本日もご訪問ありがとうございます。
わたしには昔からある感情があります。
それは「自分の認識しているものは誰とも共有していない」というものです。
一番古い記憶だとテレビでして、「我が家にはテレビという機械があってそれが映像を流すのだ」と説明しないといけないと思っていたのです。
今考えればある意味思い上がっている状況でもあるように感じます。
わたしもそれなりな社会生活をしたりしたことで世間と共有しているものごとを知りはしました。
ですが未だに『自分が知っているだけかもしれない』という意識はあります。
この意識、『自分が知っているからといって他人も同じものを知っているとは限らない』という心がけをするにおいての根幹にもなるため、非常に良い効果もあります。
自分が知っていることは相手も知っている、とは限らない。
この心がけは相手への敬意としてわたし個人は認識しております。
ですが、この心がけが失礼となる場合もある。
そんな状況もあります。
この記事を読んでいるあなた様と相対して話した時「わたしは、人間です。日本という國に住んでおり──『住む』というのは定住して生活することです──日本語が母國語です」と自己紹介をしたとしたら。
「いや見りゃわかるよ」と思う方がほとんどでしょうし、ともすれば「え、ばかにしてる?」と思われることもあるでしょう。
敬意と失礼の境界線はどこなのでしょう。
家電量販店にて壁掛け時計を見ていたとします。
目ぼしい商品があるも、店員さんに質問をしたいことがあった。
同じ会社似たデザインの時計が隣同士になっており、違う部分はぐるり文字盤を囲む数字だけ。
目ぼしい商品は「1,2,3...」と文字盤には刻まれている。
そうすると、わたしが店員さんにどの商品かを説明するときは「あの丸いアラビア数字が書かれた電波時計」と口にすると思いますが、そのときに忘れてはならないのが『1,2,3…』といった我々日本人が常用する数字がアラビア数字であるということを相手がご存知な場合とご存知でない場合の両方があるときです。
これの面倒なところは相手のひねくれ具合によって「アラビア数字くらい説明されなくてもわかるって!!氣にくわない!!!」「知らないことを指摘された!!氣にくわない!!!」の二つともが起こり得ることです。
わたしとしては正しく説明するという敬意を表明したつもりであったが、相手からは失礼と捉えられることが起こり得る。
そういったときに思うのです。
めんどうくせ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 って。
そしてこの記事をお読みいただいている皆様も思うのです。
こいつめんどうくせ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 って。
やっぱりこういったことが発生するんで人間とは関わりたくないですね。
動植物や自然がいい。
あと今思ったことですが、『自分が知っていることは当然他の人間も知っているだろう』という意識を自覺なく持っている方って口論になったときに「自分にも悪いところがあった」と考えないのではないでしょうか。
自分が信じていることは間違いがないと疑っていないというのか。
と思いましたが、きっとこれは私怨が入っているでしょうから、あんまり話半分で聞いてください。
失礼と敬意のはざまってどこなんですかね。
ありがとうございました( ´・◡・`)
人間生活めんどうくせ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜やっぱり人間とは関わりたくね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 なんて思っているから同じところから成長できねえんだよ。