる。

 

というもしかしたら八百長的寸法でございます。

 

 

似たような意味合いの言葉で『バタフライ効果』というものもあります。

蝶々の羽ばたきが起きたことによって、遠くの土地で竜巻が発生する可能性。みたいなお話です。

 


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猫は何を見ていたのか

天氣を予見する猫、伊藤はそれを目の当たりにしました。

そして、そのタネを解き明かします。

 

 

~あ、ネタバレします。カカシ殺しには関係ありません~

 

 

猫は天氣を見ていたのです。正確には雲の様子を見ていた。

空は繋がっていますが、であれば遠くにある雲の様子から天氣を予測することはできます。

そもそも、現代の天氣予報も遠くにある雲の様子を見て決めているらしいです。

 

猫は、その空模様を觀察するために木に登っていたのですね。

 

 

さて、このお話で、わたしは思ったことがあります。

それは辛苦や憂鬱についてです。

 

 

俯瞰・鳥瞰

風が吹けば桶屋が儲かる』との話を引用いたしました。

これは、このお話は、流れとしてできています。

 

しかし、考えてもみれば一連の流れと認識して見えていようが、それは独立しているものでもあるわけです。

 

風が吹いたから砂埃が舞ったわけですが、別に舞わないこともありえる。

『砂が舞った』というその事実だけ、です。

別に風が吹かなくても盲人にはなるし、盲人になったからといって必然的に三味線弾きになるわけでもない。

 

言ってしまえば、これらは我々が勝手に判断したものとなります。

 

我々人間が『風が吹いたから桶屋が儲かった』という解釈をしたということでしかない、というわけですね。

 

 

植物の種が萌芽する。その後に土から芽を出して成長をする。

これは一つの流れとしてありますが、それがあったからといって別に森の流れの一つとしてあるわけでもない。そう考えることもできます(とても大きな大河のような流れの一つと解釈することもできる)。

 

 

さて、人々が抱える様々な辛苦の数々ですが、これって、上記したような〈流れ〉を無視しているからあるのではないでしょうか。

 

『砂が目に入って失明した』という出来事だけを抜き出せば、それは悲劇です。

その悲劇部分だけを味わっている。

辛苦とは、その状態ではないのか?ということです。

 

道筋は様々ありますので、好転するための重要な要素として『失明』がどのような位置にあるのかは書けませんが、少なくとも『失明』という事実にだけ注目するより、「失明はしちゃったけど、そのあとの流れ次第」と思っている方が、精神的健康はよいと思います。

 

 

わたし自身もそうですが、どうしても人間は目の前のことにかかりきりになってしまいます。

目の前の出来事に翻弄されて踊らされるのです。

 

そんなときに、俯瞰で物事を見る意識付けをしていたり、鳥瞰する癖をつけていたら、少しでも氣分は紛れるのではないか。そう感じます。

 

 

知能への責任

『オーデュボンの祈り』を読み終わったあとは、以前にも言及しておりました『フロリクス8から来た友人』を読んでおります(もうあと20ページくらい)。

 

その作品ではプロヴォーニという人物が地球を出てから十年後に地球へと帰ってくるのですが、プロヴォーニが地球を出た理由に関心?驚嘆?をしました。

 

『SPIDER-MAN』シリーズでは「大いなる力は大いなる責任を伴う」という戒めがありますが、まさにそんな感じです。

プロヴォーニの場合は「大いなる能力を持ったものは、大いなる想像力を持ってして世界を觀なければいけない」といった方が個人的にしっくりくるのですけどね。

 

 

『オーデュボンの祈り』はリョコウバトの話を引用していることが有名ですが、あれも上記と同じようなこと、戒めだと感じます。

人間は、人間自身が「知恵知能を有している」と自負しているのならば、それ相応の想像力を以ってして発言や生活をしないといけない。

 

斯様に思いました。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )