頭の中の洪水

観察と思考と分析の日記ですよってね。たまに思想家が顔出します。よってね。

【劇場版 鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来】考え続けろ。【解釈と感想】

 

本日もご訪問ありがとうございます。

觀ました『劇場版 鬼滅の刃 無限城編 第一章』!!

 

👇これまでの『鬼滅の刃』についてのもの👇

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諸般の事情(金がない)により幾分かの時間は開きましたが、無事劇場で鑑賞することができて良かったです。

とはいえ『鬼滅の刃は商業的にとても多くの興行収入を見込める作品だと考えているので少なく見積もっても二〜三ヶ月は公開されるだろうとは踏んでおります。

通常、劇場公開から半年でDVDなどのソフト化となりますが、もしかしたら三、四ヶ月くらい劇場上映したあとソフト化までは さぶすく で配信などをしそう。

流石にお正月映画までは食い込まないと思うし…。

 

 

 

しかし劇場公開後数日とかではないのに、かなりの人数が鑑賞されておりました。

レイトショーにて觀たことと、夏休みとかの時期が関係しているんですかね。

 

エンドロールで立ち上がって混雑を避けている方々も、公開終了後にエレベーター前で混雑する方々(わたし含め)も久しぶりに見ました(大箱LIVEの帰りみたいでしたね)。

 

 

映画館で映画を觀る時って今後公開される注目映画が上映映画と觀客の層に合わせて告知されるじゃないですか。

これまでの映画って〈客入り時間の上映予定時刻前十分間〉と〈上映開始時刻後の暗くなって五分〉が上映予定映画の広告時間でしたが、今回の『鬼滅の刃は違いました。

 

上映開始時刻から十五分間ほど館内照明は落ちず、宇髄夫婦の上映マナー講座が流れたのちに照明が落ちました(携帯の電源は切ってね』の注意に対して宇髄天元さんが「携帯?」と不思議がっていたのが微笑ましかったです)。

 

少し前に「映画館での公開予定映画の予告映像と企業CMが年々長くなってきている。映画を觀に来ているのに萎えてしまう」という情報・意見を耳にしたのですが、それなのでしょうか?

あるいは『鬼滅の刃という觀客動員が多いと見込める作品だから?と思いましたが、実際のところは分かりません(劇場によっても変わると思うし)。

 

ですがわたしが感じたのは『照明が落ちるといよいよ映画が始まる』という觀客がほとんど無意識で持っている觀念を巧みに使った手法だということです。

照明が落ちると「お、いよいよか」と身構える、その緊張感を保ったまま上映に臨む。

鬼滅の刃』はとても多くの想いと情報が込められているので、予告映像等の配分を変えたのではないか、という、憶測です。

 

「おや?いつもと違うぞ?これは映画泥棒すらもないとかあり得るか?」とも思いましたが、そんなことはなかったです。

 

 

鬼は引きこもり

"五感" ではないからこそ

さて本編開始。

ちなみにわたしは原作未読です。

 

アニメ化からハマり、原画展に行ったくらいの知識です。

なので要所要所のネタバレは踏んでいます。が、この『鬼滅の刃に関してはネタバレがどうとかは重要ではない〈祈りの作品〉であるのでそんなに氣にしていません。

とはいえネタバレは全力で避けてはいます。避けられないものもあるけれど。

 

 

柱稽古編は産屋敷邸の爆発で終わりましたが、それに至った経緯が紡がれます。

 

墓地?を歩く悲鳴嶼行冥さん。

そういえばあそこって産屋敷さんがよく参っていたところですかね

亡くなった鬼殺隊士が眠る場所。

 

悲鳴嶼行冥さんが産屋敷さんの発言を回想します。

「近々鬼舞辻くるっぽいから囮になって屋敷爆発するわ。あとは隊士達頼んだちょ」と病床で打ち明ける産屋敷さん。

 

「ちょ待ー!なんでそう思う???」と真っ当な疑問を口にする悲鳴嶼行冥さんに対して、産屋敷さんは「Just the to of 勘👉👉」と返答します。

「勘ついでに」と産屋敷さんは『鬼舞辻無惨は多分、頸斬っても死なへんで。日光しかあかんと思うわ』と推察を口にします(その時に夕焼けの光がカメラを射しますが、これがまたアニメーション表現として素晴らしいですね!実写映像で同じことをしようとするとCGになったりくどかったりしちゃいますからね!などと門外漢は思います!)。

 

凡人たるわたしなんてものは「勘かいな」という感想を持ったりしたのですが、悲鳴嶼行冥さんは逡巡し「なんでワイに言うん?」と口にします。

 

「他の隊士達はわたしが囮になるのは了承しないはずだから、行冥に話した」と答えた産屋敷さんに、その覺悟を感じとったのか戸惑いながらも納得したように了承した悲鳴嶼行冥さん。

ここで "なぜ産屋敷さんは悲鳴嶼行冥さんに計画を話したか" を感じました。

 

床に伏せる産屋敷さんは病に冒され、顔にすら包帯が巻かれています。

一方、計画を聞く悲鳴嶼行冥さんは生まれつき盲目です。

両者とも視界という情報を塞がれており、〈五感〉ではありません。

 

よく『視覺、味覺、嗅覺、触覺、聴覺の〈五感〉のうち一つが潰えると、それを補うように《第六感》的な感覺が生まれる(元々の感覺が開く)』と聞きます。

その《第六感》が直感だったりするのですが、それつまり産屋敷さんが感じ取った "勘" です。

 

しばしば耳にするのは「視覺情報が塞がれると《第六感》が開く」というもの(人間生活において、視覺情報が状況判断の要素として多くを占めているから)ですが、病床に伏せる産屋敷さんと悲鳴嶼行冥さんはその視覺が防がれています。

 

もちろん『鬼殺隊最強と言われる人物だから打ち明けた』という理由もあるのでしょうが、盲目だからこそ「果たして勘が侮れないのを知っているでしょう?」という考えより産屋敷さんは悲鳴嶼行冥さんに対して自身の計画を明かしたのではないか?と想像し、勝手に得心していました。

 

あと命をかけてまで為そうとしている覺悟は、受け止めないとその人に対して失礼たりえますからね。

 

 

 

しかし悲鳴嶼行冥さんは盲目でありながら、杖も持たず一人で歩かれています(凄い。初めて「つえ」と打ち込んだのですが、所謂『ステッキ』ではなく『白杖の絵文字が出るのですね。素晴らしい)。

それこそ《第六感》で行動されているのか、クリック音を出して反響で判断されているのか。

 

ところで悲鳴嶼行冥さんに声を当てている声優の杉田智和さんは、今季アニメの『ダンダダン』にて人体模型の太郎をご担当されています。

悲鳴嶼行冥さんと真逆、代表的なキャラクターである坂田銀時さんとも違ううるささのアプローチでキャラクターを演じられていて、且つ「声優その人」と分かる演技をされている。

「声優さんって、す、、凄いなあ」としみじみ感じました。

 

 

列車的な舞台装置

場面は変わり無限城で翻弄される隊士達。

「縦横無尽でめちゃくちゃ」との感想を炭治郎さんだったかが口にしていました。

 

鬼滅の刃』という作品が日本においての《國民的なもの》になったのは【無限列車編】の歴史的な成功からだと考えているのですが、【無限列車編】の感想で「列車というのは "乗ったら下車できない" という特性上、映画鑑賞と親和性が高く舞台装置として優秀」というものを見たことがあります。

 

とある方が「無限列車編に比べてしまうと今回の映画は〈映画という觀点〉からは劣って見えた。でも素晴らしい」とご意見を口にされており、その意見にはわたし自身も納得するものがあります(どうしてもお話的に各々の戰闘を組み合わせた群像劇的な構成になってしまうし)。

 

しかし無限城というものが縦横に広がり続ける+出られないという状況は非常に列車的であり、それはつまり劇場での映画鑑賞とも通じています(最近配信サービスでの映画鑑賞についてはどうしても "日常の延長" となってしまう)。

しかも物語序盤の炭治郎さんと冨岡義勇さんとが殺陣周りをする直前では、特急列車の類が目の前を通過する様とそっくりな描写がされていましたし、列車の類が線路を通過する際に生じる音を模した劇版が流れてもいました。

 

この『入ったら出られない』という列車的演出が原作からあったものなのか、映像化するにあたって追加されたものなのか、は原作未読であるので分かりません。

ですが原作からあったものだとしたら、無限城編が少年ジャンプの誌面にて掲載される前から『無限列車編』の映画化は決定していたのだろうなと感じました。

 

 

襲いかかる鬼を討ち、産屋敷さんの仇取りを決意する不死川実弥さんですが、この時、彼は涙を流しています。

この時に思ったのですが、もしかして実弥さんは鬼に襲われて孤児となった時点からずっと怒りの感情しか感じなかったのかもしれません。

しかし第二の親のような人を亡くし、悲しさと悔しさを取り戻した。

みたいな。

 

あとこれは二回目の鑑賞時に氣付いたのですが、善逸さんが氣を失わずとも技を出せる様になっていましたね。

修行の成果ですかね。

 

伊之助さんが登場して「修行の成果を出せるぜ!」と張り切る場面では思わず表情が綻んでしまいました。

可愛い。

鑑賞にお集りの皆様も微笑ましく思われているようで、この時は空氣が弛緩していました。

 

『産屋敷さんの死去』という出来事に鬼殺隊士は怒りの感情を覺えています。

怒りは緊張であるため、緊張が繰り返されると身体が強張ってしまいますが、伊之助さんという良い意味で幼い樂觀性を持つ人が配置されることで緊張と緩和がもたらされるのですね。

演出の妙です。

 

 

働き者の手

無限城に囚われて落下する甘露寺蜜璃さんと伊黒小芭内さん。

両者腕を伸ばして互いを摑もうとします。

 

「あー上手くいかずに離れ離れになりそー」と物語の定石から予想しましたが、予想に反して手を繋ぐことができます。

この時に【握り合う手と手】が描写されるのですが、この手が『風の谷のナウシカ』にてナウシカさんが口にされていた〈働き者の手〉をしていると感じました。

 

 "手は表情ほどに感情を表現する" と感じるほど、手は豊かに感情を描写することができます。

 

甘露寺蜜璃さんは女性、伊黒小芭内さんは男性であるので、女性の手と男性の手で表現することも可能ですが、そのようには描写されずに両者とも男性の手的な表現がされていました。

