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先日わたしはヒンドゥー教の本を読みました。
「ヒンドゥー教の本」と一口に言っても内容は入門的というか、あくまでもその宗教とその成り立ちを紹介するような内容でした。
大変興味深くはあったのでヒンドゥー教を扱った別の書籍をまた別の機会に読んでみたくなりました。
悟りタイム
ところでヒンドゥー教といえばブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァの三神が象徴的な宗教であります。
それぞれの神を説明するなら、ブラフマーは創世の役割、ヴィシュヌは維持の役割、シヴァは破壊の役割です。
書籍内にて『ヴィシュヌは維持を司るが、何千年何万年と維持の役割を務めているので、実は懐が相当深い』と言及されておりました。
わたしにはその視点がなかったので非常に興味深かったです。
さて、ヴィシュヌとシヴァは人間臭い部分があるため信仰者には人氣が高いそうです。
『自分たちと似たところ』が垣間見えるから親近感を感じるのでしょうね。
一方でブラフマーは人氣がないわけではないのでしょうが、他の二柱に比べたら人氣は劣るそうです。
それも先に述べた通り『自分たちと似たところ』が垣間見えない』 = 《神としての役割》を濃く呈しているからでしょう。
梵我一如
このブラフマーは [梵天] とも言われ、謂わば "世界" であり "宇宙" です。
それに対して我々血肉の通う人間は [我] と表現されます。
ヒンドゥー教の価値觀・考え方において、この [梵] と [我] は同じだと考えられております。
『 [梵] と [我] は同じ』とする考え方は【梵我一如】と言われるのですが、この価値觀を知った時に思ったことがあります。
「あれ?これと同じことわたし思い至ってなかった??」
【梵我一如】はヒンドゥー教でいうところの悟りであるそうです。
上記に引用いたしました過去記事の『紙一重』とは「地球に存在してるってことは我々も循環の一部じゃんね。ということは地球を神とした場合、そこを循環してる我々も神なんじゃね?でも自分から見た他人も同じ立場だから尊重しないとね。イェー、唯我独尊」という考え方で、わたしが思い至った一つの解答です。
『世界(梵)と自分(我)は一緒』と考える【梵我一如】と同じではないでしょうか。
【梵我一如】は悟りの一つだということですが、当のわたし本人は「majiかよ〆」とばかりに笑ってしまいました。
どうやらわたしはすでに悟っていたらしい。
しかし少しばかり思うこともある。
解脱できてないじゃん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
わたしは中學生くらいの頃から人間に対して辟易として嫌いをとても感じておりました。今もそうです。
人間に対して圧倒的嫌いを覺えたわたしはどうしたのか。どう考えたのか。
善行を積んでさっさと解脱をしよう!しょうもない人間様ざま共のいる世界とおさらばしよう!そのためには解脱だ!
それ以来、人間より不当に虐げられている動物の皆様諸氏には優しくし、人間と呼称される塵芥が産んだ塵を拾い、西に酒で潰れた屑がいたらお水を買ってお供えするなど大小様々な善行を行ってきました。
その一つの結果として今年の頭に置き引きに遭ったわけですが、この度悟りを得ていたことを知りました。
悟ったら解脱できるんじゃないのかよ!
どうやらたとえ悟りを得たとて、「天寿は全うしろ!!!」ということなのかも知れません。
「そんな〜( ´・ω・)」という感慨です。
まあ『紙一重』ついては物質的觀点からの発見ですので精神的觀点では悟っていないということなのかも知れない(大いにあり得る)し、"悟れれば解脱" という構図だとわたし個人が勘違いしていた可能性もある。
兎にも角にも「まだまだ醜い人間世界で生きないといけないのか」と思うと、標準的太陽の塔顔にもなるし困惑した太陽の塔顔にもなってしまいますね。
しかしまあ確かに色々と発見もあるもんな。
別の機会に書きますが、《なぜ生きるのか》という命題に対しての一つの解答にも至ったし。
今回は【死】についてのおはなし。
所詮【死】は経由地点のひとつ
輪廻転生という価値觀があります。
『生は繰り返すよ!』という考え方で、「死んでも同じ魂のまま生まれ直すよ!」という価値觀です。
永劫回帰と似た趣はありますが、全く別物です。
ヒンドゥー教においても輪廻転生の価値觀が色濃いそうで、わたしの核となっているアニミズム思想もあるそうです。
さてこの【死】って恐れる方が多くいらっしゃるみたいじゃないですか。
これってどうしてなんでしょうね。
結局死ぬんだし別に良くね?と思っている。
しかしまぁ「死後の世界があるのか」とか「死んだら無なのか」とかの煩悩が鎌首をもたげてがらがらと音を立てるのだろうと思う。
正直わたし自身も今際の縁に立つと目も当てられない程に狼狽えるのだろうとも思う(あるいは「まだあれについて解明してねーじゃん!」で狼狽するか)。
ですが、上記した煩悩を見ると感じることがあります。
それは、どうにも【死】を《誕生から死ぬまで》を一つの単位として判断してないか?ということです。
死を一つの単位としてみているから恐れる。分からなくなる。
我々、生物の一生を山を流れる川に喩えてみましょう。
〈山頂から流れた雨が大海へ合流するまで〉を一生とします。
この場合、確かに "川" としての役割は海に合流した時点で終えます。
ところでその "川" を構成するものは何でしょう。
川を構成するものは《水》ですね。
山頂から川として水は経由され、海へ合流します。
果たして《水》は海が最終地点でしょうか。
もし《水》の最終到着地点が海なのであれば、川はどうして発生するのでしょうか。
海に流れた《水》は洋上で蒸発し、水蒸氣は上昇氣流に乗って空へ。そのあと水の粒は凍り集まって雲になります。
雲は移動し山へ向かい、雨を降らせます。
こうなると《水》とは循環していることになります。
決して海が最終地点なのではなく『その役割』であるだけ。
川という "〈特定の期間〉を切り取っただけ" ということになります。
例えるなら『歯の生え変わり』なんて良いのではないでしょうか。
別に歯が抜けたところで肉体としてすぐさま消滅するわけではないでしょう。あくまでもその期間というだけです。
〈特定の期間〉を人生に置き換えているだけで、実は【死】ってのは "ある" し、"ない" ということなのではないでしょうか。
では何故【死】という概念・価値觀があるのでしょうか。
なまじ人間には意識や思考といった無駄且つ非常に面倒くさいものがあるためだと考えます。
人間は終わりのないものに対しては非常に強い抵抗感を感じるらしいです。
囚人への罰として「穴を掘って埋めてを繰り返す」というものがあるそうです。
「ここを掘れ!」と命令し、指示通りに穴を掘る。
そのあと「掘った穴を埋めろ!」と命ずる。
それを繰り返す。
すると囚人は終わりが来ないことを(想像して?)絶望し、狂うのです。
想像してみてください。日々皆様が行なっている仕事に定年という制度がなくなった状況を。
人間は終わりのないものを極端に恐れる。
その自己防衛として【死】という概念を生み出した。
【死】はあってないようなもの。
【死】はあるように見えて、ないもの。
生まれてから死ぬまでの期間があるだけで、それ自体は始まりでも終わりでもない。
愚かで、ある意味賢い人間が捻り出した尺度のひとつ。
それが、【死】
解脱はまだ遠い
「悟ったら解脱するんじゃないのか!( ´・ω・)」と癇癪を持ったわたくしですが、思い直せば『なぜ生まれてくるのか』は結論に至っていませんでした。
そりゃあ解脱はできないわ。
さて、"ということは" となりますが、哲學的三大命題の一つである『なぜ生きるのか』ひいては《長生きが良いとされている理由》については思考した結果、ある結論に至りました。
下記記事です。
有料記事ですが優良記事でもあると思いますよ( ¨̮ )
ゆる〜〜っとでもいいんで生きてくださいね( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )

