本日もご訪問ありがとうございます。
先日、酒場でのできごと。
とあるバーにてAlc.をいただいていたのですが、その場でお店の方が「病んだりしやすい方はあまりに考えすぎる傾向があるんじゃないか」というようなことをおっしゃられておりました。
「自分は考えすぎるという性格ではないから〜」と話は紡がれ、最終的に「何が言いたいのかわからなくなった」と着地されておりました。
物事を深く考える性格の人、樂觀的であまり考えるということはしない人、どちらが良い・悪いなんてのはないと思います。
そもそも両方とも存在しているのだし。
前者は後者を見て「あんまり深く考えすぎなくてもいいんだな」と思うこともあるでしょうし、後者は前者を見て「よく考えていてすごいなぁ、自分も深く考えるということをやってみよう」と思ったりすることもあるかもしれません。
互いに影響をしあうのが地球ってところみたいなので、どっちもいいのです。
それよりも、わたしとしては『話をしていて、当初に言おうとした結論がわからなくなる』ということの方が重要というか、良いことじゃないのかなと感じました。
話題を投げたり、投げられた話題に意見をしたりするというのは、ある程度《何が言いたいか》が固まった状態であることが常だと思います。
その主張したい意見を見失うことなく発言するということは必要です。もちろん。
しかしですよ、「なにを言いたかったのか、わかんなくなった」というのは当初の予定外のことが発生したということになり、それってつまりある種 "その人自身" の本心が表に出たということになるのではないかと思うのですね。
〈言おうとしていたこと〉をちゃんと話すのはもちろん大事ですが、その予定調和から外れた「なにが言いたかったのか、わかんなくなったよねー」があるということは、その人の本心とか素の状態が表れた。
もしかしたら安心の感情もあったから予定調和から外れたことが起こったのかもな、とか考えたりします。
予定調和ばっかりだとつまらないし、知らない間に息が詰まって疲れちゃうんですよ。
なのでたまには予定外のことがあってもいいし、それを面白がれる自分も存在できた方がいいんじゃねーかなと思います。
結局良いだ悪いだを審判するのは自分ですからね。
自分がいいと思うからって明らかな悪事をするのは流石に良くないとは思うけど。
これについては自分という組織よりも、社会という組織の方が大きいために従う必要が出てくるって部分です。
難しいですね。
なにが言いたかったのか、わかんなくなったよねー。
ところで、最近『酒を飲まない人に比べて酒を飲む人の方が視野広くね』なんて思いました。相手を受け入れる度量広くね、みたいな。
もちろんこの傾向は全員が全員ではありません。
この考えの真意は『社交の場に出る人は色々な人の価値觀に触れる機会が必然的に多くなる』という思いが根っこにあるからです。
なので、酒場でわいわいと話しながら飲酒をする習慣のある人の方が、晩酌として自宅で飲むことが習慣となっている人に比べても視野が広いのではないかと思います。
もちろんこの考えも「酒場に行くことが多くても全員が全員、視野が広いわけじゃない」のですけどね。
まあ仮説です。
わたしは『視野、広くあるべき』という無意識な脅迫感があるのかもしれない。
あと「別に在るままでいいんだよ」という意識は、ただ無責任なだけなのかもしれない。
でもねえ、受け入れないと受け入れられることもないしねえ。
お金がほしい。
ありがとうございました( ¨̮ )
あ、最近『Larks' Tongues In Aspic』のピンバッジを買いました。
めちゃかわいいです( ¨̮ )♡