甘露寺蜜璃さんが女性の手をされている描写が過去にあったかどうかは正直憶えていませんが、女性的な手も男性的な手になる⇒それだけの鍛錬を重ねたという説明になっていると感じ〈働き者の手〉だと受け取った次第です。

 

 

甘露寺蜜璃さんに襲いかかる鬼を薙ぎ倒し「甘露寺に近づくな。塵共」と口にした伊黒小芭内さんに対して「キャーーーッ‼︎! 伊黒さん素敵‼︎」と感情を爆発させる甘露寺蜜璃さんがとても可愛らしく(花澤香菜さんすげーって思いました)、日輪刀もハートの形になっていたのも感情表現として素敵でした(💕みたいなハートよりも大きい方が視覺的にも認識しやすいですしね)。

 

 

ちなみに炭治郎さんは建物の縁に手をかけることが出来ず冨岡義勇さんに助けられますが、これも対比でしょうか。

今回の内容は対比がよく描写されている。

 

 

鬼も病んでる

「縦横上下前後に空間が広がっている」と無限城内の説明がされていた様に思いますが、この時、城内の建物は全て内向きに建っています。

 

この〈内向き〉というのは「鬼が自分の内側の世界でしか暮らしていない」ことの表現なのかしら、と思いました。

 

また「縦横無尽に空間が広がり続けている」という説明から宇宙を想起すること、宇宙とは世界であり "鬼だけの世界=自己完結的で排他的" 

つまりは外の世界を遮断した自己完結の世界で籠っているということだったりするのか?と感じました。

あと鬼って寂しがりや?あと臆病??

 

つまり、鬼は病んでいるのではないでしょうか。

別に病むことは悪いことでもないですし(むしろ現代社会で病まない方がある意味で異常とすら感じる)、閉じた世界でひたすら自分自身を癒すという方法もある。

わたしも数年間塞ぎ込んでおりましたし。

 

ただ鬼の方々はそれが善と、自分の価値觀が正しいと思い込んでいる節がどうにもあって、自身の価値觀を力技で世界に知らしめようとしている感じを覺えるんですよね。

なんでもそうだと思いますが『過剰さは不安の表れ・裏返し』ですから、そのような部分が個人的に引っかかります。

 

 

病んでるならゆっくりでも付き合ったらいいんじゃね。

 

 

 

暗喩的(むしろ直喩)

無限城内で一際大きい建物が映し出されます。

胡蝶しのぶさんがその建物へ入ると、そこは上弦の弐・童磨さんの拠点でした。

胡蝶しのぶさんは童磨さんの姿を一眼見て、実姉である胡蝶カナエさんの仇だということを悟ります。

日輪刀を折られてまで闘った、その相手です。

 

 

部屋には水が張られており睡蓮が咲いています。

睡蓮の花言葉は「信仰」

ここで童磨さんの出自が回想されます。

 

童磨さんは生まれついた容姿により、幼少期から〈万世極樂教〉の教祖として機能させられていたそうです。

ご両親から『特別な子』と認識されたことで宗教者にさせられ役割を与えられたとのことですが、今も昔も親の過度な期待は子どもを歪にさせる要因になると考えます。

実際に童磨さんの家庭のような事例もあるらしいですし。

 

そんな年端も行かない頃から役割として機能させられていた童磨さんは、教祖としての自覺を持ちます。

 

ところでこの部屋、前述の通り一面に水が張られています。

そんななので「蚊がすごそうだなぁ」などと素朴な感想を憶えました。

 

胡蝶しのぶさんは蟲柱であり、繰り出す技も蜂と蜻蛉、百足などが描写されました。

蚊も蟲だけど、登場してないだけで着想を得た技とかあったりするのかしら?とふと思ったのですが、蚊=吸血=鬼 を連想させることからそんな技はないのだろうなと思うと同時に、もしかしたら舞台が水張りなのは『蚊を連想させるため』という意図すらもあったのか?などと妄想します。

 

 

それはそれで思考放棄

童磨さんの回想にて「なぜ神や仏は存在せず、人間が作り出したものなのにそれを氣付かないのだろう。どうしてそんなにも愚かなのだろう。人は死んでも肉が朽ちて骨だけになる。極樂も地獄もない」と疑問を持つ場面があります。

 

はい。

言いたいことは分かるのですが、なぜ『神はいない』と言い切れるのでしょうか。

ちょっと難解な考え方になりますが〈無い〉を肯定するためには〈有る〉が必要になります(『ものがない』というのは、その "もの" が〈有る〉から〈無い〉という事象が起こる)。

なので『有るわけがない』『絶対に無い』『存在する』を証明していることになるのです。

 

もちろん、神であったり仏などの存在は目に見えず "所謂神然としたもの" ともわたしは出会ったことがありません。

確かにそういったことから神は概念や觀念といったものと捉えた方が適切だとも感じます。

 

しかし、だからといって「神なんていない」とは言い切れないだろうに、わたしはそう考えています。

『神は見たことないんで、存在するかとか分かんないっすね』が最も理性的な判断じゃないのかしら、と、わたしは感じます。

 

なので「神は人間が考えた嘘っぱち」という童磨さんの価値觀は、『自分が正しいと思い込むための思考放棄』でしかないと、わたしは感じます。

 

 

また童磨さんは物質面に価値觀が偏り過ぎているように感じます。

仰る通り、人間もとい生命は命が尽きると朽ちます。

色々な生命の力をお借りして土へと還ります。

しかしその土はやがて草木を生やすこともあるでしょうし、水を濾過する機能を有することもあります。

思考する人間、そんな一方の考えだけで存在しているわけじゃないと思っています

 

わたくし、生物の本質とは次への橋渡しだと考えているのですが、人間の橋渡しは想いの継承です。

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人が死んでもその人とした会話は覺えてたりするものですし、感銘を受けた話ってのはその人自身が亡くなった後でも語り継がれます。

その継承の形として古典というものがあると思われますし、たとえ『鬼滅の刃が歴史に埋もれる作品となったとしても祖父母と孫との個人間で「昔『鬼滅の刃』って良い作品があってな」と話題に上がるだけでも継承には繋がるわけです。

 

あんまり物質面だけ見て「人は死んだら終わり、死んだら何も残らない」と断言するものじゃないですよ。

 

 

あと自身が宗教教祖として活動する以上、否定している神の威を借りていることになるので結果的に神という存在や觀念を肯定していることになる。

とはいえ童磨さん自身は当人が自称しているとおり頭が良い部分もある人だとは思いました(ですが扇子も屏風も描かれているのは蓮なのに、拠点には睡蓮を咲かせてるんですね。ほんまに頭いいの? お花に興味がないだけ?本当に頭いい?)。

 

 

不足感、劣等感

童磨さんと相対した胡蝶しのぶさん。

実姉の仇であることを悟り猛攻を繰り出します。

 

格好良かったですねー。

基本わたしは戰闘に興味がないのですが、それでも格好良く映りました。

 

童磨さんを建物の天井へ突き刺す場面は一枚絵としても美しい。

 

 

しかし童磨さんの方が上手。

お姉さんの仇撃ちの想いを果たせず、敗北を期して取り込まれてしまいます。

流石に完結済みの作品ですし原画展に行ってもいるので童磨さんが死ぬことは存じていますが、この〈取り込む〉ということが自身の身を滅ぼすことになるとは、童磨さん自身も誤算だったかな、などとも思ったりします。

 

それはともかく童磨さん腹立つし非常に氣持ち悪くて不快。

 

 

『戰闘においては冷静さを欠いた方が負ける』なんて聞きますが、童磨さんは人の嫌なところを突くのが巧い。

胡蝶しのぶさんが自身の背格好に劣等感を抱いていることを目敏く指摘します。

 

こういった〈相手の劣等感を刺激する〉という行為は、童磨さん自身が宗教教祖として活動していた経験から身につけたのだろうかと予想します。

相手が氣にしているところを追求し『それを克服するには我教えに従いなさい』と組み伏せることで自身の宗教を維持してきたのだろうと考えることもできるからです。

 

しかし『たとえ〈相手の氣にしていること〉に氣付いた』としても、その後の行いで結末はまるで別なものになります。

柱稽古編にて岩柱の悲鳴嶼行冥さんが産屋敷さんのことを「自分がほしい言葉をかけてくれる人」と認識されていました。

童磨さんと産屋敷さんは全く相いれぬ真逆の存在に思えますが、その実同じ要素を持っているのです。

〈相手の氣にしていること〉を追求するか、受け入れるか。

 

この分岐は自分本位相手本位かで分かれます。

言わずもがな前者は童磨さんであり、劣等感等で相手を支配することで万世極樂教という宗教を維持して自身の食料(人間)を補充していたのではないでしょうか(あくまでも一憶測)。

一方で後者「別に劣等感を感じることすらも『その人』ってだけじゃね。あと短所と長所は表裏一体。短所だと思っても調理方法次第で色んな料理になるし」といった具合に受け入れ、救済の行動を取ります。

 

ちなみにこの劣等感や不足感を植え付けて利用しているのが、資本主義社会であったり學歴社会であると感じております(童磨さんが口にされていた「頑張ってる人、好きだよぉ」もそれを物語っている)。

んでそれを増幅させたのがこれまでの少年ジャンプ作品。

 

 

「もう少し背が大きければ」と嘆く胡蝶しのぶさんの願いに対して、また『自分がもっとこうだったら』という理性を重ねて共感された方も多くいらっしゃったのではないでしょうか。

 

嘆く氣持ちは確かにわたしも身に覺えがありますが、嘆いたってどうしようもないじゃないですか。

どこかのビーグル犬が「配られたカードで勝負するしかない」と曰く言っておりましたが、そうするしかないんですよ。

まぁその覺悟になるためには嘆くことも必要だったりするのですけどね。

 

嘆くのも覺悟を背負うのも、《受け入れる》というものであるように思うので本質的には同じだと感じます。

ですが『嘆く』ってのは悲劇に対して言いなりになっているということだと感じます。

悲劇に見舞われて悲嘆に暮れ、自分の人生は最低なものだったと悲觀して自死を選んだとしたら、"その人の人生を悲劇だと決定した" のは他でもない【その人自身】になるわけです。

最後の最後まで味方であるべき自分自身が、自分自身を傷めつけるってのは、悲しすぎるじゃないですか。

 

人間ですから嘆く時間は必要不可欠だと考えています。

その時間の長さや深さは人によって違うとも思っていますが(一般相対性理論)、嘆きに飲まれてはいけない。

世界は悲觀的に演出した方が儲かるし、生物の生存本能からも意識は悲觀しやすいようになっているようですけどね。

 

あと不思議なもので《自分が不足感を覺えたこと》があったために生じた肯定的なものごとや、それが無ければ起こりえなかった考え方ってのもあります。

そりゃあ人生は分岐の連続ですから当然だとも思いますけどね。

 

 

とはいえ、これらをお読みいただいて「結局は綺麗事じゃねえかよ。自分の悲しみを理解してくれる人なんていない。分かってくれる人なんているわけない」と思われた方もいらっしゃることでしょう(数年前までのわたしもそうでしたし)。

 

 

うるせーよ!分かるわけねえだろうが!

てめえの人生、てめえの感情はてめえのものなんだから他人に明け渡そうとするんじゃねえよ!

感情ってのは財産だよ。おまえしか持ってない財産なんだからてめえ自身で味わいつくせや

冨岡義勇さんも「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」と言ってただろうが!

 

 

ちなみにわたくしも恥の多い全く愚かな人生を浮樂浮樂と生きてまいりましたが(現在進行形)、なんだか最近「この愚かしさも、今後 "経験" として活きるのだろうな」と何故か確信めいております。

データ取りですよ。

 

 

 

ところで数年前に『霊感商法で幸せになった人間なんているわけないだろ』というご意見を見かけました。

その時にもやっぱり「どうして "いない" なんて言い切れるんだろう?」と不思議でなりませんでした。

余命幾許もない状況で宗教的なものに出逢い、それによって救われた氣持ちで亡くなった人がいたとして、その宗教的なものは詐欺の実態があっても当人が救われた氣持ちでこの世を去ったのならばそれは〈幸せ〉と判断できるのではないか?

わたしはこのように思いますが、あなたさまは如何お考えでしょうか。

 

あんまり言い切るもんじゃないと思います。

言い切るのはその考えに対しての不安感(言い切れるだけの確固たる根拠がない)が強いからだと感じています。

 

あともちろん大前提として詐欺はいけません。

 

 

自分が嫌だったことはしない

身体の各所を痛めつけられ、劣等感を思い出すようなことを言われ、胡蝶しのぶさんは仇を討てないことに強い失望を覺えます。

 

この時に「悲鳴嶼さんがいてくれたら」と考えていらしたので「鬼殺隊最強と噂されてますもんね」と安易に思いましたが、いえいえ胡蝶家が鬼に襲われた際に助けられたのですね。

そりゃあ死に瀕した際に助けを求めたくなるのも納得です。

 

 

『自分のしあわせは永遠に続くと思っていたけど、薄い硝子の上にあるいつでも壊れるものだった』

『自分がされて嫌なことは人にはしない、ができない』との回想します(後者はうろ覺え)。

 

胡蝶しのぶさんは強い方だなあ、と感じました。

 

「自分がされて嫌なことは人にはしない」とは、ごくごく当然のことだとは思います。

ですがどうにもそれができていない人の方が多いというか、さも通過儀礼の様にそれを是とする方や過去に被った鬱憤を発散するかの如く自らも同じ行いをする、ある種の弱さを抱えている方がどうにもこの世には多くいらっしゃるようです(そんなことを言っているわたしは "そうならぬよう" と氣をつけているつもりですが、実際のところはわかりません)。

 

 

考慮すべきは「昔は『自分がされて嫌なことは人にはしたくない』と思っていたけれど、時が経つにつれて自分が嫌なことをする様になった。そして過去に思っていたことを忘れている場合」です。

 

記憶とは必要に沿って処分・整理されるもので、そうでないと脳みその許容値が一杯になってしまうので過去の記憶を忘れるというのは生理現象の一つであろうと感じますが、『鬼滅の刃での敵である鬼の皆様は過去の重要な記憶を忘れています。

考えすぎの類ではあるでしょうが、非常に暗喩的な示唆が込められているとも感じます。

 

ここまで超根源的な道徳を説いている作品もそうそう無い、むしろ少ないのではないでしょうか(あんまり少年向け作品に明るくない)。

本当に素晴らしいなと思います。

 

 

日輪刀の鍔

やっぱり童磨さんは好きになれない。

自分本位で、自分の思い通りにするために相手を理解したふりであったり思い遣りがあるかのような言動をしているように感じるから。

 

なんというか「自分の知っている範囲だけで相手を当てはめようとしている」ような感じがします。

つまり『考えているふりをして、その実、自分が樂をするために考えを放棄している』状態ということですね。

 

いえ、人間は見知ったものでしか認知・判断が難しいようではありますが "この方は自分がこれまでに接してきた人と果たして同じだろうか" と一度立ち止まり、考えることは必要だと考えております。

人には思い込みや《感じたことを正しいと思おうとする心理作用(確証バイアス)》があるらしいですからね。

 

 

 

しかし童磨さんは腹立たしいですね。

どうしてそうも感情を煽るようなことをいうのだ。

と思いましたが、どの世界でも実利を優先する宗教的なものは相手の感情を煽るものですわね。

資本主義的価値觀ですわ、ホホホ。

 

目に見えてわかりやすい宗教だけでなくとも、感情や不安を煽れば理性的な判断は難しくなりますからね(実はこの世の中、そんなものが溢れていますよ。巧妙に広告で包んでいたりします)。

そういった意味合いでは童磨さんは宗教教祖としては優秀なのかもしれません。

 

 

 

鎹鴉さんより胡蝶しのぶさん殉死の報を聞いた炭治郎さんと冨岡義勇さん。

言葉は発さずとも衝撃と混乱、落胆していることが見て取れます。

 

この場面で注目したのは炭治郎さんが携えている刀の鍔。

この鍔は『無限列車編』にて殉死された炎柱の煉獄杏寿郎さんより受け継いだものであり、炎の形をしております。

こちらの鍔、実は隊士の心理状態を現す要素として一役持っているとわたしは考えています。

炎が燃え上がる向きになっている場合はその人自身が心を燃やしている、ということなのですが、胡蝶しのぶさんの訃報を聞いた時は炎が逆向きとなっていました。

「帯刀して走っていたからでしょ」と考えることもできますが、そうであれば "炭治郎さんと冨岡義勇さんの表情" だけを映せばよくて、わざわざ炭治郎さんの表情からカメラを引いて画角に身体を納める必要なんてないじゃない?と思いますからね。

 

ちなみにこの鍔での心理描写は今回の映画で幾度も描写されます。

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根っこのない大木は無い

責任を背負う

人は変わって我妻善逸さんの闘い。

鬼の遠隔攻撃によって無限城に落とされた時から落ち着いております。

落ち着いているっていうか怒りを抑えている感じ?

 

その理由は兄弟子の獪岳さんが鬼殺隊士から鬼に寝返ったことと、それが原因で育手の桑島慈悟朗さんが責任を取るために切腹をしたからです。

【柱稽古編】のOP映像で善逸さんを担当しているチュン太郎さんが血相を変えて飛んでいる場面がありますが、あそこは自決の報を伝えるために急いでいたのでしょう。

 

 

獪岳さんを前にした善逸さんが「切腹を行う際に介錯を付けずに一人で亡くなった!」と激昂します(この時の声がまた良いんだ。それまでの善逸さんと違い、お腹の低いところから出してるみたいな声で良いんだなこれがまた)。

介錯とは切腹を行った人の、主に頸を落とす役割を担っております。

その理由として腹を斬っただけでは容易に絶命ができず、出血多量となって死ぬため苦しみが長く続くのだそう。

切腹の際に介錯を付ける理由は「切腹を行った人が長く苦しまないように」という情けからきているらしいですね。

切腹を行う、という行為と覺悟。それ自体が贖罪の意味を為しているのだろうかと思います。

贖罪の意思表明が重要(ただし死ぬ)ということですかね。

 

こちらを原画展にて見て以来、今回育手の桑島慈吾朗さんが切腹自決した際に介錯をつけなかったのはてっきり『苦しみを長く感じることで謝罪の意思表明をした』のだとばかり思っていたのですが、もしかしたら『責任は全て自分が背負う』という意図だったのかもしれないと鑑賞時思いました。

いくら仕事として介錯をしていたとて、人を殺めることには変わりません。

人を殺めるという業を他者に背負わせるわけにはいかないという考えもあり介錯なしで切腹を行ったのか、とそんな想像が出てきて陰鬱でした。

 

 

利己主義の終焉

善逸さんが激昂をして叫んでも兄弟子の獪岳さんは知らぬ存ぜぬ我関せずの言葉を並べます。

 

獪岳さんの意見としては以下のようなものでした。

  • 善逸さんという落ちこぼれと抱き合わせで雷の呼吸の継承権を授けたことが氣にくわない。
  • 弱者は奪われて然るべき。弱者であったのが全ての理由。
  • 自分を正しく評価しなかった人間はどうなろうと、そんな人間が死んでも知らないし、むしろ当然である。
  • 自分が鬼になった理由は自分の能力を正しく評価したからだ。

この意見を聞いていて、特に最後に書きました『自分を正しく評価してくれる組織に移籍した』という意見に対して「全く現代的だ」と思いました。

 

獪岳さんの意見を全て否定するわけではないですし、往々にして従業員を正しく評価しない組織やそう感じる方も多くいらっしゃるでしょう。

実際に赤い大国や青い大国の企業に人材が引き抜かれている事例も多いと耳にします(とはいえ、わたしが当人自身から見聞きしたわけではないので実際は不明。これをお読みいただいている皆さま、あなたさまの感覺を大切になさってください)。

こればっかりは不況が起因していたり政治的な國家運用が理由にあると感じます。

が、『〇〇が全ての元凶である』みたいに簡略化するのは厳禁です。

【原因】と【結果】の間には《過程》が存在しますからね。

江戸と大坂の間には関ヶ原があることは無視できませんでしょ。

 

 

〈自分を正しく評価してくれる組織に移る〉という行為は非常に理性的ではありますが、同時に利己主義も孕んでいます。

利己主義というのは簡単にいえば『自分さえ良ければ他人なんてどうなろうと知ったことじゃない』という価値基準ですが、事実、自身の感情で鬼に寝返った獪岳さんの影響で桑島さんは自決をしました。

 

【利己主義】を身近なものごとで喩えてみましょう。

自分が作った技術等を同僚などに横取りされ、その人間が出世した。

横取りしたことを咎めると「そんなのうかうかとしていたそちらの責任でしょう。あまりに世に出さないから発表してあげたのです。恨むならご自身を恨んでは?」との返答。

 

ゴミが出た。

近くにゴミ箱もないので道に捨てた。

理由は手が汚れるし片手が塞がるから。

 

旅行者が歴史的文化のあるものを削ったり落書きをした。

「思い出として欲しかった」

「自分が来たことを誇示・保存したかった」

 

転売行為で稼いでいる輩

 

このような利己主義や自己責任論が平成頃から跋扈しておりましたが、そんな一時代に主流だった価値觀が敵として配置されていて、その作品がここまで売れているのです。

 

売れる云々については広告でどうとでも煽動できるとは思っておりますが、ここまでの歴史的ヒット(【無限列車編】は日本國内の映画興行成績歴代一位です)は広告代理店の力だけでは流石に成し得ないのではないでしょうか

ここまでの人氣には時代の潮流、つまり大衆の共感があったからだと感じています。

 

鬼の価値觀は利己主義で物質的な、ヨーロッパ的なものですが、正直現代において日本人の多くは限界を感じていたんじゃないかと思います。

資本主義は富を生むけど貧富格差も生む。

 

その様な思想の加速によって生じる必然的な軋轢を敵役に配置している。

大衆の共感が理由なのか、その作品は歴史的な快挙を挙げている。

それらのことから「本当に利己主義が主流の社会は終わっていくのだな」と鑑賞中に思っていました。

 

 

ところで獪岳さんの声かっこいいですね。

「いい声してるなぁ〜」と思いました。

 

 

攻撃性に隠した劣等感と羨望

獪岳さんは善逸さんに対して非常に強い劣等感を感じておられる様です。

そしてとても強い羨望も。

 

獪岳さんは善逸さんのことを落ちこぼれと責めます。

その理由は善逸さんが雷の呼吸の壱ノ型しか使えないから。

 

善逸さんご自身でも以前にそちらについて言及していたように思いますので氣にされています。

それこそ劣等感ですね。

しかし善逸さんを『壱ノ型しか使えない落ちこぼれのカス』と追求する獪岳さんは壱ノ型 "だけ" 使えないらしく、そのため善逸さんには「俺がカスならアンタはクズだ!」と言い返されます。

ほらほら、そんなに煽らないの…と思います。

 

 

獪岳さんが善逸さんに対して強い劣等感を感じている理由、それは【雷の呼吸】は壱ノ型が全ての技の基礎となるかららしいです。

 

自分が習得できなかった壱ノ型を習得している存在に強い憧れと劣等感がある。

イソップ童話の『すっぱい葡萄』と同じ理屈で《手に入れられないものは否定した方が樂》なのですね。

方々で言われますが攻撃性とは臆病の裏返しですから(自戒)()。

 

壱ノ型だけ使えないために劣等感を覺え、同期の隊士とも打ち解けられない獪岳さんが前にしていたのは鬼灯みたいでしたが、鬼灯の花言葉は「偽り」「誤魔化し」「心の平安」「わたしを誘って」です。

兄弟子に対しての陰口を許せなかった善逸さんは上の位の隊士を殴ったそうで、どうやらその行動が獪岳さんの抱える不甲斐なさを刺激したらしく、二人の対立は広がります。

 

 

よぉく考えよう。基礎は大事だよ。

挙句、獪岳さんは「基礎がなんだ!壱ノ型しか使えないことと壱ノ型以外が使えるのなら、色々な技を使えた方がいいだろうが!」との主張を口にします。

 

これはね、違いますよ。

 

 

わたくしごとで恐縮ですが、わたくしギターを十九年ほど嗜んでおります。

それだけの期間取り組んでいれば、ある程度の技術にはなりますが(まだまだ下手ですが)、五年?ほど前までは基礎を軽視していました。

理由は単純に「つまらないから」という全くつまらないものですが、基礎の練習をしていなかったためことあるごとにフレーズを間違って弾いたり、それによって自分自身を責め苛む自傷的な否定言葉が脳みそにポッポッと浮かび中々辛かったです(責め苛んでいるのはあくまでも自分自身。敵は血に潜んでる)。

 

「じゃあやめたらいいじゃん」というご意見が聞こえてきそうですが、わたしにとってギターは生きる糧です。

『食事を一切せずに生きてください』

『一生寝ずに天寿を全うしてください』

などと依頼されても「それはちょっと無理な相談👋」とお断りになると思いますが、わたしにとってのギターは食事や睡眠のような生活に必要な類のものなのです。

 

そんな【生きる理由】たるギターですが、わたしが基礎を怠っていたばかりに上手く弾けなければ自己否定的な言葉が頭を占める。

〈生きるためにしている〉のに《自己否定が加速される》というのは、なかなか生き地獄であろうと思います。

 

ですがまぁ理由は判明しているわけじゃないですか。

なので基礎を練習しました。

避けていたことってのはいずれ対峙せざるを得なくなるものみたいです。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

ギターの基礎練習でごく一般的なのはメトロノームを使ったクロマチック練習です(好きな曲をテンポ60で弾くのでもかなり練習になる)。

練習過程は今回の話では必要ではないので省きますが、基礎練習は面白がり方が分かれば大変楽しいものです(鳴らしたい音符の長さが違う』や『演奏フレーズにおいての音符の場所が違う』など。眠くはなる)。

 

反復に次ぐ反復をすることで技術が身につくわけですが、基礎は本当に偉大です。

 

目に見えてギターが上手くなりましたし、間抜けな間違いも減りました。

樂器は求道だと思っているので死ぬまで勉強となりますが、『練習方法を知った・得心した』というのは大変な上達と言えると感じます。

 

とんちか何かに聞こえてしまいますが、練習方法を知るためには練習を繰り返すしかないのですね。

それを努力と呼称なさる方もいらっしゃいますが、わたし個人としては通過儀礼だと感じております。

 "好きこそものの上手なれ" なわけですから、好きなことを突き詰める以上は努力とかで形容される甘ったれた他者評価とかではないのです。わたしはそう思います。

あと別に好きなものでなくとも、一つのことを極限まで突き詰めたら、たとえ出発場所は違えどもたどり着く場所は同じなのではないかと感じております。

全く異業種の超一流が対談しても話が通じるというのはそれが理由です。

 

その境地を至高と呼ぶのか真理と呼ぶのか禅と呼ぶのかは人それぞれですね。

至高の果てまで。

 

 

といった自身の経験から獪岳さんの意見は微笑ましく思いました。

基礎を軽視する人は一角の存在にはなれません。

 

 

基礎とは根っこです。

根っこのない大木なんてものはないのです。

 

 

教育方針と復讐と

あとこの善逸さんと獪岳さんの戰闘は「苦手を無くそう」と「強みを伸ばそう」の二つの教育方針にある対立も内包していたのかもしれません。

 

スペシャリストとゼネラリストなんて呼称されるらしいですが、〈一つのことを突き詰めた、けれどそれ以外はあまり得意じゃない人〉と〈なんでもできる様だけど "突出した何か" は持っていない人〉の闘いです。

前者のスペシャリストが善逸さん、後者のゼネラリストが獪岳さんです。

 

戰後教育では平均教育が推奨されておりますので、圧倒的ゼネラリストの方が多いと考えます。

 

しかし平均教育って全ての要素をできるだけ平均値に近づける教育方針なので、どうにも "全てにおいて基礎ができていないんじゃないか?" と思います。

納期が決まっているため全てを平均値に持っていく必要があり、それによって基礎固めが疎かになっている。そんな印象。

 

それに対してスペシャリスト。

スペシャリストを別の尺度で解釈すると『理由が分からないと動けない人』でしょうか。

「これやって」との要求に対して「それをやる理由が分からんと動けんす」と意見する方々です(わたし)。

俯瞰して見ると非常に面倒な存在ですが、理由が知りたくなるのは仕方ないじゃんとも思うし、正直行う理由を理解せずに『必要とされてるから。いいからやれ』と思考を放棄してる人もたくさんいる。

 

ゼネラリストを納品することが推奨されている社会では落ちこぼれだとかとも言われたりします。

一つのことしかできないのですからね。

わたしもこっちです。

 

 

ところでこのスペシャリストとゼネラリストの攻防?というのは案外色々なところで繰り広げられているみたいです。

 

陰キャ陽キャとかいう下らない仲間意識の括りがあるじゃないですか(わたしは飲キャの酔キャでいたい)。

 

すごく狭義で言うと複数人で過ごすのが好きか、個人で過ごすのが好きか、という解釈ができます。

陰キャと形容される方々はオタクやnerdなんて言われます。

 

しかしオタクやnerdと呼ばれ揶揄される人にはスペシャリストが多くいると感じており、多くの漫画家さんも陰キャと形容される學生生活を送ったのではないかと誠に勝手ながら思います。

 

何故だかオタクやnerdと呼ばれる方は陽キャとされる方からの揶揄対象となる様ですが、そんな揶揄の対象だった方が紡いだ作品が少年誌などに掲載されて揶揄をしていた人びとを夢中にさせているのです。

これって最高にthat's cool!な復讐だと思うんですよね。

にやにやしちゃう類のもの。

 

漫画家さんだけに留まらず、我々が使っているすまとほんの類もスペシャリストたちの産物ですし、Googleの各種サービスもそうだと感じます。

ゲーム機器やソフトの類もそうです。

 

おもろい‪( ¨̮ )‬

 

 

ここで大事なのは「スペシャリスト=陰キャと言われている人 ではない」ということで、なおかつ「ゼネラリストも特定の物事にはスペシャリストたる部分がある」ということです。

 

とはいえ、〈揶揄したりからかって来た人の派閥〉を夢中にさせるものを作り出せたというのは氣分が良いものだったりするのだろうな、と性惡なわたくしは勝手ながら思います。

 

 

善逸さんと獪岳さんの闘いは《スペシャリストとゼネラリストとの闘い》もとい《両者を生む教育対立か》と考察しましたが、スペシャリスト側である善逸さんが勝利したのはある種の願いが込められているのかもしれません。

 

「そりゃあ主人公側なんだから善逸さんが勝つでしょう」という至極もっともな現実的ご意見もありましょうが、なんでもできる平均オールラウンダーが重宝される価値觀の世の中において【一つのことを突き詰めた人】が一矢報いるというのは痛快でありますし、同じ特性を持っておられる方々の希望にもなると思いますしね。

 

ちなみにこれを言ったら本末転倒かもしれませんが、どっちの教育方針に舵を取ってもスペシャリストとゼネラリストは生まれます。

ゼネラリスト育成教育で合わなかった人は必然スペシャリストになりますし、逆にスペシャリスト育成教育が肌に合わなかった人は萬仕事が得意なゼネラリストになるのでしょうね。

 

 

人には向き不向きもあります。

適材適所という言葉もあります。

ギターが弾ける人が周りにいなくて、たとえ少数派だったとしても、ライヴハウスに行けばギターが弾ける人なんて沢山います。

ある場所では異端でも環境を変えれば一般になるのですよ。

 

 

補い合う。

獪岳さんが鬼になった理由の一つに〈雷の呼吸〉の継承権の話があります。

 

呼吸の継承権は通常一人にだけ与えられるのですかね?

