頭の中の洪水

観察と思考と分析の日記ですよってね。たまに思想家が顔出します。よってね。

三六五歩のマーチ 〜『残り物には福がある』とは全てに対して適用されるものではない〜

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

最近氣付いたこと回です。

 

【残り物には福がある】というじゃないですか。

この言葉、確かに真実はあると思うのですが、あくまでも選択できる状況に限られるのかなと感じます。

 

つまり「自由に選んでいいよー」と言われていた状況で「いえ、わたしは最後でいいです」の場合のみ正常に適用されるのではないか、ということです。

「いえ、わたしは最後でいいです。残り物には福があるので」

 

 

これまでわたしは競爭の場には距離をとって生活をしていました。

それは『他者なんて蹴落とせ』というような雰囲氣が苦手だったことや《我を必要以上に出している人》に対して「ちょっとねえ…」という感情を持っていたこと。

単純にわたし自身がすかし氣取っていたことなどが理由です。

 

しかしですね、このような行動をしていると【残り物】を受け取る頻度が必然的に高くなります。

それによって損をしていたことというのは、確実にあったよな。と今さらになって思います。

 

それこそ『あの時にああしていれば』の領域ですね。

 

結局のところは自分が選択した結果ですので深い後悔をしているわけではないですが(その経験があるから今の自分が形成されているのでもあるし)、自らが機会を放棄したことや機会損失をしていたことに今更ながら氣付き、勿体ないことをしたなぁ。とは思います。

つまりは後悔はしているのです。

後悔は先に立ちませんね、全く。

 

 

また【残り物には福がある】の理念で生活をするということは、実は主体的・主導的に生きていないということにもなってしまうのですよね。

なぜって、『他者が行動を起こすこと』を待っているからです。

 

実は自分軸では生きていないということになるのです。

 

いやぁ、これは由々しき問題ですよ。

 

 

「自分は最後で良いです。残り物には福がありますからね」と言いますが、しかしながらその実結局のところ『良いもの』は最初のうちから取られていきます。

そしてその『良いもの』を取るのは、自分軸で生きている「これがほしいので、いただきますね」を行動できる方でしょう。

 

『良いもの』と『福があるもの』が必ずしも同義ではないというのが難しいところですけれどね。

 

もちろん初めに取られたものが『良いもの』であるとは限りませんが、それは反復と直感で訓練を行い、回避することが可能な部分なのだろうと感じます。

 

特に最初に「これいただきますね」を行える方というのは要領よく『良いもの』を見分けられる能力すら身についているのか?とも思えますし(最終的に『良いもの』へ変化させる能力もあるでしょうし、上記のように過去の経験と反復で選び分ける能力もあるでしょう)。

 

 

で、今回の結論なのですが、理想や幸せってものは自分で貪欲に取りに行くしかないんですね(必ずしも貪欲である必要はないとも思う)。月並み〜。

もちろん棚ぼた的な展開はあるとは思いますが、それを求めていたり期待しているというのは、それこそ "自分軸で生きていないということ" にもなりますし。

 

 

陳腐な言葉になりますが、自分の人生は自分が主人公でいなければいけない。自分の人生の主人公が他人であってはいけない。ということです。

 

齢ハーフ還暦過ぎた段階でそれに漸く思い至りました。

これが早いのか遅いのかはわかりません。こんなものは相対的な部分ですからね。

 

少なくとも、思い至ることができただけでも儲けものですね。

どうやらわたしは "幸せ" というものを特に自分の力で取りにいく類の人間みたいですからね。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 


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