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今回は前回記事『広告は広告の顔をしている』の続きとなります。
書いた内容のおさらいとしては「広告は広告の対象者に効果的な構成や表現、つまり適切な〈顔〉をしている必要がある」という感じです。
フォント
〈広告の顔〉という新しい觀点を得ると、これまで見ていた広告たちにも色々な面白く興味深い発見をします。
ある商品ではキャンペーンとして食器がもらえるらしいのですが『○○食器』のフォントがキャンペーンを実施している商品と同じだったり。
あるサービスではロゴマークと同じフォントと色味(グラデーションなど)で "売りにしてる強み" を強調していたり。
フォント、それはとても面白いものだ。
そう感じます。
前回記事にて書きました〈広告の顔〉理論。
それを発見した時、同時に思ったことですが、広告は一つの広告であっても色々なフォントが使われています。
広告は〈広告効果〉を上げるためにフォントを使い分けることが定石だと感じています。
もちろん前述のように同じフォントにすることで一貫性を持たせる手法もありますので〈広告効果〉を強くするためにフォントでの表現を使い分けるのが一番でしょうね。
目出させたい部分はゴシック体を用いたり。
文字自体の大きさを変えるというのもフォント的表現の一つだろうと考えます。
ローカライズ
日本國外制作のゲーム作品があります。
制作会社がアメリカや諸外國にある場合、そこで作られたゲーム作品は言語表示が世界の共通語である英語で物語の説明がされていることでしょう。
作品によってはゲーム作品自体に言語の設定が可能な場合もあります。
しかし多くの場合?設定変更が可能な言語の中に日本語が含まれていないようですね。
別にこれで憤慨するつもりはありません。
日本語って世界にある言語の中でも屈指の難しさを有しているらしいですし。
あと日本語は日本人しか使わないし。
無闇に他國を侵略・統治して植民地支配を行っていたわけでもないですし、全世界的に見て日本語を公用語とする人口もそこまで多くないですからね。
ということで元から日本語に設定できるゲーム作品が少ないのだろう、と推察します。
当たっているかどうかは知りません。
そんな日本語対応していないゲームにおいては有志によって日本語変換パッチ?というMod tool(編集権限的なもの?)が作られ、それをゲームソフト自体に適用することで日本語非対応の作品でも日本語で遊べるらしいです。
すごいなぁ、って感じです。
門外漢からはそんな感想だけが浮かびます。
このような特定の言語をゲーム作品自体に適用したり、特定の地域に対応させる行為をローカライズというそうです。
プログラム的なところは本当に門外漢であるため「どう…やるの?物語に触れる内容は普段我々が使う言葉を使っているの?」などと考えていました。
PCモニターに 【「I'm not Computer. Has a intelligence.」と表示されている部分】があればゲームソフトを組んでいるプログラミング言語の『I'm not Computer. Has a intelligence.』の部分を日本語に書き換えればよいの?ということです。
そしてどうやら、その推測は当たっているようです。
『〈pc monitor〉,display="I'm not Computer. 〈p〉Has a intelligence."〈p/〉』みたいなプログラム(あくまでも例として)があれば、""の中を変更すれば色々な言葉をゲーム内のモニターに表示することが可能みたいです。
おもしろいですね〜。
プログラム言語がある。ということは
昨今ではほとんどインフラと化したインターネットなる世界はHTML言語で構成されているそうです。
まあ正確には違うというかもっと複雑だとは思います。
HTMLとはプログラミングを行う上で必要になるもの、プログラミング言語であり(色々と意見や派閥はある?らしい)、ゲーム作品においても様々なプログラミング言語が用いられているそうです。
ここ十年ほどで力をつけてきたものの一つにAIというものがあるじゃないですか。
あれもプログラミング言語を用いて作られたもの、プログラミングの賜物です。
プログラミング言語、ゲーム制作、AI。
これらを眺めると、ある仮説がひょっこりと顔を覗かせます。
その仮説とは〈シミュレーション仮説〉です。
シミュレーション仮説とは『我々が生まれて生活して死んでいるこの世界ってのは、コンピュータシミュレーションで作り上げられたもの、「この世界」は《仮想空間》なんじゃないか』という考え方です。
荒唐無稽ですね〜。
しかし考えてもみてください。
我々人間という生き物(と我々が認識している存在)はコンピュータというものを作り、ゲームという仮想の空間を創り、AIという知性も作り出した。
我々が行っていること、それが我々自身に対しては行われていない。
果たしてそう言い切れるのでしょうか。
わたしは言い切れないという意見です。
『わたしたちが生きているこの世界』も《プログラミングで組み上げられた世界》である "可能性" は大いにあると考えています。
これはとどのつまり〈シミュレーション仮説〉ですよ。
なお、この記事で言及している価値觀?は『考え方の一つ』として書いているに過ぎないので、わたし自身上記の説に確信を持っているわけではありません。
ただ『あり得ない』と『あり得る』は表裏一体、【無い】とは【有る】が "有る" から存在できる価値觀です。
本当に存在しないものは知覺すらもできないものだと思いますよ。
フォントから解釈するシミュレーション仮説
ゲーム制作とシミュレーション仮説との関連はまぁわかったけど、フォントとシミュレーション仮説はどう関係するんじゃい!と思われた方もいらっしゃるでしょう。
いんたねっとサイトでは『〈pc monitor〉,display="I'm not Computer. 〈p〉Has a intelligence."〈p/〉』のようなプログラムが組まれています(実際はもっと複雑)。
そのプログラムは実際に表示する際のフォントも言語内で指定されています。
ここいらで広告の話に戻りますが、我々が日々目にする広告には色々なフォントが用いられています。
色々なフォントと色々な文字の大きさの組み合わせで一つの広告というものを作ります。
───この組み合わせってまんま我々が生活している世界に適用されてるんじゃね?
そんなトチ狂った考えがよぎったのが今回の記事を書こうと思った発端です。
わたしたちが日々目にしているものや身に触れているもの、それもフォントの種類や大小の組み合わせのようにプログラム言語で組み合わせたものかもしれません。
我々が日々着用する衣類も〈綿〉というデータと[編み方]というデータ、その0と1のデータを組み合わせたものかもしれない。
ひいては我々人類自体も昨今盛り上がってきているAIの一つかもしれない。
「ゲーム制作っていってもゲームエンジン内にあるプリセットを組み合わせて作ってるわけじゃないよ」
「広告ってもPhotoshopってソフトで直感的に作ってるんだよ。そんな誰も彼もがプログラム言語を編んでいるわけじゃない笑」というご意見が聞こえてきそうです。
が、ゲームエンジンのプリセット(特定の機能を使用するために予め調整している設定)を作成した人はプログラム言語を用いているでしょうし、ゲームエンジンや画像編集などの各種ソフトウェアはエンジニアの方がプログラム言語を編んで作成したのだと考えておりますので、やっぱりこの世はプログラムの中であるという仮説が覆ることはないのです(〈倒錯〉〈狂氣〉〈心理作用:正氣だと考えている無意識〉)。
もし世界がシミュレーションだとしたら。
シミュレーションはコンピュータ的な演算の上に成り立つものだと認識しているのですが、コンピュータは数學を用いております。
だとすると、以前に数學者が発言したらしいと小耳に挟んだ「世界は数學的だ」という主張にも半ば真実味が帯びてくるようにも思います。
螺旋とシミュレーション仮説
今回は広告という觀点から『この世とシミュレーション仮説と』を考えてみました。
改めて申しておきますが、わたしはこの仮説に確信を持っているわけではありません。
あくまでも「こうは考えられない?」「この可能性もあって、だとしたらおもしろいね」という考え方の余白?遊び?を書いているだけです。
なので「絶対こうだ!そうに違いない!」とは一切考えておりません。
そもそもわたしはそのように【固定した考え方】を持つことを是としていないし。
そのような意識の固定は世界を面白がることにおいて邪魔となりえると考えているからです。
なので広告というものから端を発した〈シミュレーション仮説〉の見解は、あくまでも可能性のひとつとしての見解です。
そんな頓狂なわたしですが「はたしてこれは…?」との強い疑いを感じて(つまり幾分か「あり得る」と感じて)いる視点があります。
───螺旋ってのは、この世界をこの世界たらしめている "基礎の〈code〉" なのではないか?
狂ってるでしょう。
わたしも思います。
あまりに酔狂すぎる、って。
わたしは以前から螺旋というものに対して非常に深く強い興味と不思議を感じてきました。
一月ほど前には『螺旋とは情報であり、エネルギーだ。螺旋の本質とは、それだ』と微睡みの中で得た真理めいたものを書きました。
ぱっちり意識と眠りとの狭間、半覺醒状態で知った情報なので間違いはないでしょう。本当のところは知りません。
それで螺旋なのですが、どうにもこの三次元として仮定・認識させている世界では螺旋というものが用いられ過ぎている。
ねじにうずまきに銀河に遺伝子。
最近では植物が萌え出でる様子ですらも螺旋の挙動をとっていることに氣付きました。
ほら、植物が発芽して成長する、あの様子ですよ。
どうにもこの世界では螺旋という情報が用いられ過ぎている。
もちろん、別に悪いことだどうだなんて言うつもりはないですし、一介の生物、アナログ的生物であるところの肉の一塊であるわたしに世界や物事の善悪・良し悪しを決める権限などありません(良し悪しを決める権限を持っていると思い込んでいる方はいる)。
良い/悪いを言いたいのではなく、不思議が過ぎるでしょう。ということを主張したいのです。わたしは。
さてそんなこの世界の片隅いたとしても出会ってしまう螺旋。
「どこでも出逢う」というのは、つまり "螺旋" とは『この三次元世界を構成する際に必須となる要素』なのではないか。
=螺旋とは、この世界をこの世界として成り立たせるための〈基礎code〉なのではないのか?