その継承権を善逸さんと獪岳さんと二人に与えた、それが獪岳さんは氣に入らなかったそうです。

自身の臆病と憧れに蓋をする為、落ちこぼれと口にしたその人と同じ立場なのが、より感情を逆撫でしたのでしょうか。

 

しかし恐らくですが〈壱ノ型だけ使える人〉と〈壱ノ型以外を使える人〉とで互いを補い合うことを學んでほしかったからこそ、桑島慈吾朗さんは雷の呼吸の継承権を二人に付与したのだと思います。

獪岳さんには焦りと共に自身の弱さを認めるということを恐れている節も感じます。

 

ギターの基礎練習で學びましたが、弱さやら欠点を認めないと、人間ってものはどうやら成長できないみたいですからね。

育手の桑島さんは『自身の欠点を認め、他者を尊重する。その上で "できること" と "できないこと" を補い合う様になってほしい』という願いも込めて継承権を二人に与えたのではないかと感じます

 

そしてその願いを慮ることも含めて成長。

自身の弱さと向き合わなかった獪岳さんが招いたことなのでしょう

が、愈史郎さんそんなに煽る必要あった?

 

 

一つのことを極めた善逸さんが自身の型を編み出したそうですが、これも『 "極めたからこそ" 自身の強みに合ったものを手に入れることができた』という表現なのですかね。

あと自身の攻撃で落下していく善逸さんを見ている時に獪岳さんが口にしていた台詞(「俺が認めたものが善だ」みたいな内容)が、あまりにこれまでのジャンプ漫画の主人公的価値觀で笑ってしまいました。

 

 

考えろ。

考えろ、考えろマクガイバー

善逸さんの仇撃ちが終わり炭治郎さんの場面へ転換します。

 

ふと思ったのですが、胡蝶しのぶさんが仇討ち失敗の後に善逸さんの仇討ちが成功というのは、読み手や鑑賞者の感情誘導を意識しておられたりするのでしょうか

負け続きだとどうしても氣が落ち込みますもんね。

ですがこれは〈一本の映画〉として觀ているから感じたことでしょう。

連載時は胡蝶しのぶさんの殉死から善逸さんによる獪岳さん撃破まで何週間もあったでしょうし、週ごとのアニメ放送でも少なくとも二週間ほどは開くでしょうしね

なので「ふと思ったこと」は考えすぎです。

 

 

わざわざ構造物を破壊してまで猗窩座さんの方から出向いて来てくれました(骨が折れなくて助かる)。

煉獄杏寿郎さんの仇を討つため、『あの頃とは違う』との想いをもとに猗窩座さんに挑む炭治郎さん。

「腕を斬れ。ここで斬れなければ頸なんてきれない!」との想いを原動力にして実際に斬ったり、頭に剣戟を入れたりして猗窩座さんを関心させます。

そこで冨岡さんも加勢し、すっごい戰闘へ。

 

鍛錬を重ねて確かに強くなった炭治郎さんですが、まだまだ猗窩座さんの方が圧倒的に強者。

鍛え上げられた攻撃に防戰一方の炭治郎さん。

 

この時、炭治郎さんは猗窩座さん撃破のために考えることをやめるな。思考を放棄するな」と自身に語りかけますが、これもただ状況好転のための施策を考えているだけではないと感じます。

 

前述しましたが、「考えない」ことや「考えることを辞める」というのは、とても樂です。

何故ならば考えなくていいから。

実際、現代昨今では我々の生活から考えることを手放させようとしている潮流があると感じています。

AIの発展などがそうですが、"考えを辞める" というのは〈相手(あるいは誰か)の言いなりになる〉ということでもあると考えておりまして、それはつまり服従です。

 

 

対猗窩座さんとの戰闘で《思考を放棄する》とは、即ち【死ぬ】ことを意味します。

炭治郎さんがこの戰闘で命を落とすと煉獄杏寿郎さんの仇も討てなくなりますし、全ての元凶である鬼舞辻無惨さんを打倒すること、そして妹の禰豆子さんを人間に戻すという願いも潰えてしまいます

 

なんとか劣勢を脱せないか、脱するとっかかりはないかと考える炭治郎さんは猗窩座さんが好んで用いる『闘氣』という言葉に注目をします。

 

 

自分よりも格上の場所に身を置く

無闇に刀を抜くことも命がけの手合わせをすることも好まないらしい冨岡義勇さん。

自身が久しぶりに対峙した圧倒的強者の猗窩座さんとの撃ち合いで命がけの手合わせがいかに自分の成長に繋がるかを理解します。

そして痣が出現。

 

猗窩座さんとのすごい格闘を繰り広げますが、猗窩座さんに日輪刀を折られてしまいました。

 

 

『自分が成長するために、自分よりも格上の環境に身を置く』というのがあります。

実際これはとても成長に繋がります。

だって〈自分が住んでいた世界の当然〉とは領域が違うというか【当たり前】の位置が違いますからね。

自分よりも格上の環境に身を置くことで格上の常識が自分自身の身につく、ということです。

 

 

あ、そういえば獪岳さんは上弦の壱・黒死牟さんと対峙した際のことを思い出し「圧倒的な強者にひれ伏すのも間違っちゃいない」と話されていましたが、ここも冨岡義勇さんと対比してるんですかね。

圧倒的強者と相対した時に、ひれ伏すのか立ち向かうのか。

 

 

闘氣

「なんで見えてへんとこからの攻撃やのに防がれるんやろか。。てか闘氣ってなんやろ…。。わしが感じとるところの匂いみたいなもんやろか」と考えを巡らせると、ある記憶が思い出されました。

遊郭編】の後に蝶屋敷で共に療養した伊之助さんとの会話です。

 

「なんで死角からの攻撃避けれたん?ばり凄ない自分?」

せやねん。わて凄いねん。山生活しとったから肌の感覺が常人のそれを凌駕しとるってことやろな!せやから相手から攻撃する意思を感じた時点で、ビーン分かるわけや。あれやったら弟子にしたろか? あ、でも屋敷におったあのババアはけったいやったな。知らん間にわての後ろで握り飯持って立っとんねん。ほんまけったいなばばあやったで。何もんやねんあのばばあ。ところでわての弟子になるか?」

「ばばあじゃなくてお婆さん!」

 

〜〜〜〜〜〜〜〜

 

「そういえば伊之助が似たようなことを話していたぞ…。お婆さんはどうして感覺が鋭い伊之助に氣付かれず近づけたんだろう…」

 

 

伊之助さんが話していた『殺意』や『攻撃意思』を猗窩座さんは【闘氣】として認識している。

その【闘氣】を感知することで死角からの攻撃も避けているのではないか。

炭治郎さんはその様に推測しました。

 

あるでしょうね。

一つのものを極めた人は常人の理解から外れていますからね。

 

あと猗窩座さんは武道の達人じゃないですか。

"道" とは求道なので到達するのはそう易いものではありませんが、確実に一線は超えた人物だと感じます。

そういう方なので何百何千と想定の戰闘と実戰を繰り返し、鍛錬を行っていたのだろうとも思います。

 

なので「想定外のこと」も半ば想定内として処理することができて対処もできる、ということでもあるのだろうと勝手ながら考えます。

 

身近なもので喩えると「歳を食ったことで子どもの頃の様に色々なことに驚けなくなった」という状況と近いように思います。

 

 

鍛錬を続けろ

もうひとつ。猗窩座さんへ斬りかかった際に猗窩座さんから不可避の一撃が繰り出されましたが間一髪避けることができた炭治郎さん。

その時に避けることができた理由を考えた炭治郎さんは過去の記憶を思い出します。

 

それは今は亡き父、炭十郎さん在し日にした会話です。

「お父はんってなんであんなに長く神樂が踊れるの?疲れんの?しんどかったら代わるで??」と質問する炭治郎さんに父は答えます。

「せやな〜、最近は不思議と全然疲れへんねんな。今より若かった時分、体力も筋力も今よりあった時の方がしんどかったくらいやわ。

でもま〜、あれやな。疲れるっちゅうのは要らん力が入っとるからやねん。何度も繰り返しとったらそのうち〈どう力かければええんか〉が分かってくる。逆に言うと〈どう力を抜けばええんか〉が分かるんやな。そうなると必要な動きだけすればええっちゅうことになるもんで、長くお神樂さんを踊れるんやな」

 

ちょっと超共感するんですけどー!!!

作者の吾峠さん何か一つのことを極めたことございます????

 

基本的になんでも反復となりますが、一つのことを反復し続けることで昨日は氣付かなかったことに氣付くことができるんですよね。

『さっきまでできなかったことが今回はできた。どうしてだろう?』であったり、『難しいところになるといつも筋肉が強張るな』であったり。

 

 

お神樂さんを踊ることについて、炭十郎さんは続けます。

「なんでも繰り返しや。繰り返しとるうちに体が動きを覺えて何も考えんでも踊ることができる。ほんでそうなったら閉じる。必要な技術を身に付けて、舞踊することだけに集中しとったらな、世界が澄んでくんねん。透き通るんやな。世界」

 

 

この《反復を繰り返すことが重要》という話を息子の炭治郎さんに伝えている時、庭先では炭治郎さんのごきょうだい様達がけんけんぱをして遊んでいました。

けんけんぱという遊びは親きょうだいが幼い子どもたちに教え伝える遊びとして一般的ですが、この遊びは反復が必須になります。

 

また炭治郎さんと炭十郎さんとが話し合っている時に作成しているのは、草鞋でした。

作成する姿を見ても分かる通り草鞋は藁を繰り返し編むことで完成いたしますし、草鞋は履き物。

歩く為に用いるものです。

これらから分かることは「繰り返しが重要」と「歩く為に用いるものを親から子へ継承している」ということであり、それはそのまま『人生を歩むにあたって、めげずに繰り返すことが大事であり、いずれは完成する』ということを示唆している様に感じました。

 

無意味と思えることでも、生きていれば活用できる出来事が何故だかぽっと登場したりします

〈やってる意味のないことが大切〉ということです。

 

 

 

またまたわたくし事で恐縮ですが昨日ギターの練習をしていたのですね。

ギターなどの弦樂器は各弦の太さが異なることで和音を響かせたりすることができるのですが、弦によって太さが異なるために奏でた際の音量も違います。

太い方が大きい音が鳴るのですが、ということは『違う弦を同じ強さで弾いたって、太い弦が細い弦の音を食ってしまう』という事が起こり得ます。

単純な理科の話です。

どうしてこんなに単純なことに氣付かなかったのでしょう。

十九年目にしてそんな初歩的なことを知りました。

そこに氣付けなかったわたしはヘタクソです。

脳みそが雷に撃たれたかの様な衝撃と共に、自分が今まで如何にぼんやりとギターを弾いていたのかを痛感いたしました。

 

ですので弦によってピッキングする際の強さを変える練習を始めました。

すっっっごく難しい。

愉しい!!!!!!!!

 

それなりにギターを弾いてきた身ですが、まだまだ発見があることに大きな慶びを覺えます。

 

しかしまあプロとして演奏されてる方ならばこの程度は誰でもされてることでしょう。

 

あとピッキングの際に「指の腹を意識するのか、少し指先側で楕円形にした力で意識するのか」でフレーズの弾きやすさだったり音の変化もするということも知りました。

 

 

『透き通る世界』

炭十郎さんから透き通る世界の聴いたのち。

炭十郎さんが死去する十日前。

 

山で熊が出るという噂が流れていたそうです(町人が何人も殺められているとの話を聞いた時、わたしの脳裏には鬼の存在が過りました)。

 

炭十郎さんが床に着いていたところ、ふと目覺めてあることに勘づきます。

同じ部屋で寝ていた炭治郎さんを起こし、外へ連れ出しました。

 

深雪の森を進むと、でっけえ熊がいました。

月の輪熊さんですね(そういえば熊の到来を知らせる鈴は一切鳴っておりませんでしたね。それこそ氣が感知したのでしょうか)。

 

成人男性の二倍くらいある背丈にすっかり驚いて腰を抜かしてしまう炭治郎さん。

一方のお父さんの炭十郎さんは冷静で「おなかが空いとるんやろうけど、わしの家族に危害を加えるんやったら容赦せんよ」とくまさんへ警告をします。

 

しかしくまさんはくまさんの言語を持っている為に人間の言葉は通じません。

 

炭十郎さんに襲いかかりますが、炭治郎さんは斧一つで瞬きほどの間にくまさんの頸を斬り制圧してしまいます(この出来事について今思うのは「自分の平穏を脅かす存在に対しては毅然とした態度で接する。それでもことばが通じなければ実力行使的な対応も已むなし」ということでもあったのかしら?とか思ったけれど、きっと短絡的な解釈だな)。

 

 

炭治郎さんは回想します。

「あれは父による最初で最後の看取り稽古だったのではないか」

 

恥ずかしながらわたしは學がないので看取り稽古という言葉を初めて聞きました。

調べてみたところ〈手取り足取り教えるのではなく、行う様を見せ、教えられる側の觀察力・洞察力で多くを感じ取らせる〉という手法の稽古なのだそうです。

 

 

斧が切れる範囲ではくまさんの頸を一振りで落とすことはできない。一度切り上げた後で瞬時に斧を持ち替えて振り下ろした。常人の速度ではない。透き通った世界ではそこまでできるのか」

「実際、不可避の一撃を受けそうになった時に意識を閉じて回避することにだけ集中していた。すると猗窩座さんの筋繊維から骨格とまで透けて見え、攻撃を回避することができた」

透き通る世界の存在を肌身に感じた時、猗窩座さんの脳みそ越しに炭治郎さんがカットされますが、ここの表現がいいですね。

脳みその中で縦横に移動している光はシナプスだと思うのですが、このシナプスは『炭治郎さんが猗窩座さん撃破のために考えを巡らせている』という表現としても機能しているのです。

これはおそらく映像化によって追加された部分なのではないかと思いますが、素晴らしい表現だなと思います。

 

 

ゾーン

少年漫画作品、特に戰闘要素のある作品では繰り出す技に名前が付いていることがほとんどです。

 

わたし戰闘要素にほとんど興味がないので、その様な技名とかってのは少年漫画が対象としている "少年" が真似するためのとっかかりとしてある、所謂〈キャッチーさ〉の演出程度に思っていました。

ですが今回猗窩座さんの戰闘を見ていて「それだけではないのかも」と感じました(上記要素は商業的な意味合いとしてあるとして)。

 

主にスポーツの業界でよく耳にしますが〈ゾーン〉というものがあるそうです(『All My Homies』良いですよね)。

これは一つのものごとを突き詰めた人だけに訪れる境地と言われ『集中が極限まで高まったことで、時間がゆっくりと流れたり、相手の行動が見えたりする』のだそうです。

 

猗窩座さんは武人として達人の域に到達している方だと感じるのですが、達人であるゆえに、その〈ゾーン〉への入り方を知っているのではないか?と思ったのです。

 

『氣分が動転しやすい方が【特定の行動】をすることで自身を落ち着かせる』という対処法があるそうですが、〈ゾーン〉へ導入する "きっかけ" となる、その簡易的な近道として技名の呼称があるのかもなと鑑賞していて感じました。

 

こんなことを思いつくだなんて思いもよりませんでした。

 

 

もしかして《技名を呼称する》などのフィクション的なきっかけやとっかかりではなくても、無意識で行っている癖などもきっかけになっているのかもしれません。

無意識のうちにしている癖はその人を安心させたり、緊張をほぐしたりしているそうですからね。

しかし無意識ではなく意識的に行ったことの方がきっかけという意味では有効かもしれません(親指で中指と藥指とを交互に触れるとか)。

 

 

 

武人への敬意

「闘氣ってのを察知することで死角からの攻撃も対処してるのか?

 

猗窩座さんの秘密(秘密?)を推察した炭治郎さん。

「この仮説が正しいんなら闘氣消したら近づけるんじゃね?」と考えます。

 

この推察は正しく、猗窩座さんは冨岡義勇さんへの口上に夢中で炭治郎さんが背後に立っていることに氣付いていません。

そんな状況に大層驚く冨岡義勇さん。

 

『そのまま鬼の頸を切れ…!』と願いますが、当の炭治郎さんは「猗窩座ァ!これからお前の頸を斬る!」と叫びを上げ、『莫迦正直に次の一手を打ち明けた!』と冨岡義勇さんに衝撃と困惑を与えます。

 

原作未読勢なので漫画での表現がどの温度感なのか不明ですが〈緊張と緩和の意味合い〉として、つまりギャグ的な意味合いとしての演出かしら?と思いましたが、これは憶測ですし、劇場にいらした觀客の皆様一様に「なんでそんな要らんことするんや…!」と思われていた様に感じます。

そして憶測ついでにもう一つ憶測を披露しますが、炭治郎さんが猗窩座さんへの宣言した理由は【武人への敬意】を表してだと思いました。

 "背後から切り掛かる" 

つまり不意打ちに対して、炭治郎さんは卑怯だと思ったのではないでしょうか。

 

【無限列車編】で夜明けを恐れた猗窩座さんが逃げた際に炭治郎さんは「逃げるな!闘え卑怯者!」と非難していましたからね。

 

 

突然背後から宣言をされ、驚き隠せない猗窩座さん。

「ちょ待ー!!なんでワイが氣配悟れんかったん??もしかして闘氣消した???そんなことできるの???!」

この映画内では初めて余裕のない表情をされていました。

 

 

「赤子ですらうっすらとあった」と言及していた闘氣、それを無くした炭治郎さんにひどく動揺する猗窩座さん。

全く異質な存在になった炭治郎さんに猗窩座さんは頸を切られました。

 

しかし負けを認められない猗窩座さん。

すっ飛びそうになる頭を押さえて、頭と頸とを再びくっつけようとします(往生際が惡い)。

 

その往生際の惡さ(理由は明かされる)に圧倒されるも「好機逃すまじ」と冨岡義勇さんが自身の日輪刀を投擲し、猗窩座さんの行いを阻止します。

これ、わたしゃ二回目の鑑賞で氣付いたのですが、これも対比なのですよ。

 

冨岡義勇さんの日輪刀は猗窩座さんによって折られています。

物語の前半部分で花柱・胡蝶カナエさんが亡くなった際、傍に置かれていた日輪等は折られていました。

しかも相手にしていた上弦の鬼である童磨さんは討つことができませんでしたが、同じく「柱、日輪刀が折られている、上弦の鬼が相手」という状況で、対猗窩座さんとの戰闘では撃破することができた。

 

これって柱として、一隊士としても報われるということになるのではないでしょうか。

おそらく胡蝶カナエさんの最後を冨岡義勇さんは存じていないと思いますが、これこそ鬼殺隊が、そして産屋敷さんが永遠だと表現しているものなのではないかと思います。

継承です。

 

ちなみにこちらの対比は二回目の鑑賞で氣付きました。

「!!〜〜〜!!!!!〜!!!」と驚きすぎてもだもだと悶えていました。

 

 

觀念を放した世界

あと個人的に『透き通る世界』というのは《觀念》を手放した状態ではないかと思います。

 

猗窩座さんは「闘氣」という觀念を頼りに修行を重ねておられた次第だと憶測いたしますが、逆にいえば《闘氣という觀念に頼っていた》から闘氣という觀念に "縛られていた" 》から、猗窩座さんは至高の領域その場所まで行けなかったのではないか?ということです(もしかしたら猗窩座さんは「闘氣」を炎として認識していたので、視覺情報よりも「闘氣」の情報を主な判断基準としてしていたのではないでしょうか。でも炭治郎さんや善逸さん、伊之助さんのように視覺情報よりも別な判断基準を主として判断しないと達人的な場所にはいけないのだとも思う。我々が思っている以上に我々は視覺情報に頼っておりますからね)。

