頭の中の洪水

観察と思考と分析の日記ですよってね。たまに思想家が顔出します。よってね。

ぼんやり抱えていた謎は、突如弾ける

 

ある猿が、言葉を喋れるようになった。

自分だけに与えられた能力だと思い、仲間には隠していた。

阻害されるのではないか、という恐怖からだ。

 

その猿は、言葉を喋る、という能力について試しながら、いつ、仲間にそのことを打ち明けようかと思案していた。

そして、ずいぶん経った後に、身近にいた猿に告白した。

 

すると猿が驚いて、こう答えた。

『何だ、俺も話せるようになっていたんだよ』

 

 

 

好きな作品は繰り返し觀たい性分(同じ映画を十回以上繰り返し觀れる人は無職の素質があるらしい)

本日もご訪問ありがとうございます。

 

昨日『レディ・プレイヤー 1 』という映画作品を觀ました。

 

わたしは好きな作品は繰り返し觀たい性分です。

なのでこの作品についても十回近くは觀ているでしょう。

 

今回作品を観た理由は英語のヒアリング目的が半分くらいです(もう半分は普通に觀返したい氣分により)。

 

数週間前に『ロングレッグス』を觀た時もそうですが、知らん間に英語の聴き取りができるようになっている。

聴き取って脳内で翻訳するほどではないですが、単語単語は聴き取ることが可能になっていました。

おっどろき!です。

 

 

『レディ・プレイヤー 1 』でも「俳優さんはこう言っているけど、日本語に変換すると直訳じゃなくて意訳っぽくした方がいいんだろうな」と感じることが多かったです。

 

 

長年の疑問、突然はじける

『レディ・プレイヤー 1 』の作品内、最初の山場が過ぎたあたりで主人公が過去の映像を觀るという場面があります。

その映像で早送りがされたのですが、何度も鑑賞していながらも「これどうやって撮ったんだ??!」と驚きました。

 

冷静に考えれば長回しだったり複数台のカメラを使ったりしたのでしょう。

 

 

わたしはこの時思いました。

「あぁ、だからか」

 

 

昔から疑問に思っていたことがあります。

その疑問は『なんで自分の技術や知識を他者に共有しないの?』です。

 

「技術・知識を共有したらその業界全体が底上げされるんじゃないの?」

結構前からそう考えていたのですが、世の中は知識・技術の共有を行う姿勢や素振りを一向に見せません。

 

それもそのはず、この世は競爭の世界。

特に資本主義の世界ならば "いかに競爭を勝ち抜くか" が最重要となります。

自分の知識や技術などの手札を明かしてしまうと競爭から溢れてしまう可能性がある。

だから知識や技術の共有はしないんだろうな、と考えております。

 

「まあさ〜〜〜〜〜氣持ちはわかるんだけどさ〜〜〜〜〜〜〜。。器は小さいよね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」

 

と、いうのが正直な感想です。

 

 

「過程を想像する」という成長への萌芽

で。

「あぁ、だからか」と思った理由です。

 

映画とかって結果じゃないですか。

完成された形が出力されて、我々に届いております。

 

完成形であるので、当然過程は見えません。

 

過程がわからないから「これどうやって撮ってるんだ??!」と思った。

 

「これどうやって撮ってるんだ??!」と思ったら、我々はどうするか。

その撮影方法を想像しますよね。

「こういう撮影方法か?」「いや、こっちか?」

 

この想像は試行錯誤とも言い換えることができますが、この試行錯誤こそが最も重要なのでしょう。

 

 

その結果となった過程がわからない。

→想像して「こうか?いやこうか??」と試行錯誤を行う。

→その試行錯誤を行う際に全く新しいものが生まれる可能性がある。

 →また或いは "求めていた結果ではない" にしても、《自分の強みとなるものを発見する可能性》がある。

 

上記いたしました〈可能性〉が各々個人の単位で存在する。

その可能性から生まれた結果が世の中に出力されることで、他者との切磋琢磨が生まれて繁榮という結果がもたらされる。

 

ということは「『技術・知識の共有』をしない方が業界全体の底上げが期待される」のです。

全てのものに対して「これはこうします」という説明が溢れている世界では【疑問】という "成長のきっかけ" が萌芽しないのですね。

 

各々、特定の業界自体が衰退しないために《『技術・知識の共有』をしない》という選択を取っている。

それに考え至って「あぁ、だからか」と思ったのです。

 

 

ま、十中八九「手の内を明かすと競爭に負けるだろうが」という浅ましい感情が由来しているのだろうと思いますけれど。

 

 

きょうゆうざいさーん、になったら、そりゃあ貧富の差は開く一方ですよね

今回は技術・知識の共有が題材となっている記事です。

 

『技術・知識の共有』と聞いて連想するものがありますね。

それはYouTubeです。

 

YouTubeが主流のメディア体系となって十年以上が経過いたしましたが、現在検索を行えば様々な業種のプロがその技術を公開しております。

全く知らない門外漢や、その業界に興味を抱いている人間からすると、この上なく有難いばかりです。

 

しかし考え直してみればそれらは『技術・知識の共有』に他なりません。

 

『技術・知識の共有』はとっかかりとしては申し分ないと思いますが、教えられる一方だと全員が全員【疑問】を持つでしょうか。

 

【疑問】とは "成長するきっかけ・萌芽" です。

知識が申し分なく共有されている状態だと【疑問】が生じる機会が極端に減ることでしょう。

何故ならば常に答えが提示されているから。です。

 

 

人間は怠惰な動物です。

そのため樂ができるならいくらでも樂をするでしょう。

 

YouTubeやいんたねっとを調べたらすぐさま答え(に見繕われたものも)が提示される。

そんな状況に全身どっぷりと浸かっていて成長はできますでしょうか。

 

 

よく『指示待ち人間であるな』という姿勢がありますが、指示とはある意味で答えを提示されている状況であると感じます。

「これをしろ」という行動の答え、ですね。

 

自ら仕事を見つけて行動しなければいけない、と言われますが、それは『自分で【疑問】を見つける』という行動と非常に近しいものであるのでは?とわたしは考えます。

 

 

そのように【疑問】を自ら見つける人と、与えられた情報だけで満足する人。

どちらの方が成長ができるでしょうか。

 

もちろん要領の良さも関係するかと存じますが、好機が回ってくる確率は前者の方が多いでしょう。

YouTubeという共有財産で満足している人と、それから疑問を感じ調べたり行動をする人となら、貧富の差が広がって当然じゃないかと感じます。

 

 

そしてYouTubeというものの恐ろしいところは(わたしも今氣付いたのですが)、各々が善意で行なっているように思われることです。

 

【善意が全体を潰す】

これって『多様性が世界を壊す』という考えとも近しいものがあるように感じますね。

 

 

 

あ、?なんか自己啓発っぽい内容だな。

 

 

技術、は一長一短

わたしはギターを嗜みます。

樂器の世界では『昔の世代の演奏家の方が腕いいよね』が定説となっております。

それって「どうやってこれ演奏してるの??」が当たり前で、自分自身での試行錯誤が当然の世界だったからじゃないのか?と感じます。

 

現代では歌の音程調節などPC上で様々な修正が可能となり、全体の平均値はぐっと上がったのだとは感じますが、実際の能力というか実務的な技術においてはやっぱり平均的に下がっていたりするんじゃないか?などと思ったりしています。

 

 

平均化か。

全く一長一短ですね。

 

斯様に思います。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )