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わたしは未熟者 ~酒場は學び場~
たびたび登場しているこうもりの曙さん(仮名)のお店で昨日呑んでいました。
雨でもビヰルを飲むのがわたし。
お店は酒場であるので、初めましてのご縁もございます。
昨日も初めましてのご縁があり、とても樂しい会となりました。
『会話なんてグルーヴ』とは曙さん(仮名)の言葉ですが、グルーヴともなると自分の意図しない方向に話が転がることもあります。
というか会話なんてそういった状況の方が多いでしょう。
そもそも自分の考えを余すことなく全て相手に伝える、ってのは土台無理な話だし、それはそれでかなり身勝手で自己中心的な考えです。
ようやっとそこに思い至ったというか、諦めがついたというか、なんというかそんな感じです。
とはいえ、本当に意図しない方向に話が転がったり、相手の勘違いでこちらが被害を受けるなんてことは避けたい。
昨日お話しをさせていただいた会社員の方も「あ、自分の言いたいことと違った解釈をしていらっしゃる」と思うことがありましたが、それって結局は伝えるこっちに最初の原因があるんじゃね?と感じます(もちろん100%こちらの伝え方が悪いということではない)。
わたしのブログを読んでいても思われるでしょうが、わたしは少々説明過多な傾向があります。
ブログという場は、謂わばその人の価値觀に触れる場所であるので少々説明過多であっても問題はないと思いますが、対人上での会話では流動します。それこそグルーヴです。
『相手は自分と同じものを知っていて考えも共有できている』なんてことは考えてはいけませんが、だからこそ説明が必要となります。
会話のグルーヴを途切れさせないようにする、そして「自分の意図することの本質を伝える」ためには、よく言う【わかりやすくて要点を押さえた話】をしないといけないのだと、昨日の酒場で學びました。
わたしは未熟者でした。
「わかりやすい」には色々な種類があると思いますが、ある程度相手を信用して話すってのも必要なのかもな。
「『相手は自分と同じものを知っていて考えも共有できている』わけではない。けど、いっちょ相手を信用してここの説明を省いてみよう」
わたしにとってはギャンブルかもしれませんが、全部が全部を説明するってのはキリがねえしな。
ブログ上では多少説明過多な文章は続くと思うけど。
わたしは未熟者 ~でも未熟者だからこそ學びを得る機会がある~
労働。面倒です。
先日、労働先の人間(立場的には上司)に以下のようなことを言われました。
「マウスのポインターとか諸々を含めたPCの設定、それをするのは自由だけど、他の人のことも考えて設定しない状態でも使えるようにならないとね。みんなはそれを慣れてやっているのだから」
わたしは疑問があります。
どうして使えるものがあるのに使おうとしないの?
その立場的には上司だけど印象的にはただ年を食っただけの人間は、わたしがみた限りがが強く自分のやり方を通そうとする傾向があります(そう思ったということはわたし自身にもその傾向があるということ。戒め)。
その〈年を食っただけの人間〉は同僚周りからどうやら嫌われているようです。
そりゃあ独りよがりで自分の考えは正しいと思い込める人間ってのは、疎まれても仕方がないですね。
とはいえわたし自身も我が強いので、その人間とは非常に馬が合いません。
立場的には相手の方が上であるため、上記したPC設定の件に対しても適当に「そうですねー」と受け流しました。
以前にも〈年を食っただけの人間〉と相対したことが複数回ありますが、皆一様に同じような性格をしている傾向があります。
その傾向と『相手を変えようとする』というものです。
『相手を変えようとする』という傾向は「《自分は正しい》という思い込み」が由来していると推察致しますが、これも昨日の深夜ある考えがぽっと点りました。
────相手を変えようとする人には《変えてくれる人》は現れない。
考えてみれば当然ではあります。
《自分は正しい》と信じて疑わないのですから、人様の意見は聞き入れようとしません。
そうすると周囲の人間は「あの人には何を言っても無駄だから黙っていよう」と共通意識のように思うでしょう。
そうなってしまえば〈変わる機会〉というのは圧倒的に減るでしょう。
《自分は正しい》と信じて疑わない人間の当人としては「自分はそのように思ってはいない!」と反論されるのだろうと思いますけどね。
もしかして《自分は正しい》と信じて疑わない人は「これまで何も言われてこなかったから、自分の価値觀は正しいのだ」と思っているのかも?
実際には見限られているのに。
このことに氣づいてしまったわたしには、もう立場的には上司に対して氣の毒な感情しか覺えません。
当人より今年で五十四歳との自己申告がありましたが、一回り以上も長く生きていてその程度なのか。と感じますし、そのまま死んでいくんだろうなとも思います。
自己責任論とは思いませんが、どのように生きて感じて煩悶して反省したかってのはその人次第のものでしかないですからね。
『春にして君を離れ』の語り手であったジョーンも家族や周りの人間から哀れがられ見限られておりました。
わたしの母親もジョーンのように独りよがりで自己満足な側面がある、というよりその性格が正面であるように思うのですが、わたし自身も母親を見限っておりますしね。
自己満足な世界で幸せなのであれば、わざわざその人自身の愚かさを自覺させるのも酷ですものね。
齢ハーフ還暦を過ぎた程度の若造であり、且つ未熟者のわたしですが、未熟者であるから故に氣付けることもあるのですね。
年を食うと無駄な自尊心が生まれがちなのかわかりませんが、そのような愚かな自尊心を自覺してつぶさに潰していくことがこれからの生で重要になるのかしら、と感じます。
これからの生き方も重要になるな。
少なくとも驕らなければいいかな。
精進します。
悪魔のアルゴリズム。を転換する方法
昨今のいんたねっとではアルゴリズムというもので管理されているそうです。
簡単に言うならば「調べたり見たものをAIが學習して似たものを広告表示したりする」というものです。
このアルゴリズムという技術は監視されている感じがあって不安を覺えるというお声もあります。
しかし、この技術も友好的に使えるんじゃないか?とふと思いました。
人間には『繰り返されると意識下に落とし込みやすい』という習性がありますが、これは願い事などにも有効です。
願いを深層心理に落とし込めれば叶いやすくなったりする、なんて言いますが、アルゴリズムを使えば願いを目にすることが増えて、心願成就に近づいたりするんじゃないのか?と思ったりしましたとさ。
ありがとうございました( ¨̮ )