 

これはわたしが勝手に考えているだけですが、"真の肯定" とは拒否も否定も、ましてや肯定すらもしないものの様に感じます。

『ただ受け入れる』というか。

 

「存在している」ということは、必要だから存在しているのですよ。

という考え方です。

 

 

なので猗窩座さんが認識している所の『闘氣』を手放せた炭治郎さんの方が上手で、猗窩座さんに打ち勝てたのではないかと感じます。

別の表現をすると《自分の常識を取っ払えたから次の次元に行けた》ということです。

敵は知に潜んでる。

 

 

回想

罪を憎んで人を憎まず

冨岡さんによる「炭治郎を倒したくば、この俺を倒してからにしろ!」という発言により『俺たちは太刀は持っていないが心に太刀を持っている』という言葉を思い出し、猗窩座さんの生前の回想が始まります。

 

 

奉行所で折檻を受ける生前の猗窩座さん。

猗窩座さんの身体には特徴的な模様がありますが、生前に行った罪の入れ墨が由来なのですね…。

お奉行さんが「こんな折檻しても氣絶もへこたれもせんと盗み繰り返すって、自分逆にすごいな?そろそろいい加減にしとかんと腕切ることなるで?」と口にしても「上等じゃあ!腕無くなっても足で盗みやったるわ!見とけよ!」と反論し、まためった打ちされます。

い、威勢が良いな…。

 

生前の猗窩座さんが盗みを繰り返す理由、それは病氣がちな父親への藥代を稼ぐ為でした。

「藥代が高いんだよ」と口にしていましたが、その昔は今よりもっと藥の類は高かったでしょうね。

 

折檻から帰宅すると父親の世話周りが始まりますが、お父さんががりがりに痩せ細って背骨まで浮き出ていたのは痛ましかったです。

あの様子だと寝床も煎餅布団でしょうし横になるだけでもしんどいんじゃないかしら。

 

そしてこの描写はヤングケアラーさんのことですよね。

近代以前の日本では病氣がちな親を介護するという描写は色々な作品でされています。

現代日本でも実際にヤングケアラーさんはいらっしゃるのだと思いますが、巧妙に被されていたりするのでしょうかね(資本主義は『反応のいいもの』だけを取り沙汰しますから)。

 

 

生きるために犯罪をするというのはいつの時代もあることでしょう

 

もちろん犯罪を行うことは褒められた行為ではありません。

しかし生きるためという命題、世に生を受けた以上は天寿を全うする必要があります。

ですが〈生きるということ〉を全うするために "あまり褒められた行為ではないことをしないといけない" のは大変なジレンマでしょうね。

 

同じ境遇にいない人間が「だとしても犯罪は良くないよ」と言ってしまうのも配慮の足らない正論だと感じます。

『〇〇は良くないから廃止しましょう!』と声高に主張するけど、廃止した際の代替案を考えていない、みたいな無責任さを個人的に感じます。

 

 

そんな猗窩座さんが父親のために行動して帰ってきた時、町人から父の訃報を聞きます。

しんどい。

 

父のために行ったことで結果的に父が自死を選ぶ。

父親自身は自分が理由で息子が盗みを働いたり痛めつけられていることを知っている。

息子は「自分の苦労は?これまでの介抱は無駄だったの?」と怒ることもできるが、父の行動も息子を思ってのことである。

やりきれないです。

辛いですね。

 

お父さんのお墓を前にして「貧乏人は満足に生きることも許されないのか」と怒りと嘆きを口にしますが、これは真っ当な怒りというか、遣る瀬無い感情が根本原因に向かうのは当然とも思います。

そしてこの言葉は現代社会を生きる多くの方々の感情でもあるでしょう。

 

これはこれで短絡的な考えなのだろうとは思いますが、社会保障で生活が困窮するなんてどんな皮肉なんだと思いますし。

 

 

お父さんを亡くした猗窩座さん(狛治さん)は荒れます。

荒れて犯罪を繰り返し、江戸を追われ、流れ者になります。

 

流れ着いた場所でも悪さを働いていましたが、そこである人と出会います。

 

今まで負け知らずだった狛治さんを完全に圧倒した慶蔵さんは身寄りなき狛治さんを自身の道場に来る様促しますが、前科者である狛治さんは躊躇います。

そんな狛治さんに対して慶蔵さんは「罪人のお前は俺がぶっ飛ばしたからもういない!」と口にしました。

 

めちゃくちゃ心意氣がいい。し、罪を憎んで人を憎まずの姿勢に涙が出てきそうです。

 

 

慶蔵さんが狛治さんを自身の道場に来させたい理由、それは一人娘の恋雪さんの体が生まれつき頑丈ではないため、そのお世話も頼むためでした。

慶蔵さんもご自身の伴侶を入水自殺にて亡くされており、道場の運営と我が子の世話は男手一人ではどうにも回らないので働き手が欲しかったのも理由です(明るく話されておりましたが、事故や病氣などではなく伴侶その人の意思で自決して亡くされているというのはかなりお辛いご経験をされていますね。。)。

 

 

お手玉

素流道場で稽古を付けられながら恋雪さんのお世話もするようになった狛治さん。

 

恋雪さんの遊び道具なのか狛治さんがお手玉を使っていましたが、年月の経過としてお手玉の数が増えて行くのだろうなと思いました

そして実際に増えていったのですが、ともすればこれは年月の経過だけではなく狛治さん自身の内面の変化も表していたのかもしれません。

 

素流道場に来た時はまだ自分のことで手一杯だった、あるいは "自分だけしか信じていない" 状態であったが、年月を経ることで他者のことも信頼できるようになり慶蔵さんや恋雪さんのことも思い遣る余裕と共同体感覺が芽生えた。

 

そのような狛治さん自身の内面成長の表現としてもお手玉の数が増えるという描写があったのかもと考えます。

 

後にある『お手玉が破れて中の小豆がこぼれている』という描写も、狛治さん自身が壊れたという表現なのだろうなと思います。

ちなみに〈破れたお手玉〉が「素流道場に来てはじめに狛治さんが使っていたもの」かは觀ていません。もしかしたら、藝が細かいかもですね。

 

 

なんてことない一言でも

自身の世話で手を煩わせていることで何度も謝罪をする恋雪さんへ「なぜ病氣がちな人はすぐに謝るのだろう。本人が悪いわけではないし、本人が一番辛いはずなのに。自分のことは自分でしたいだろうに」と不思議に思う狛治さん。

これってよくあることらしいですね。

なので作者の吾峠呼世晴さんは介護経験者なのではないかという意見を見かけました。

 

 

「今夜町で花火が上がるらしいので觀に行かれたらいかがですか。いつも道場にいるのも味氣ないでしょうから、氣分転換にもなって良いと思いますよ」と水を向ける恋雪さん。

狛治さんは「そうですね、恋雪さんの氣分が落ち着いたら背負って橋までいきましょうか。もし今日行けなくても、来年再来年も花火は上がるでしょうから機会はいくらでもありますからね」と答えますが、こーれ恋雪さんからしたらめちゃくちゃ嬉しかったと思いますよ。

 

 

人が生きられるかどうかって『生きたい』と思う意思がその人にあるからだと考えております。

 

多くの健康に恵まれた多くの方は「明日も明後日もそのまた明日も」と無意識のうちに生きられることを願っておられますが(半ば確信に近い)、生まれつき体が強くない方だったり悲觀的な見方をしがちな方だったりすると、その確信が確信では無かったり揺らいだりします。

 

端的に言うなら「弱氣になる」と言うことなのですが、この弱氣はあらゆる希望などを削いで行きます。

 

希望が削がれていくと「自分は果たしていつまで生きられるのだろう」という悲觀的な考えをする様になりますが、そんな悲觀で押しつぶされそうな時に何の疑いもなく未来を確信した、未来に向けられた言葉をかけられた想像をしてみてください。

ともすれば『自分には生きる資格がない』と思っていた状態の時、「あなたは生きていい。そんなことは当然ですよ」という言葉をかけられたのと同じだと感じますし、それはそれは救われたと思うのが当然じゃないですか。

泣きそうです。

 

ここが良いのは〈恋雪さんが生き続ける前提〉として狛治さんが考えていただろうこと。恐らく恋雪さんが一番望んでいたであろう老衰を当然のこととして話していたことです。

泣きそうです。

 

 

ちなみにこの手法を使って支配したり儲けようとする人も居られると思いますのでお氣をつけください。

あ?もしかして狛治さんとの対比で童磨さんの万世極樂教のお話がある?

 

 

 

ところで恋雪さんの瞳にはお花が咲いています。

花びらが五枚なので「バラ科のお花だ」と思ったのですが、バラ科は植物界でも一大勢力。

沢山の種類があります。

鑑賞時にぱっと思いついたのは桜・梅・桃ですが、梅は上弦の禄であった堕姫さんと被ります。

 

どうにも登場人物を我が子のように想っているように感じる作者の吾峠呼世晴さんの性格的に、被るようなことをされるかなぁ?と疑問を感じる次第です。

そして劇中でも示唆するような描写はない。

 

結局何のお花かわからなかったので調べましたところ、同じバラ科の植物でも種類によって花びらの形が違うそうです。

恋雪さんの瞳に咲いたお花は花びらが尖っていたので桜や桃ではありません。

 

ざっと調べたところ花びらが丸いバラ科の植物は、苺・さんざし・梅・杏などです。

 

そして各植物の花言葉は以下。

  • 苺は「あなたはわたしを喜ばせる」
  • さんざしは「希望」
  • 梅の花言葉は「忍耐」
  • 杏の花言葉は「臆病な愛」

恋雪さんの心情が伝わるようです。

 

むしろ恋雪さんの心情を表現するために、あえて特定の植物を描写しなかったのかもしれません。

確かに人の感情や想いは一つではなく、様々入れ替わりますものね。

 

ちなみ同じバラ科の桃には「わたしはあなたのとりこ」という花言葉があるそうです。

 

 

そういえば狛治さんが素流道場にやってきてから月日が過ぎた頃、恋雪さんの床の間に桔梗っぽいお花が飾られていました。

桔梗の花言葉には「変わらぬ愛」というものがあります。

 

 

 

自らの行いが自らを救った

三年の月日が流れ恋雪さんの体調も良くなった頃に狛治さんは慶蔵さんより素流道場の跡取りを打診されます。

「恋雪もお前のことが好きだと言っている」と慶蔵さんが口にした時の狛治さんの反応と、恋雪さんが顔を赤らめているのと、両方とも可愛いらしかったです。

 

狛治さんは罪人の過去があることから自身の未来をうまく想像することができませんでしたが、道場相続の打診がきっかけで未来に希望を感じます。

 

これは狛治さん自身が素流道場や恋雪さんのお世話を献身的に行っていたからこそ、もたらされたことなのでしょう。

因果応報です。

 

そして恋雪さんは狛治さんの発言や行いによって未来を見ることができましたが、狛治さんは自分自身で自分も救っていたということではないでしょうか。

 

 

その日の夜?に数年越しの花火を狛治さんと恋雪さんの二人で觀に出かけます。

この場面良かったですね。

案の定狛治さんが「今年だめでも来年再来年も花火は上がるから、また行ける時でいい」という発言を覺えていなかったのも含めて良かった(案外人を勇氣付けたり救ったりするのは、なんてことのない氣取っていない言葉だったりします)。

 

花火の一件で恋雪さんと夫婦になる決心と素流道場の相続を決心した狛治さんはお父さんのお墓参りに出向きます。

 

その帰り、隣の剣道道場の姑息な手によって慶蔵さんと恋雪さんが毒殺されてしまいます。

実の父に続いて第二の父と愛する人の死に目にも立ち会えなかった、狛治さんの心痛がこちらまで伝わってくる様でした。

 

すぐさま隣の剣道道場へ殴り込みに行きますが、妥当ではありますね。

復讐を終え、世界への絶望を感じていた時に鬼舞辻無惨さんと出会って鬼になった。

というのが狛治さんが猗窩座さんへと成った事の顛末です。

 

遣る瀬ねえ。

全く遣る瀬ねえ。

 

まだ救いかなと思うのは鬼になるきっかけが狛治さんご自身の意思ではなく無惨さんの氣紛れっぽいところです。

 

 

そういえば『鬼の社会は西洋主義的だ』と【無限列車編】にて考察致しましたが、鬼はやたらと勧誘をしますね。

キリスト教の素晴らしさを布教したい!」とお節介で侵略を繰り返していたヨーロッパ諸国みたいです。

 

 

いや??

狛治さんにおいては慶蔵さんから道場へ誘われた記憶があり、それによって更生できた過去があります。

そのことから恩義を感じており、知らぬ内に第二の父である慶蔵さんを模していたのかも…?などという酔狂な妄想をしました。

 

 

 

 

煉獄の炎

父親、第二の父である慶蔵さん、そして恋雪さんとの記憶を思い出した猗窩座さん。

自身の無念や不甲斐なさのために怒り心頭となり炭治郎さんらに怒りの矛先を向けます(八つ当たり)。

そういえば鬼舞辻無惨さんの出自でもそうでしたが、鬼って他責思考が基礎になってます?

他責思考とはつまり『自分は悪くない!〈どれそれ・誰それ〉のせいで自分はこうなった!』という考え方なのですが、そんな考え方をしていたらそりゃあ辛いよな。

他責・自責思考は極に振れてたら共によくないですが、結局「自分も悪かったが相手も悪い」と落としつけたほうが精神的に健康になります。

 

しかし先に幽世に言っていた慶蔵さんや恋雪さんの言葉、そして炭治郎さんの拳によっって完膚なきまでに敗北を期していたことを悟った猗窩座さんは、自身の技を自分自身に向けて放ちます。

 

自身の不甲斐なさを父親と師範の慶蔵さんに詫び、生前の記憶を取り戻した狛治さんと恋雪さんとが抱き合い、その二人を炎が包んでいました。

これは魂を浄化する煉獄の炎でしょうね。

 

つまり煉獄杏寿郎さんです。

先にあの世へ行った煉獄杏寿郎さんが狛治さんの猗窩座さんたる罪の部分を浄化させるために煉獄の炎を寄越したのでしょう。

非常に煉獄さんらしい。

 

そうなると【無限列車編】にて煉獄杏寿郎さんが亡くなったのもお話の展開的に必須であった?と考えることができますが、これはあまりに酔狂な考察。

 

 

そういえば上弦の禄・妓夫太郎さんと堕姫さんの時も同じく煉獄の炎が迎えていましたが、上弦の伍・玉壺さんと肆・半天狗さんの時は煉獄の炎はありませんでした。

止ん事無き理由で鬼になった、や、情状酌量の余地がある場合は煉獄杏寿郎さんも受け入れるのでしょうかね。

 

 

生きてて良かったね

猗窩座さんを撃破した炭治郎さんと冨岡義勇さんは過労で氣絶しその場で突っ伏します。

物語の主人公が退場するわけにはいかないので、まさか亡くなるなどは思ってはいませんでしたが、思わず「生きてて良かったね…」と思いました。

 

‪鎹鴉の皆さまが「冨岡義勇!竈門炭治郎!ともに上弦の参を撃破!」と他の隊士に伝え飛びます。

あの士気が上がる感じいいですね。

時透無一郎さんが『やってくれると思ってた!』みたいな表情をしていたのも良かったです。

 

 

猗窩座さん敗残の報を受けて、他の鬼も動揺を感じていますが、黒死牟さんが思いの外怒ってて八つ当たりしていました。

八つ当たりしたってしょうがなくないですかね?やっぱり鬼は幼稚なのではないか。

 

 

伊之助さんが刀の先で鎹鴉さんを脅していたのには劇場全体が相好を崩していた様に思います。

しかも「一番強いやつまで連れて行け!」と鎹鴉さんへ言っていたのに、自らが強者の氣配を感じ取ったら案内を無視して突っ込んでいくところなんてあまりにも伊之助さんでした。

 

という様に続き物の映画作品として模範的な終わり方だったと思います。

 

 

莫迦の一つ覺え

本編の一番最後、無限城の一角に籠って治癒している鬼舞辻無惨さんが「今日で鬼狩りは終いや!生まれて来たことを後悔させたる!死んだら無やで!」と発言されていましたので莫迦の一つ覺えかよ、とも思いました。

そんなわけないだろうに。

 

『死んだら終わり』

『死んだら生きていた意味がない』

という主張やご意見は一理あるとも思いますし、わたしもそう思っていた時期があります。

しかし今では「全部が全部そうとは限らないだろ」と考えております。

 

〈死んだら終わり〉とは意識なりのことかとも思いますが、死んだからこそ誕生する生命もあります(きのこが朽木に生るように)。

 

また〈死んだら生きていた意味がない〉との考えは否定させていただきます。

炭治郎さんの回想が全てを説明しておりますが、たとえ人や生物が亡くなったり物が壊れてしまっても思い出は無くならないでしょう。

確かに記憶というものは忘れたりもいたしますが、ふとした瞬間に思い出すことがありますし、忘れていた記憶が年単位の月日を超えて活用されるということもあります。

 

「意味がねえ〜、無駄だ〜、無駄無駄ラッシュだ〜」と思うことでも、その後の人生に必要だったり今意識を向けるべき何かがあるから発生しているのだと思います。

性格が全く合わない人間からでも學ぶことは実際にあります。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

あと、もし昔のわたしのように『自分の人生には意味がないと感じられている方』や『自分の人生に意味や価値を見出せない方』がいらっしゃる場合は、「あなた様ご自身が《他所様へ意味や価値を与える人間》になればいい」んじゃないですかね。

知りません。ご自由に生きてください。

ぺこちゃん。

 

 

最後に

「男性の持つ弱さに蓋をしていたのが少年ジャンプ」という仮説

鬼滅の刃が歴史的に売れたのは圧倒的な母性があったから』という考察を見ました。

実際、この『鬼滅の刃』という作品に触れていると、どうにも作者の吾峠呼世晴さんは登場人物たちを自分の子どものように思っているのではないかと感じます。

そこで向けられているのは母性です。

 

しかしこれまでの少年漫画は父性が中心になっていたと思います。

〈マッチョイズム〉ですね。

〈マッチョイズム〉思想は確かに鼓舞する性質があるとは思うのですが、それと同時に男性が持っている臆病さや弱さというものに蓋をする作用もあると感じています。

採血時の様子だったり、手術などで「それまで自分自身だったもの」を見れない人は割合として男性の方が多いとも聞きますしね。

 

昭和、平成の時代は『男がガンガン働いて、女は家に入り家を守る』という価値觀が主流だったようで、性別での【役割】が明確に分けられていたそうです。

育児などが女性の仕事の代表とされていた時代ですが、子どもが生まれても育児に参加しない家庭が多かった時代でもあると思われます。

『産後の恨みは一生』と言われるほど男性は家事や育児には参加しなかったわけですが、それって男性側に意氣地がなかったからではないかと推察しています。

 

その意氣地無さ、不甲斐なさに蓋をする要素として「過剰な父性の誇示」が必要であり、その【蓋】を増長・機能させていたのが少年ジャンプもとい少年漫画なのではないかと考えます。

 

別に弱いことが悪いとは思わないのですが、"弱さを自覺すること" を避けていたのがよくなかったのですね。

再三申しますが、弱さを自覺して受け入れないと成長なんてありません。

 

 

限界にあったマッチョイズムを打破した母性

資本主義はアメリカという国が代表的であり、マッチョイズムもアメリカ由来の価値觀で、資本主義とマッチョイズムとは非常に親和性が高くあると感じます。

 

八十年前の戰爭で負けたことにより(先に亡くなられた方々の責任にするつもりは "一切" ありません)、アメリカの思想が是として流入されたのは仕方のないことだとも思いますが、資本主義が限界を迎えているように感じる現代。

資本主義と親和性の高いマッチョイズム=父性も同様に限界が近く、色々な軋轢も生まれていた。

軋轢に喘ぐ人が多く無意識に母性を求めていた人が多かったために、母性の塊で作られているような『鬼滅の刃』が歴史的、世界的に人氣が出た。

ということもあるのではないかしら、という一妄想です。

ぺこちゃん。

 

 

一応書いておきますが『男性性・父性・マッチョイズムが惡』と言いたいのではありませんよ。

なんでも極端になるのが良くないのです。

 

 

おーわり

以上で『劇場版 鬼滅の刃 無限城編 猗窩座再来』の感想と解釈は終わりです。

とても長い。

これで他所様の感想を見聞きすることができるぞ!

 

 

無限城編は全三部作だそうですが、各回で今回の様な長さになるのかもしれないと思うと言いようのない感情になりますね。

どんとこい!

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