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【伊坂作品発表順に読み返しシリーズ】2
わたしは伊坂幸太郎さんの作品が好きです。
先日『オーデュボンの祈り』を読みましたが、一昨日『ラッシュライフ』を読み終えました。
この『ラッシュライフ』という作品は四人いる主人公の生活がリレー形式で紡がれていく群像劇なのですが、その紡がれ方というか、描かれ方がまさに伊坂幸太郎マジック満開で樂しいお話です。
その手法もあってか、ミステリというよりもエンタメ作品の趣の方が近いように感じます。
ちなみに再読作品であり最後に読んだのは十年以上前なのですが、八割方内容を覺えていました。
『オーデュボンの祈り』の時よりも覺えていたのは、作品に込められた伊坂マジックが鮮やかだったからか、作品が鮮やかだったからなのか。
また一作目である『オーデュボンの祈り』ではしっとりと湿った感触を感じましたが、『ラッシュライフ』では "ドライ" な感触を覺えました。
この "ドライ" という感触ですが、物語が神の視点で進行するからなのかしら、と考えます。
上記した通り『ラッシュライフ』は四人の主人公がいるのですが、実際の主人公は四人のうちの二人である河原崎と豊田であると考えております。
もっと言えば河原崎が本当の主人公であり、その河原崎は神を巡って一日が繰り広げられます。
そのため、この『ラッシュライフ』は神の視点で描かれているのだと感じます。
優午の言った通り
さて、今回の『ラッシュライフ』は【伊坂作品発表順に読み返しシリーズ】の一冊です。
「八割方内容を覺えていた」と書きましたが、内容を覺えていたがためにしばしば退屈をも覺えてしまいました。
「これも再読するということかな」などと思いましたが、《作品を見返す》というのは少なからず先の展開がわかるということです。
それに至って「『先の展開がわかる』これも神の視点の一つだ」と面白味を感じたのですが、同時にある言葉も思い出しました。
「未来がわかるのはつまらないんですよ」とは、『オーデュボンの祈り』にて案山子の優午が言っていた言葉です。
思わず苦笑してしまいましたね。
荻島では案山子の優午は神的な位置にいました。
その神である存在が話していたこと、それを実感した次第です。
実際に体験すると優午の意見にも納得です。
作者である伊坂幸太郎さんもミステリー小説を読み返していて同じ経験をされたのでしょうか。
神は全知全能というけれど、どこまで?
神。
それはよく全知全能と言われます。
これって "より神を偉大な存在として信者に認識させるため" に付加された要素である可能性も大いにあると思うのですが、実際に神という存在が全知全能であるならば、それってどこまでなんでしょうかね。
もうちょっと解像度高く表現をするのならば『我々の意識や思考までも手に取るように分かっているのか?』ということです。
アカシックレコードとかって言いますが、それは「誰それはこの日このような行動をします」と書かれているだけで『このように考えたため』は書かれていないのではないのか?と思うのです。
つまり、神は「それやったらこうなるよー」とは言えるけど、その人の思考は窺い知れない。
なので「えっ、そう考えたんだ」と驚くも「じゃあこうなるねー」と示す。と、そんな感じとかもありえるのではないのか、と思うのです。
バタフライ効果はありますが、分岐も複数ある。
それこそ優午が話していたことですね。
「未来には色々な可能性があるのですよ」
右の道を進んだ未来もあるし、左の道を進んだ未来もある。
わたしなんて一介のポン酢野郎なので実際のところはわかりませんけどね。
基本的に人間には未来を知ることはできませんし、未来はわかりません。
それは未来が分かってしまうと退屈でつまらないからなのかな。
ということは神ってのはとても退屈な生活をしているのかもしれない。
右往左往して供えたりするという行動こそが、生においての愉しさというものなのかしらね、などと思いました。
しらね〜けど。
DogもGOD.
そういえば、以前にGODの言葉についてを書きました。
創造神と維持神と破壊神の三神がいて(天照・月詠・素戔嗚や、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァなど)、「創造・維持・破壊」を英語にしたときにGenerator, Operator, Destroyerとなる。
それらの頭文字を合わせて、GODにした。という仮説です。
『ラッシュライフ』を読み終わった今は『よくわかるヒンドゥー教』という書籍を読んでいます。
こちらの書籍もまた面白いのですが、その中で『ブラフマーが世界を創った。そして我々も創った訳で、我々はまたブラフマーに還っていく』と書かれておりました。
肉体という物質がある(と思っている)我々ですが、それが還るためには死が必要です。
死とは表現を変えれば破壊でもあります。死があるから、創造という生が発現される。
また〈死・破壊がある〉というのは、それは他の生が生を維持するために必要であるということでもあります。
『創造・維持・破壊』があるために『創造・維持・破壊』が生まれる。
これは非常に地球ちっくなところです。
我々は死ぬが、その死があるから他の生物は生を続けることができる。
他の生が死んだから、我々がある。
ウーン、全く地球です。
そして上記した運動、循環はフラクタルとして発生している。
地球規模のものは宇宙規模であり、我々の生体規模でもある。
地球は我々が暮らす場所でもあるし、我々は地球の構成物質の一つである。
『創造・維持・破壊』の循環は我々も持っているし担っている。
ということは、我々も神である。
退屈ですね。
やっぱり退屈をしないために、自ら未来を見ないようにしているのですかね。
だとしたら物好きで酔狂なやつらだな。我々は。
しーらね。
ありがとうございました( ¨̮ )