はたして真実はどうなのでしょうか。
わかりませんね〜。
ま、これも "「シミュレーション仮説が正しかった」と仮定した場合" を前提にした問答ですからね。
ちなみに最近不思議を感じている事象は "あぶら" です。
『土と脂』という超魅力的な書籍を見つけまして、大変読んでみたいと思っております。
「この世界がシミュレーションの世界だとしてさ、どうしてわざわざAIを作ってまでシミュレーションをする必要があるんだい」と真っ当すぎる疑問を持たれる方もいらっしゃるでしょう。
その理由はデータ取りだろうなと思います。
あるいはギャンブル?
「効果を与えない」という〈効果〉
広告は大変興味深くおもしろいものです。
広告には〈広告効果〉と〈広告表現〉があります。
そしてこの度〈広告作用〉もあるのだなと発見をいたしました。
先日上記の記事を書きました。
財政法第四条
國の歳出は、公債又は借入金以外の歳出を以って、その財源としなければならない。
但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、國会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。
財政法第四条とは、意訳ですが「國家運用においては國債使っちゃだーめよ。税金でまかなってね。でもインフラとか他の一部については國債発行してもいいよ」みたいな内容です。
もちろんわたし自身の理解力の問題により〈法律が説明している内容〉と〈法律の作成者が意図するところ〉をしっかりと腑に落とせていないと思います。
受け売りで恐縮なのですが、財政法第四条がある以上は財務相を解体したとて対して意味はないそうですし、財政法第四条があるから財務相の出世方法が増税なのかもしれません。
正直、財務相解体の運動ってのも市民のガス抜きのために演出されたものじゃねえの?とかすら思います。
わたくし、學がありません。
なので憲法についてもほぼ全く知りません。
無學です。
ですので財政法第四条についても今回初めて知りました。
…読めない。。。
文字は読めるけれど意味がわからない。。。
公債…?歳出…?
わからない…。。
「わっかんねーからい〜や」と投げ出すこともできましたが、重要な事象(このタイミングで情報を仕入れたということは、必要なことだ。というはっきりとした直感。ほとんど確信)だと思ったので言葉の意味を調べました。
……意味を調べても、法律が意味していることがわからない。。。。
無學な自分を恥ず氣持ちと同時に自分が賢くなれている(はず)事実が氣持ちを浮き浮きさせます。
そんな時に思ったのですよ。
憲法を難しく書いてるのって、もしかしてわざとか…?
憲法て、たとえ書かれていても難しいと感じるんですよ。
理解までに時間がかかるというか。
「…、、、、………??つまり、、、???」みたいに眉根を潜めてしまいます。
もちろん憲法が作られた時は常用漢字であったり一般的な表現だった可能性は大いにありますが、今の時代では明らか難しいしややこしい書きかたをしていると感じます。
しかも憲法を "現代語訳" 的にしたものもあるとは思いますが、一般大衆が触れやすい生活圏にない。
各法律それ自体と触れる機会もない。
これって意図的に行われていることなのでは?
財政法第四条はそのまま國税に関係する内容です。
その他にもこれまでの社会的な結果をもたらした原因としての憲法も色々とあるのだろうと考えられます。
憲法、それをあえて難しく書き記すことによって、ある程度の人間(多くの大衆)をふるいに落とすことができる。
などと妄想しました。
上記したことはあくまでも妄想なのですが『難しく書き記す』という表現を行なったために、一定の人間は触れようとしないという〈効果〉を作用させることができます。
これは言い方を変えると『〈効果〉させないという〈効果〉』ということです。
ほら、身近なところでいうなら各種契約書の類ですよ。
甲乙などで示されている契約内容とかって、その文面を見ただけで読む氣力が失せたりしがちでしょう。
わたしはなかなか巧妙で大きなものと相対しているのかも、なんて思ったりもします。
これも妄想ですけれど。
三つに分けれた
以上で今回の記事は終わりです。
6,000字超えておりまして、内容的にも三つの記事にわけることもできました。
でもしなかったのは氣まぐれです。
このブログで書いていることは日々の觀察と直感からきているものですので、これからも世界の觀察と直感を大切にしていきたいものです。
ありがとうございました( ¨̮ )
